中国の走狗「二階俊博」とパンダ



白浜パークに初めてパンダが来たのは、バブル経済絶頂の昭和63年(1988年)9月で、平成元年(1989年)1月10日までの期間だった。

僅か3カ月間だ。思い出していただきたい。

その時期は、昭和天皇のご病状が悪化し、あらゆる祭事が自粛された時期だった。そして、天皇崩御の1月7日の直後の、1月10日に、このパンダは中国に帰っている。 

南紀の和歌山と言えば、二階俊博議員が政界の有名人だ。

二階議員は田中角栄派で、市場開放が始まる直前の昭和53年(1978年)に初当選している。南紀白浜は、その二階議員のお膝元だ。
二階議員は今では、自民党に復しているが、平成5年(1993年)、小沢一郎と共に自民党を離党し、新生党を結成した小沢の盟友だった。

中国の陰湿な手口は、天皇陛下の尊厳と権威を否定することだ。

我々日本国民は、平成21年12月、中国共産党国家主席胡錦濤の後継者、習近平来日の際に、小沢一郎が天皇陛下のご公務をゴリ押しで捻じ曲げた非礼を知っている。この小沢一郎の暴挙といい、昭和63年の白浜パンダ園の非礼といい、この2名は、中国には膝を屈し、天皇陛下の尊厳と権威に挑戦した。

二階議員は、「超」がつく親中派だ。

平成12年(2000年)、自公連立政権が誕生した年、日中国交回復30周年記念として訪中した日中文化観光交流使節団に対して、江沢民前中国国家主席が行った講話を、碑にして和歌山県に建てようと動いたと伝えられたのが、二階議員だ。
白浜パークに初めてパンダが来たのは、バブル経済絶頂の昭和63年(1988年)9月で、平成元年(1989年)1月10日までの期間だった。
幸い、和歌山県民は、こんなバカな碑を建てることには反対する理性を示した。}

「ボツになった石碑のデザイン」


平成18年9月誕生の安倍政権に、左翼マスコミの激しい政権攻撃がつづいた。自公連立政権に軋みが目立ち始めた。平成19年9月、安倍政権を、福田内閣が引き継いだ。マスコミによる日本国首相いびりの常套手段である、
「靖国参拝をするかしないか」で、踏み絵を踏ませられる前に、福田首相は「人のいやがることはしない」心得だと控え目に意思表示した。

その12月、二階議員は、晴れて、福田政権の産業経済大臣として、経団連などを中心とした訪中団の団長として訪中し、歓迎を受けている。

訪中団団長ということは、中国側がいかに高く、二階議員を評価しているかの証しだ。

二階議員への評価とは、一体何のか? 江沢民が二階議員を直接、間接に後押ししているのか? あるいは、江沢民のご機嫌を伺う胡錦濤の中国国内向けジェスチャーなのか? それとも、もっと重大な、日中関係に、支配・被支配の状況を醸成するのに、二階議員が、知ってか知らずか、利用されているのか? 昭和63年(1988年)、昭和天皇のご在位最後の年、中国の国家主席は鄧小平だったが、江沢民は中央軍事委員会主席として、鄧小平の後継者として地歩を固めていた。

江沢民は既にその頃から、天皇の尊厳を否定する中国共産党の急先鋒だったとみられる。


福田内閣の平成20年5月、来日した胡錦濤が、創価学会池田会長と握手を交わす場面が載った雑誌「SGI」の広告が、日刊各紙に出ていた。

「SGI」は、創価学会(ソーカ・ガッカイ・インターナショナル)の頭文字をとった、創価学会発行の月刊雑誌で、外向けの広報誌だ。

「日本大王」を僭称する創価学会会長と、昭和天皇の尊厳を否定した中国共産党国家主席江沢民の後釜、胡錦濤の握手写真だ。どうして、一宗教法人の池田会長に、中国共産党国家主席胡錦濤が、面会と握手の時間を割くのか? 
尤も、この面会写真は、別の場所、別の日に撮られてものかも知れないのだが。

パンダと田中角栄。パンダと二階俊博。二階俊博と江沢民。江沢民と胡錦濤。胡錦濤と池田大作。平成21年8月の選挙で自公の選挙協力が解かれ、

二階派の議員はみな落選した中で、和歌山の二階俊博ご本人は議席を確保した。しっかり公明党の支援を受けているのだろう。

中国共産党要人の常套句、「中国は旧い友人を大事にする」は、パンダの姿をとって、和歌山の政界でも役割を果たしている。(つづく)
最終更新:2011年03月08日 01:10