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    <title>皇国史 @ ウィキ</title>
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    <description>皇国史 @ ウィキ</description>

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    <title>平成２１年１０月２４日～２６日　琵琶湖東へ</title>
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    <description>
      *平成２１年１０月２４日①　竹生島

琵琶湖の周辺には、戦火をまぬがれた名所がたくさん残っています。 

今回は、これまで通り過ぎることが多かった琵琶湖の東側の名所を巡ることにしました。 

伊丹空港から高速道路を利用して滋賀に入りますが、やはり割引の影響でかなり渋滞していました。 

まず彦根に入り、彦根港から竹生島へ観光船に乗って上陸する予定を組んでいましたが、昼食もとらずに急いだおかげで、なんとか１２時３０分発の汽船に間に合いました。 

運行会社はオーミマリンで、彦根港と竹生島の間を１日に４往復しています。 

天気は曇り。 

紅葉にはまだ少し早いかと思いつつ、竹生島の美しい景観を楽しみに、４０分の船旅を楽しみました。 

そしてようやく見えて来た竹生島の、無残な姿。 

まるで白骨のように枯れた木々が、並んで地面に突き刺さっているのです。 

手入れが行き届いていないのか、それとも気候変動のせいなのか。 

どちらにしても、琵琶湖で最も美しいと言われる景色がこのように変貌してしまっていることは、非常に残念でもあり、心配でもありました。

その竹生島に上陸。 

拝観料を支払って聖地へと足を踏み入れます。 

階段の途中で右に曲がり、まずは竹生島神社を参拝。 

都久夫須麻神社と表記することもあります。 

雄略天皇３年に創建され、浅井姫命が祀られました。 

浅井姫命は滋賀県で２番目に高い山である浅井岳（金糞岳）の神で、１番高い息吹山の神である多多美比古命の姪です。 

『近江国風土記』は、２神が背比べをしたところ浅井姫の方が高く、怒った多多美比古命は浅井姫の首を切ってしまい、その首が琵琶湖に落ちて竹生島になったと伝えています。 

竹生島と金糞岳の高さを足すと、ちょうど息吹山の高さになるそうです。 

その浅井姫が祀られた竹生島に、聖武天皇の勅命によって弁財天が祀られ、神仏習合の祈りの島となりました。 

木曽義仲追討の祈願を行った平経正公や織田信長公なども参詣に訪れています。 

国宝に指定された本殿は、太閤秀吉公が天皇をお迎えするために伏見城内に建設した「日暮御殿」を神殿として寄進したものです。

竹生島神社から、船廊下という空中回廊を通ると、西国第三十番の札所である観音堂に到ります。 

船廊下は、豊太閤の御座船「日本丸」の船櫓を利用して作られた廊下で、急斜面の崖に足組みをして作られています。 

観音堂では、札所巡礼の人々が経を読んで祈りを捧げていました。 

唐門は、京都東山の豊国廟の極楽門を移築したもので、こちらも国宝に指定されています。

そこからまた階段を登ると、弁財天が祀られる本堂が見えて来ます。 

江ノ島・宮島と並ぶ日本三大弁財天の一つで、聖武天皇の勅命を受けた僧行基が開眼したものです。 

弁財天は神道の宗像三女神と同一とされ、海や陸の交通安全の神として信仰されて来ました。 

竹生島神社は三大弁財天の中で最も古く、弁財天発祥の地とされています。

竹生島で最も高い所に建っているのが、鮮やかな朱色の宝厳寺三重塔です。 

文明１６年に建てられましたが江戸初期に焼失し、その後再建されました。 

ここから見下ろす琵琶湖の風景も格別でした。 

鎌倉時代のものと思われる五重石塔もあり、こちらは重要文化財に指定された七基の五重石塔の一つです。 

復路の出発時間まで７０分間、竹生島の全てをめぐることができました。 

売店では、土産物やちょっとした食事が置いてありましたが、そこで食べたじゃがいも原料の串餅が、味といい食感といい、大変美味しいものでした。

*平成２１年１０月２４日②　多賀大社

曇り空はなかなか晴れず、そのままこの日最後の目的地である多賀大社に向かいました。 

多賀大社には伊邪那岐大神・伊邪那美大神の二柱の神が祀られています。 

国産みを終え、神産みの途中、火の神を産んだところで伊邪那美大神はその炎によって火傷を負い、死んでしまいました。 

その後、伊邪那岐大神は黄泉の国へ妻に会いに行くのですが、そこで見たのは恐ろしい姿に変貌した妻の姿であり、急いで地上へ帰りついた後、穢れを祓うために禊をした際に産まれたのが、天照大御神や素戔嗚です。 

その後、伊邪那岐大神が鎮まった地には２つの説があり、『古事記』では近江の多賀としているのに対し、『日本書紀』では淡路国としています。 

『古事記』は、写本の過程で、誤って淡路が淡海とされてしまったという説が有力ですが、ここ多賀大社は古くから現在まで変わらぬ崇敬を集めています。

境内に駐車場はなく、多賀町役場向かい側にある大駐車場に車を停め、細い道を５分ほど歩くと、大鳥居が見えて来ます。 

大鳥居のすぐ後には太閤橋がかかっています。 

正式には太鼓橋ですが、豊太閤の多賀信仰の篤さから、太閤橋と呼ばれています。 

古例大祭では、この急な橋を神輿が渡ります。 

実際に渡ろうとすると、上りはそれほどでもないですが、下りは足元に注意が必要でした。

太閤橋を渡り、神門をくぐると、横に広く広がった拝殿が見えて来ます。 

その奥には幣殿と、千木を戴く本殿があり、更に奥には神の森がうっそうと茂り、正面から見ると奥ゆきのある重層的な構造に目を奪われます。 

昇殿参拝等の受付終了時刻も近く、境内にはそれほど多くの人はいませんでしたが、車いすに乗った方たちが揃って参拝していました。 


お伊勢参らばお多賀へまいれ 
お伊勢お多賀の子でござる 


お伊勢七度　熊野へ三度 
お多賀さまへは月参り 


などと言われて、全国から多くの崇敬者が参拝に訪れています。

受付終了にぎりぎり間に合い、奥書院と庭園の拝観をさせていただきました。 

天正１６年、豊太閤は母の病の平癒祈願を多賀大社で行い、小康を得たお礼として、１万石の寄進を行いました。 

その際に築かれたのが、先ほど渡った太閤橋と、この奥書院庭園です。 

鶴島・亀島・三尊石を池中に配しています。

奥書院は、かつての別当寺である不動院建て物で、江戸時代に再建されたものです。 

豊太閤だけでなく、多くの大名による崇敬も篤く、室町時代に足利義政公から翁面、戦国時代に浅井氏と佐々木氏から梵鐘、江戸時代の大造営の際には徳川幕府から大釜が２基など、様々なものが奉納されています。 

参拝を終え、絵馬通りと呼ばれる表参道で、土産物を探しました。 

多賀大社の名物といえば、糸切餅。 

買って帰ろうとしたのですが、残念なことに賞味期限は当日限りということだったので、お茶を飲みながらその場でいただくことにしました。 

赤と緑の線の入った模様は、元寇の戦勝品として多賀大社に奉納された「船印」に由来するのだそうです。 

漉し餡が入っていてほんのり甘い上品な味でした。

*平成２１年１０月２５日①　彦根城

２日目は、少し早起きをして彦根城へ向かいました。 

築城４００年祭のイベント期間中とあり、かなりの数の観光客が休日は押しかけていると聞いていたので、できるだけ観光客の少ないうちに見学して回りたいと思い、早起きをして向かいました。 

メインストリートの夢京橋キャッスルロードを通りかかると、なにやら設営作業をしている人々の姿が見えます。 

４００年祭イベントとは別に、「ゆるキャラまつり」というのが偶然にも開催中でした。 

彦根城の南側、いろは松の近くの駐車場に車を停めることができました。 

彦根城は、井伊直政公の子、直勝公によって築城されました。 

初代直政公は、徳川四天王の一人で、関ヶ原の戦いによる軍功で北近江に封ぜられ、西軍の将であった石田光成公が治めていた佐和山城に入りました。 

その息子の代に彦根城は築かれましたが、その建築資材には佐和山城など近隣の城の一部が再利用されています。 

金亀山と呼ばれる山に建てられたことから、「金亀城」とも呼ばれ、明治の廃城令や戦火などに遭うこともなく、天守閣は当時の姿をとどめる貴重な城郭として国宝に指定されています。

天守閣はもちろん、天秤櫓や時報鐘などの見所も多いですが、特に優れた景観を持つのは、４代目藩主直興公による造営の玄宮園です。 

池を中心地する庭園は、シナの瀟湘八景になぞらえて選ばれた「近江八景」を模しており、遠く天守閣を望むことができます。

次に、井伊直弼公が３００表の捨扶持で青春時代を過ごした埋木舎を訪れました。 

権力者の身内であるため、下手に動けば有りもしない政治的な野心を勘ぐられてしまうため、自らを埋れ木に見立てて隠居のような生活を送っていたのです。 


世の中をよそに見つつも埋れ木の 
埋もれておらむ心なき身は 


生涯の親友であり助言者であった長野主膳と幾日も語り合ったのも、この埋木舎です。 

１３代藩主直中公の１４男として生まれた直弼公は、他家の養子となるのが遅れたことが幸いし、早世した兄が継ぐはずであった当主の座が転がり込んで来ました。 

その後、攘夷派の水戸斉昭公との対立を深めながらも大老に就任し、孝明帝の勅許を得ずに日米修好通商条約を締結します。 

聖上をないがしろにする暴挙として尊皇攘夷派の怒りは頂点に達しますが、その頃の朝廷は政治機関として機能しておらず、政権を一任された幕府が自らの責任で重大事を決定することを、直弼公は反発を恐れずに粛々と実行したのです。 

孝明帝に対して僅かでも叛逆心を抱いていなかったことは、次の和歌からも容易に理解できます。 


あふみの海磯うつ浪のいく度か 
御世にこころをくだきぬるかな 


直弼公の決断が、日本を世界に開くという意味で近世という時代を終わらせ、アメリカによる武力開港という最悪の事態を回避したことは間違いありませんが、安政の大獄によって多くの有能な日本人が粛清されたことも事実です。 

襲撃計画の噂を聞きながらも、警護を強化することもなく、従者たちの刀の柄に雪よけのための袋をつけたまま登城していた直弼公は、既に責任をとるつもりで死を覚悟していたものと思われます。 

極限の状況の中で、極限の選択をしなければならないこともあるという教えを、激動の幕末史は教えてくれます。

その足で滋賀縣護國神社を参拝しました。 

戊辰の役以来、国事・国難に殉じた滋賀県出身の英霊３万４千余柱が祀られています。 

桜田門外の変で大老井伊直弼公の命を奪ったのは水戸浪士で、その後、彦根と水戸の対立は長く続いていました。 

主君の首級を取られた彦根藩士たちにとって水戸藩は不倶戴天の敵となり、その思いが爆発したのが、天狗党の投降者たちに対する酸鼻極まる虐殺でした。 

しかし大戦後、井伊家と水戸家は互いに和解し、その記念として、水戸から梅が送られ、ここ護國神社の拝殿白砂前に左右対になって植えられています。

彦根城の見学を終え、買い物がてらキャッスルロードをぶらつこうかと思ってそちらに向かうと、人だかりが出来ているのが見えました。 

どうやら、ゆるキャラまつりが始まっているようです。 

日本全国？各地からやってきたマスコットキャラたちが路上のあちこちに配置され、子供たちと仲良く写真撮影しています。 

もちろん商業的な効果が目的なので、各地の特産品やキャラにちなんだ商品も即売されているのですが、お父さんお母さんたちは我が子の写真撮影に夢中で、あまり売れている様子ではありませんでした。 

各地から集まった百体近いキャラの中で、やはり最も人気があるのが、ここ彦根のマスコット「ひこにゃん」です。 

天守閣広場でのお披露目を終え、ちょうどキャッスルロードの「パトロール」に来るところでしたが、人力車に後ろ向きに乗せられてあっという間に右から左に通り過ぎてしまいました。 

猫の姿をしたひこにゃんにも由来があり、２代目藩主直孝公が世田谷の豪徳寺でにわか雨に遭って大木の下で雨宿りしていましたが、手招きをする猫を見つけたので近寄ってみたことろ、その大木に雷が落ちたのです。 

直孝公はこの猫に感謝し、豪徳寺を菩提寺としたのでした。 

ひこにゃんがかぶっている兜は、小牧長湫の戦いで秀吉軍を震え上がらせた井伊の赤備えにちなんで、赤い色をしています。

*平成２１年１０月２５日②　安土・近江八幡

これから帰り道は、琵琶湖東湖岸に沿って史跡を訪れながら、関西中心部に向かうことになります。 

まず最初に安土城跡へ。 

安土城は、織田信長公が天正４年に丹羽長秀を総普請奉行に据えて築城させ、７年から信長公自身が居城した城で、日本初の天守閣を持った城郭です。 

当時は南側を除く周囲が琵琶湖の内湖に囲まれ、内湖に浮かぶ安土山に聳える五層七階の絢爛たる天守閣は、イエズス会のルイス・フロイスも西洋で見たこともない程の壮大な大きさと美しさを持つものであったと伝えられています。 

しかし、信長公がここを拠点に天下統一事業に尽力できたのもわずかな期間でしかなく、天正１０年に本能寺の変で明智光秀の軍に囲まれて自刃した後、原因不明の出火によって一夜にして焼失してしまいました。 

現在は石垣や石段が残されており、大手門のあった入口に立つと、どこまでも続くように見える石垣からも、この城の規模の大きさが実感できます。 

石段のところどころには、築城に際して徴用された石仏も含まれており、それを踏まないように慎重に歩かなければなりません。

信長公が築城と同時に移築した摠見寺は、落城の際にも焼け残りましたが、安政元年に火災によって焼失してしまい、昭和７年に徳川家康邸跡と思われる場所に本堂が再建されました。 

幸い特別拝観の期間であったので、信長公像に手を合わせて来ました。 

信長公所用の鉄鰐や陣羽織などが収蔵されています。 

入山料とは別料金での拝観となるため、こちらは観光客の姿が少なく、提供される抹茶を静かにいただくことができました。

天主までの４００段にも及ぶ石段を登りますが、高さや幅がまちまちなのはどの城も共通で、登るのに非常に難儀します。 

だからこそ、頂上まで登る甲斐もあるというものですが。 

大手道周辺には、摠見寺の建つ徳川邸跡をはじめ、前田家や羽柴家の低跡と伝えられる場所があり、信長公の信頼の厚い家臣は大手道を守るように配置されていたことが分かります。 

しばらく登ると、二の丸跡の信長公廟に到着しました。 

焼けた本能寺から、ついに信長公の亡き骸は発見されず、信長公ゆかりの太刀や烏帽子、直垂などの遺品を埋葬して本廟としたのでした。 

この法要を執り行ったのが秀吉公で、そのことによって天下統一の意思の継承者としての地位を日本中に知らしめることとなりました。 

更に登ると、本丸跡と、最上部である天主跡に到り、琵琶湖を見渡すことができます。 

琵琶湖の対岸にはすぐ京があり、京の守りとしてこの地を天下布武の拠点とした信長公は政治的にも芸術的にも天才であったことが伺えます。 

安土城跡からすぐの所には、復元された天守閣の一部を展示する、信長の館という施設がありますが、今回は時間の都合で通り過ぎることになりました。 

しかし、自分の頭の中には、安土山に堂々と聳える壮麗な姿の天守閣をイメージすることができました。

次に、商人の町として栄えた近江八幡市へ向かいました。 

早速、日牟禮八幡宮に参拝。 

第１３代成務天皇の即位の際に、武内宿禰に命じて大嶋大神を祀られたのが創始で、應神天皇は近江行幸の際にお立ちよりになり、そのご縁で八幡大神を祀ることになったという経緯があります。 

左義長祭と八幡祭の二大火祭で有名です。 

境内から少し進んだ所からは、ロープウェイに乗って八幡山に登ることができます。 

そこにはかつて八幡城があり、秀吉公の姉の子である三好（羽柴）秀次が居城としていました。 

豊太閤の嫡子が早世し、太閤の後継者として養子入りをして政務をとりますが、実子の秀頼が生まれたことから次第に遠ざけられ、高野山に追放され、ついに切腹を命じられました。 

八幡城は廃城となりましたが、城下町は商人の町として栄えたということです。

次に兵主大社へ。 

八千矛神大国主神）を主祭神とし、手名椎神・足名椎神を配祀しています。 

歴史の深みの色を持つ朱の楼門が印象的で、社殿手前の狛犬には、なぜか白い布があちこちに巻きつけられていました。 

神職の方に尋ねると、病気やけがをした方が参拝の際に患部と同じ場所に布を巻きつけるそうで、きっと重い怪我もなどにも御利益があるのでしょう。 

養老２年の創始で、名神大社に列せられています。

*平成２１年１０月２５日③　野洲・瀬田

次に御上神社へ。 

第７代孝霊天皇の御代に、天照大御神の孫神である天之御影神が三上山に降臨され、元正天皇の養老２年に藤原不比等が勅命を奉じて現在の地に遷座しました。 

天之御影神は天津日子根命の子で、鍛冶の神である天目一箇神と同一神であるとされています。 

本殿は国宝に指定されています。

天之御影神が降臨されたという三上山は、御上神社からすぐ見える所にあります。 

その形象から、近江富士とも呼ばれています。 

二つ並んだ山のうち、南側の山が三上山で、北側の妙光寺山よりも標高は低いものの、見事な形をしています。 

三上山は田原藤太による百足退治の伝説の舞台です。 

朱雀天皇の御代に、田原藤太秀郷という者がいて、瀬田の橋に横たわる大蛇をものともせずに踏み越えたところ、その晩に大蛇が化けた男が、自ら龍神であることを告白し、三上山に七巻き半巻いている大百足の退治を依頼して来ました。 

田原藤太はその依頼を承諾し、瀬田の橋から矢を放ち、２射目にして大百足を倒したのでした。

その瀬田の橋からほど近いところに鎮座しているのが、近江国一之宮の建部大社です。 

東国平定の功績があった日本武尊が３２才にして薨去された際、父君である景行天皇がその死を嘆かれて建部大神として祀られたのが、建部大社の始まりです。 

平家に囚われの身となっていた源頼朝公が伊豆配流への途中で参籠したと伝えられ、建久元年には源氏再興の御礼として、上洛の際に参拝し、神宝や神領を寄進したのでした。 

滋賀県には多賀大社や日吉大社などの規模の大きな神社が多数鎮座していますが、その中で一之宮に選ばれたのは、源氏とのゆかりと、瀬田の橋という交通の要衝に近い地理的な要因があると思われます。

その瀬田の橋は、日本三名橋・三古橋に数えられる瀬田の唐橋として、車が通れるものに整備されながらも当時の姿をとどめています。 

琵琶湖から流れる瀬田川は、京都・大阪へ入るとそれぞれ宇治川・淀川と名前を変えます。 

古代は東海道から京に入るためには瀬田川を渡る瀬田の橋しか手段がなく、壬申の乱や恵美押勝の乱など、大きな戦いの舞台になっています。 

夕刻とあって、瀬田大橋の付近はかなり渋滞しており、近江八景のひとつ「瀬田夕照」の眺めをゆっくりと味わうことはできませんでしたが、車中からの眺めでも満足することにしました。 

瀬田の唐橋より西側は、別な機会にめぐりたいと思います。

*平成２１年１０月２６日　多田

今回の旅の最終日。 

神戸の宿で迎えた朝は、あいにくの雨でしたが、せっかく帰りの飛行機までに時間があるので、一か所だけ目的地を定めて向かうことにしました。 

兵庫県川西市に鎮座する多田神社。 

清和源氏発祥の地と言われる場所です。 

尼崎経由で川西能勢口駅へ向かい、そこから能勢電鉄に乗って多田駅まで向かいます。 

能勢電鉄は初めての乗車でした。 

多田駅からまっすぐのびた細い参道を、傘を差しながらおよそ２０分歩くと、多田神社の社号標と、参道の橋が見えて来ました。 

多田神社の御祭神は、源満仲・頼光・頼信・頼義・義家の５公で、源氏の祖廟といえます。 

源満仲公が摂津の国司として住吉大社に参籠した際、神託によって多田に入部し、開拓や治水を行いました。 

その長子頼光公は摂津源氏の祖で、以前に訪れた大江山の鬼退治などの逸話が残されています。 

鵺退治で有名な頼政公は、頼光公の４世の孫です。 

三男頼信公は河内源氏の祖で、頼義公・義家公と続き、源氏の主流となって行きます。 

なお、次男の頼親公は大和源治の祖ですが、永承４年の興福寺との戦いが原因で土佐に配流されたためか、合祀されていません。 

神職の方にうかがったところ、頼親公を祀る神社は全国に存在しないとのことで、大和源氏の末裔である自分にとっては非常に残念なことでした。 

多田神社の境内には、宝物殿や、頼光公が酒呑童子の首を洗ったと伝えられる鬼首洗池などがあります。    </description>
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    <title>旅行記</title>
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    <description>
      [[平成１７年２月５日～７日　鎌倉へ]]

[[平成１８年８月２２日～２５日　松下村塾へ]]

[[平成１８年９月２日～５日　台湾へ]]

[[平成１８年９月１３日～１９日　色丹島へ]]

[[平成１９年５月３日～５日　名古屋へ]]

[[平成１９年６月３０日～７月２日　神戸へ]]

[[平成１９年７月２８日～２９日　明石・堺へ]]

[[平成１９年８月１６日　酒田・鶴岡へ]]

[[平成１９年８月３１日～９月２日　京都・奈良へ]]

[[平成１９年１２月８日～１０日　姫路へ]]

[[平成２０年３月１日～３日　岡山へ]]

[[平成２０年３月２９日　府中へ]]

[[平成２０年５月５日　福島へ]]

[[平成２０年５月２４日～２６日　但馬・丹後へ]]

[[平成２０年８月２２日～２４日　沖縄へ]]

[[平成２０年９月２０日～２２日　淡路・徳島へ]]

[[平成２０年１０月１３日　水沢へ]]

[[平成２０年１０月１８日～２０日　千葉へ]]

[[平成２０年１１月２９日～１２月１日　福井へ]]

[[平成２１年１月２４日～２６日　赤穂へ]]

[[平成２１年３月１４日～１６日　和歌山・河内へ]]

[[平成２１年４月５日　東京港区へ]]

[[平成２１年５月１６日～１７日　長野へ]]

[[平成２１年５月３０日～６月１日　香川へ]]

[[平成２１年８月２１日～２３日　沖縄へ]]

[[平成２１年９月２１日　新潟へ]]

[[平成２１年１０月２４日～２６日　琵琶湖東へ]]    </description>
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    <item rdf:about="http://www37.atwiki.jp/rinseidou/pages/181.html">
    <title>平成２１年９月２１日　新潟へ</title>
    <link>http://www37.atwiki.jp/rinseidou/pages/181.html</link>
    <description>
      *平成２１年９月２１日①　彌彦神社

今年は秋にもうれしい連休がありました。 

目的地は新潟県にある弥彦神社。 

越後国一之宮です。 

高速道路の割引制度のため、連休中はかなり渋滞がひどいという情報でした。 

なるべく渋滞を避けるため、少し早目に出発することにしました。 

東北自動車道と磐越自動車道を使い、新潟県に入ると、平野の向こうに屹然とそびえる弥彦山が見えます。 

途中の磐梯山も山頂までくっきり見える程の快晴で、北国だから寒いだろうという予想も見事に裏切られました。 

高速道路を降りて、ナビゲーションシステムの指示のままに車を走らせますが、高さ３０メートルもあるという大鳥居は経由してくれませんでした。 

そして彌彦神社に到着。 

近くの駐車場は既に満車になっており、少し離れた駐車場に車を停め、境内に向かうのでした。 

一の鳥居をくぐると、小さな小川が流れています。 

本来ならここで禊をするのでしょう。 

左手を見ると、朱の太鼓橋。 

玉の橋と呼ばれるこの橋は、神様しか渡ることができない橋です。 

彌彦神社の御祭神は天照大御神の曾孫、天香山命。 

神武天皇の御東行の際に神剣を奉った神様です。 

大和が平定され、神武天皇が初代天皇として即位した４年後、天香山命は越の国の開拓を命じられ、日本海を渡って野積浜に上陸されました。 

そしてこの地に、塩の製法や漁撈の術、稲作や酒造などの技術も伝え、その子孫も代々越の国の文化・産業の発展に尽力されました。 

その天香山命を越後開拓の神として祀ったのが彌彦神社で、御創建は１３００年以上も昔のことだそうです。

参道では、菊まつりの展示スペースの準備が、着々と進行している様子でした。 

さすが越後の一之宮とあって、参拝客の姿も多いです。 

しかし、観光客のマナーの低下も、人数に比例しているようで残念でした。 

境内で奇声を上げて仲間と戯れるいい年した男性客。 

また、ペットの持ち込みを禁止する看板が立っているにも関わらず犬を持ちこむ家族連れ。 

神社は単なる観光地ではなく祈りの場であるということを、日本人自信が忘れてしまっているのが悲しいです。 

奇声を上げたい人は遊戯施設に行けばよいのだし、犬を連れて歩きたい人はペット用公園に行くべきで、神社で心静かに参拝したい人の迷惑になることは慎んでほしいと思いました。


一の鳥居から続く参道を、途中で左に直角に曲がると、弥彦山を背に負った御社殿が見えてきます。 

弥彦山は万葉集にも詠まれています。 


いやひこおのれ神さび青雲の 
棚引く日すらこさめそぼふる 


また越後が生んだ国文学者、相馬御風は、越後の国で一番最初に朝日を浴びる姿を和歌に詠んで讃えています。 


いやひこの高嶺の雲のかがやかに 
越の国原夜はあけむとす 


その弥彦山の山頂には、天香山命の御神廟が鎮座しています。 

ハイキングコースもありますが、今回はロープウェイを利用して山に登ることにしました。

ロープウェイの山麓駅までも、神社からは少し距離があるため、駅と神社を結ぶ往復のバスが出ています。 

バス乗り場には行列ができていました。 

ちょうどそこに石碑があり、読んでみると、弥彦山という唱歌の歌詞が刻んでありました。 

作詞作曲は小山作之助。「夏は来ぬ」の作曲者として有名です。 


越路の国に名も高き 
弥彦の山を見わたせば 
壮麗雲につき入りて 
貴く清きながめかな 

前に渦巻く日本海 
沖辺に浮ぶ佐渡ヶ島 
遙かに眉を引きたるは 
遠き陸羽の山々か 

海風清く袖吹ふきて 
浮世のちりも通い来ず 
思へばげにも御神の 
宮居い座します弥彦山

*平成２１年９月２１日②　弥彦山

バスは「万葉の道」と呼ばれる遊歩道を運行します。 

道路わきを見ると、万葉集に詠まれた植物が、それと分かるように名札をつけて植えられています。 

万葉集に詠まれる約１５０種の植物のうち、約６０種がこうして植えられているのですが、その全てが弥彦山に自生している植物で、他の土地から移植されたものは無いそうです。 

弥彦山の自然の豊かさが、こんな所からも知ることができます。 

山麓駅に到着。 

ロープウェイ乗り場にも行列ができていました。 

しかしまだ時間がそれほど遅くないため、３・４回くらい待ってすぐに乗ることができました。

山頂駅まではロープウェイに揺られて約５分。 

展望台やレストランなどがあり、かなりにぎやかな雰囲気です。 

地面にシートを敷いて弁当を食べている家族連れなどの姿も見えます。 

山頂からは、日本海をへだてて佐渡島を望むことができます。 

これから少し山登りをしなければならないので、佐渡島を眺めながら、軽く昼食をとりました。

弥彦神社の奥宮である御神廟までは、徒歩で約１５分かかります。 

新潟の代表的な山とあって、放送施設も多く建っています。 

階段があるので、道は歩きにくいとくことはありません。 

しばらく進むと、御神域を示す鳥居が見えて来ました。

御神域の中でもひときわ高い位置に、御神廟は鎮座していました。 

鳥居と賽銭箱があるだけで、社殿はありません。 

山そのものが御神体だからです。 

ここには天香山命と、妃神の熟穂屋姫命（うましほやひめのみこと）が祀られています。 

ここから北の方角には、天香山命が大和から持参した１０種の神器が埋められたと伝えられる多宝山があり、弥彦神社・御神廟・多宝山は正三角形の位置関係にあるのだそうです。

弥彦山からは、日本海の反対側に越後平野を見渡すことができます。 

刈り入れが迫って黄金色に色づいた田んぼも、日本が誇れる景観のひとつではないでしょうか。 

遠く広がる田園の眺めを満喫し、ロープウェイに乗って再び弥彦神社の散策に向かいました。

*平成２１年９月２１日③　再び彌彦神社

山麓駅には、乗った時より更に長い行列ができていました。 

往復バスに乗って、再び彌彦神社境内へ。 

来た時に通り過ぎただけの所などをじっくり見学することにしました。 

随神門の両脇には、少し変わった姿勢をした狛犬が置いてあります。 

この狛犬と同じデザインの左右一対の置物が、授与品として販売されていました。 

社殿向かって右手の方に進むと、毎日５時・正午・１０時に叩かれる太鼓の置いてある鼓楼があります。 

そこから摂社末社の並ぶ細い道を進むと、明治の大火で焼失を免れた十柱神社があります。 

茅葺屋根の社殿で、趣を感じさせます。

舞殿の前を通り、表参道に合流。 

宝物殿へ向かう角に、石油蒸留釜が置いてありました。 

明治１７年に考案された日本最初の石油精製装置で、現在は国内に２基しか残っていません。 

日本書紀に、天智天皇の時代に越の国から燃える土と燃える水が献上されたという記録が残っており、古代から石炭と石油が産出されていたことが分かります。 

明治以降、油田を掘る業者は必ず彌彦神社に参拝したそうです。

現在、宝物殿が建てられている場所は、もともと御本殿が鎮座していた場所の近くで、一の鳥居から真正面に当たります。 

明治４５年の大火によって社殿は焼失してしまい、現在はその跡地が、ひっそりと残されています。 

せっかくなので宝物殿も見学することにしました。 

源義家公、義経公、上杉謙信などが奉納した宝物が展示される中で、特に目を引いたのは刃渡り２メートル以上もある大太刀です。

最後に御神木を見て、神社を去ることにしました。 

この御神木の椎の木にも伝説があります。 

天香山命が越の国を治めるにあたり、ここが自分の住むに相応しい場所であるなら根を広げ葉を茂らせ、繁茂するがよいと言って、持っていた木の杖を地面にさしたところ、みごとに根付いたということです。 

見たところ、残念ながら上部から枯れて来ているようでした。 

ペット持ち込み禁止の立て札に従わず、御神域に犬を散歩させるような人間がいる場所に、神様は住みたくないのかも知れません。

一の鳥居を出ると、境内の前の道路は大渋滞でした。 

やはり早目に来て正解だったようです。 

道路の反対側には、明治天皇行在所跡の碑があります。 

明治１１年、北陸東海御巡幸に際し明治天皇は、この地にあった祀官五十嵐盛厚氏の邸宅を行在所とされました。 

祝日とあって、付近の土産物屋の軒先には日の丸が掲げられています。 

鎮守の森と日の丸のある風景。 

日本の美しい風景は、日の丸を切り裂くリベラル政党が政権与党になっても健在です。

*平成２１年９月２１日④　燕市

まだ帰るには時間が早いので、周辺の見所を訪問してみることにしました。 

新潟について下調べをするまで知らなかったのですが、新潟では槌器という伝統工芸品が作られています。 

弥彦山の間瀬銅山で産出された銅を材料としたのが始まりで、一枚の銅板を叩いて皿やコップなどの形に仕上げます。 

槌器の技術を伝えたのは仙台の藤七という職人で、それ以来生産され続けています。 

槌器は形だけでなく、科学変化を利用した着色も手間と技術が必要で、使用する場合も湿気の対策をとらないと、次第に変色してしまいます。 

今回は彌彦神社からほど近い、槌器工房清雅堂を訪れました。 

ずらり並べられている商品は、どちらかというと現代風のデザインのものが多いような気がしました。 

説明をして下さったのは、工房三代目のまだ若い職人さんで、いろいろな質問をしても丁寧に答えて下さいました。 

一つ一つが手作りのため、私たち庶民が手にするには多少高価な気がしますが、大事に使えるのなら手元にあってもよいかも知れません。 

特に冷たいものを飲むには、金属でできているため冷たさがじかに手に伝わり、飲み物もより美味しく思われます。

次に、１８世紀初頭に建築された農家の家屋が残る旧武石家住宅へ。 

室内には板の間と土間しかなく、寝る時には土間に藁を敷いて寝ていたという当時の生活をうかがうことができます。 

それでも、中流農家の母屋としてはかなり豪華な造りで、カンナではなくチョウナで削られた柱は太く立派なものでした。

最後に、越後が生んだ禅僧、良寛の生涯をたどるため、燕分水良寛史料館へ行きました。 

良寛は越後の名主の家に長男として生まれましたが、父を継いで名主になることを拒み、出家して僧となり、師の入寂をきっかけに諸国行脚の旅に出ます。 

しかし、旅先で父の入水自殺の知らせを聞き、郷里へ戻って庵での孤独な生活を始めます。 

彌彦神社へしばしば参拝しながら、和歌や書に人生の安らぎを求めるのでした。 

史料館には、良寛本人はもちろんのこと、親族や知人らの書も展示されていますが、誰もが豊かな文学的才能を持っていたことが分かります。 

現実の世の汚濁から逃れて理想に生きる良寛の人生が、今の自分にはとてもうらやましいものに思えるのでした。

良寛は、子供の心にこそ誠の仏の心があるとして、積極的に童子たちと遊び戯れました。 

高名な人物からの書の依頼は断っても、子供に頼まれると喜んで筆をとったそうです。 

良寛はいつしか「良寛さま」と呼ばれるようになり、それは今も続いています。 

良寛さまが弥彦山や彌彦神社詠んだ歌は、 


いやひこの杉のかげみちふみわけて 
われ来にけらしそのかげみちを


隣接する建物には、分水の祭りで使われる御神輿と歌舞伎屋台が展示されていました。    </description>
    <dc:date>2009-10-05T18:53:06+09:00</dc:date>
  </item>
    <item rdf:about="http://www37.atwiki.jp/rinseidou/pages/180.html">
    <title>平成２１年８月２１日～２３日　沖縄へ</title>
    <link>http://www37.atwiki.jp/rinseidou/pages/180.html</link>
    <description>
      *平成２１年８月２１日　勝連城

２度目の沖縄上陸です。 

前回は時間の関係で訪れることのできなかった史跡をめぐり、沖縄の文化をより深く知りたいという気持ちで、今回は計画を立てました。 

那覇空港に午後５時に到着し、別便で午前中に既に上陸していた友人と合流、まずは勝連に向けて車を発進させました。 

世界遺産にも指定されている勝連城跡は、琉球国王に最後まで抵抗した勝連の按司、阿麻和利（あまわり）の居城跡です。 

世界遺産に指定された沖縄の城の中でも、特に古い城であるとされます。 

海を眺望できる場所でありながら、丘陵に築かれた山城のような姿をしており、特にその中心となる北城は３段の曲輪で構成されています。

最上部である一の曲輪には、瓦葺の建物やアーチ式の門があったと伝えられています。 

また、守り神として玉ノミウヂ御嶽が祀られています。 

ここで城主である阿麻和利は政務を行っていたのでしょう。 

圧政によって住民を苦しめた前代に代わって１０代目の城主となった阿麻和利は、人々から慕われ、日本やシナなど東アジアの国々との貿易によって富を築き上げました。 

その勢力の強大化を恐れた第６代琉球王尚泰久は、娘の百度踏揚を嫁がせ、血縁関係を結んでの懐柔策に出ます。 

１４５８年には、国王の重臣である中城城主の護佐丸を滅ぼし、勢いに乗って国王の居城である首里城を攻めますが、その戦いに敗れたことが原因となってついに滅びてしまいます。 

国王の娘婿と重臣が戦ったという事実には、後世の研究によって浮上した不可解な点があるため、現在は護佐丸謀反説や阿麻和利悪者仕立て説などがあり、更なる研究成果が待たれます。

二の曲輪から一の曲輪に上る階段の手前には、勝連城の守護神を祀る洞窟がありました。 

沖縄の万葉集とも呼ばれる『おもろさうし』には、勝連が奈良や京都のように栄えていたことが記されています。 

また、阿麻和利を讃えるうたも多数残されており沖縄の人たちにとっては、琉球の歴代国王よりも、ある意味で身近な人物なのかも知れません。

この日の観光はここまでにして、まだ昼食もとっていない友人のために、少し早目の夕食にすることにしました。 

向かった先は、金武にあるキングタコス金武本店。 

途中、前回の沖縄旅行で訪れた普天間宮などの看板を見かけ、なんとなく地理感覚も身について来たような感覚になりました。 

沖縄が好きで、年に何度も訪れている友人が一番勧めてくれたのが、このキングタコスのタコライスです。 

料金表は１ドル＝１００円で書かれており、円高の今は米軍兵は得だ・損だと、変な話で盛り上がってしまいました。 

座席の数は少なく、店内には目立った装飾などもなく地味で、お冷はセルフサービス。 

しかし、タコライスの盛りつけ量は半端ではありません。 

普通盛りで、二人前は充分にあります。

車を停めた場所に近い広場には、タコライス発祥の地の看板がありました。 

それによると、米軍兵向けに軽食を出していた新開地の小さな飲食店が、８０年代の円高時代に客が減少してしまったため、安くてボリュームのあるメニューとして出してみたところ、大ヒットしたのが始まりなのだそうです。 

中米生まれで、米軍を経由して沖縄に入ったタコスを、ご飯と合わせるという大胆な発想は、沖縄人ならではかも知れません。

*平成２１年８月２２日①　琉球村

翌日は、友人の勧めでシュノーケリングに初挑戦することになっていました。 

予約できた時間帯が昼過ぎだったので、午前中は近くにある琉球村を見学することにしました。 

事前にホームページで調べたところ、１０時から道ジュネーという沖縄風絵巻行列が見られるということで、時間に間に合うように出発しました。 

天気がよければ屋外で行われるのですが、その日は雨が降ったりやんだりの天気になってしまったので、屋根付きのちゃんぷるー劇場が会場となりました。 

開演時間が近づき、お客さんも徐々に集まり始めます。 

ステージで三線の演奏が始まり、旗頭を先頭に国王と王妃をはじめとする行列が登場しました。

耳の大きな弥勒（ミルク）が、幸せをもたらしてくれる団扇で見物客を仰いだり、五穀豊穣を祈る集団舞踊の臼太鼓（ウスデーク）が舞ったりと、いかにも沖縄らしい雰囲気が醸し出されています。 

それらは壇上に座る国王夫妻に捧げられるのですが、この国王役が、如何にも偉そうに扇子をパタパタしている様子に、興ざめしてしまいました。 

衣装も着ているので、暑いことは充分理解できますが、本来国王という者は暑さ寒さはもちろん、自我というものを超越して生きることを務めとする人なのです。 

これを見た観光客が、琉球の王が町内会のおっさんレベルであったと勘違いしてしまうのではないかと危惧するところです。

白塗りの顔にちょんまげを結った、赤いふんどしのこっけいな人物が、大きな口笛を吹きながら登場します。 

かつては旧盆に家々をまわって先祖供養の念仏をとなえた京太郎（チョンダラー）です。 

そこに獅子舞が登場し、彼が投げた毬をみごとに口で受け止めるなど、観客を沸かせてくれました。 

本来は毬を投げるのは別な役のようですが、流行のインフルエンザにでもかかってしまったのか、京太郎が代役を勤めていました。 

この獅子舞は、シーサーと関係あるのでしょうか？

絵巻も終わりに近づき、京太郎が本来の仕事をする時が来ました。 

三線の音楽に合わせ、太鼓を叩きながら勇壮に舞うエイサーです。 

京太郎の口笛は、太鼓の音にも負けておらず、逆にエネルギーを与えているようでした。 

自分としては、これが見たくて琉球村を訪れたようなものでした。 

中学校の音楽で、民族音楽のひとつとして生徒に教えることになっているのですが、実物を聞いたことは今までに一度もありません。 

エイサーも、もともとは先祖供養のための舞で、今も旧盆には沖縄全土でエイサー祭りが行われています。 

琉球村にはたくさんの旧家が保存されており、また土産物も充実しています。 

今回は友人の用足しのために、旧家などの見学まではできませんでした。

そしていよいよシュノーケリングの時間です。 

恩納ビーチのシータイムという店で、友人が以前に利用してサービスがよかったというお勧めの店です。 

天気は快晴になりました。 

ウエットスーツを着て簡単に説明を受け、船でシュノーケリングの場所まで移動します。 

救命胴衣も着用しているため、体は勝手に浮かんでしまいます。 

ゴーグルをつけて海を覗くと、そこには熱帯魚とサンゴ礁の竜宮城が広がっていました。 

それから観光ガイドなどでよく見る青の洞窟へ。 

洞窟に入り、なるべく光が入らないように瞳孔を開かせて一瞬で振り返って見た洞窟内の海の水は、神秘的な深い青色をしていました。 

昼過ぎの時間帯は比較的すいているということで、今回は幸運でした。 

混んでいると身動きもとれないくらいになってしまうそうです。

*平成２１年８月２２日②　ぶくぶく茶

シュノーケリングを終え、宿泊地である那覇市内に入りました。 

空はすでに薄暗く、観光に行く体力も残っていないので、前回の沖縄旅行で果たせなかったぶくぶく茶の体験に行くことに決めました。 

観光マップなどでよく見かける嘉例山房は、首里城の龍潭公園の近くにあります。 

閉店時間にぎりぎり間に合い、早速ぶくぶく茶を注文しました。

イメージしていたのは、抹茶のように泡立てたお茶を飲むものでした。 

ただ、普通の抹茶より泡の量が多いだけだと思っていました。 

しかし実際のぶくぶく茶は、抹茶とは全く違う飲み物かと思えるほど、特殊な飲み物なのでした。 

まず泡を立てるための大鉢が登場。 

中には、まるで薬草を煎じたような色の液体が入っています。 

煎米茶・さんぴん茶・山原茶を煮込んだ液体であるとのこと。 

それを茶筅でシャカシャカと混ぜると、白い泡が現れて来るのです。 

しばらく泡立てたら、５分ほど放置してくださいと言われました。

言われたとおりに放置すると、泡が少しずつ固まって来ました。 

それをそのまま飲むのではなく、飲むために別に用意されたお茶に、泡だけ乗せて味わうのです。 

泡の上にピーナッツと黒糖を砕いた粉をかければ、甘い味つけになります。 

泡を食べながら、時々下のお茶を飲む。 

そうやって味わうのがぶくぶく茶なのだということです。 

泡がなくなれば、また大鉢で立てて乗せればよいのです。

閉店間際で他のお客さんの姿が消えたので、店主のおばさんにぶくぶく茶についていろいろ質問してみました。 

ぶくぶく茶には、現在、家元がひとつだけ現存しているそうですが、それは戦後復原されたもので、先の大戦によって一度は文化が断絶してしまったとのことです。 

ぶくぶく茶に添えられているお菓子が美味しかったので聞いてみると、それはチンビンというお菓子で、沖縄では各家庭で日常的に作られているお菓子なのだそうです。 

国際通りにある市場や、デパートなどで売っているというので、探しに行くことにしました。

国際通りに出ると、残念ながら市場は終わってしまっていました。 

近くの店で情報収集すると、リウボウというデパートの地下で売っているとのこと。 

こちらは国際通りの入り口にあるのですが、行ってみるとやはりすでに閉店。 

チンビンは翌日のお楽しみとして残しておき、夕食をとることにしました。 

嘉例山房のおばさんから、イカスミ汁という沖縄料理があると聞いていたので、それを置いている店を探します。 

国際通りから横道にちょっと入った所にある居酒屋に、イカスミ汁とかかれた看板を発見。 

入って注文してみると、想像していたよりもかなり大量の汁が出て来ました。 

真っ黒なスープにイカの身などの具が入って、ふつうのうどんくらいの量がありました。

*平成２１年８月２３日　那覇

翌日、まずは宿泊したホテルからほど近い安里八幡宮に参拝。 

安里は「あざと」と読みます。 

琉球八社のうちで唯一の八幡様で、応神天皇・玉依姫・神功皇后をお祀りします。 

第一尚氏王統最後の国王である尚德王が鬼界島出兵に船で赴く途中、船縁に浮いている浮き鐘がなかなか取れないのに対し、帰国後に八幡神を祀る誓いを立てたところ、手に入れることができたということです。 

誓い通りに八幡社を建て、その浮き鐘を奉納したのが、この安里八幡宮です。 

幼稚園とアパート風の社務所が隣接していますが、神職の方は不在でした。

次に旧海軍司令部壕に向かいました。 

昭和１９年に海軍設営隊によって掘られた司令部壕で、米軍の艦砲射撃にも耐えられるように作られました。 

戦後しばらく放置されていましたが、数度の遺骨収集を経て、司令官室を中心に復元されて公開されています。 

米軍が首里を占領したのが昭和２０年５月１３日。 

火炎放射器による日本兵焼殺という、前代未聞の非道な虐殺が繰り返される中、司令官である太田實中将が最後にできることは、いつかこの戦いが終わり、祖国が復興を果たした際、本土を守る第一の盾として戦った沖縄県民の犠牲に報いることを疎かにしないよう、政府に訴えることでした。 

海軍次官に宛てて送信された電報は、沖縄県民の献身的な防衛協力の様子と、焦土と化した沖縄の現状を伝え、「沖縄県民斯ク戦ヘリ　県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と結ばれています。 

６月１３日、司令官室の壁に辞世を書き記し、太田實中将は拳銃によって自決するのでした。 


大君の御はたのもとに死してこそ 
人と生まれし甲斐ぞありけり


最後に首里城に近い玉陵を訪れました。 

世界遺産にも登録されている、第二尚氏王統の陵墓です。 

３室に構成された石造りの陵墓で、中室は洗骨前の遺体を安置する部屋、東室は洗骨後の王と王妃の墓室、西室はその他限られた王族の墓室だったとのことです。 

琉球では死者の埋葬方法として、本土とは違う洗骨という風習がありました。 

いったん土葬や風葬した遺体を、海水や酒などによって洗い、改めて埋葬するもので、その作業に当たるのは親族の女性であることがほとんどだったようです。 

昭和９年に行われた、王家の末裔である尚典候の洗骨の様子が、詳しく残されています。

洗骨をするための中室には、なぜか一体の遺体が安置されています。 

かつて王に仕えていた易者、木田大時の遺体ではないかと言われています。 

大時という最高級の称号を与えられるほど実力を発揮していた木田ですが、他の易者からねたまれ、その実力を証明するために公開の霊視（？）を行うよう王から命じられました。 

中にネズミを入れて、外からはみえないように蓋をした箱を用意し、ネズミの数を知らない木田に、その数を問うというお試しです。 

準備された箱には１匹のネズミが入れられましたが、木田は３匹と答えてしまい、刑場に送られてしまったのです。 

しかし、その後蓋を開けてみると、ネズミは子を産んでいて、３匹に増えていたのでした。 

王は急いで処刑の中止を命じますが、時すでに遅し。 

木田はすでにこの世の人ではなくなっていました。 

木田の死を嘆いた王は、彼を特別に玉陵に祀ることにし、中室にその遺体を安置したのだそうです。

観光を終え、最後の食事は国際通りでとることにしました。 

ついでにリウボウの地下に寄り、フライパンで焼いているチンビンを発見。 

ほんのり甘く、もちもちした食感で、しかも焼き立てなのでホクホクです。 

チンビンは黒糖と同じ濃い茶色ですが、同じ形で白い色をしたポーポーという食べ物も売っていました。 

こちらは肉や野菜が入っているそうです。 

今回は、観光できた場所は前回より少なかったものの、食文化を堪能することができました。    </description>
    <dc:date>2009-09-12T22:52:20+09:00</dc:date>
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    <item rdf:about="http://www37.atwiki.jp/rinseidou/pages/179.html">
    <title>平成２１年５月３０日～６月１日　香川へ</title>
    <link>http://www37.atwiki.jp/rinseidou/pages/179.html</link>
    <description>
      *平成２１年５月３０日　高松

新型インフルエンザの流行も一段落ついた様子なので、伊丹経由で２度目の四国上陸を敢行しました。 

いつも旅を手助けしてくれている友人に、毎度自分のわがままばかりでは申し訳ないと思い尋ねたところ、讃岐うどんの食べ歩きがしてみたいとのこと。 

うどんの名店を回りながら、巡礼を協力してもらうことにしました。 

明石海峡大橋を渡って高松に入った時には、時刻は既に２時近く。 

２時で閉店する店も多く、観光ガイドとにらめっこしながら、何件かの店で食べることができました。 

空腹が満たされたところで田村神社を参拝。 

讃岐国一之宮で、御祭神の田村大神とは、倭迹迹日百襲姫命、五十狭芹彦命（吉備津彦命）、猿田彦大神、天隠山命（高倉下命）、天五田根命（天村雲命）の五柱の神の総称です。 

倭迹迹日百襲姫命は第７代孝霊天皇の皇女で、大神神社の御祭神である大物主神と結婚しますが、その本体が蛇であることを知った驚きが原因で亡くなり、箸墓古墳に埋葬されたと言われています。 

ちょうどこの日、箸墓古墳が卑弥呼の墓であるという有力な手掛かりが、発掘された土器の測定によって明らかになったという研究結果が発表されました。 

百襲姫命は託宣によって大物主神を大和に祀ることを天皇に進言したりするなど、祭祀を行う女性として伝えられており、卑弥呼と同一人物ではないかという説が多くの学者に支持されています。 

国津神の正体を見て亡くなった皇女の神話と、旧来からあった邪馬台国を滅ぼした天孫族という学者の見方は、完全に食い違っています。 

このことが果たして何を意味するのか、そう簡単に結論を出すことは避けるべきだと思います。

御創建は和銅２年と古く、定水大明神とも呼ばれていました。 

奥殿の床下には深淵があり、水の守り神として歴代の領主から水乞の祈願などを受けていました。 

こんな恐ろしい伝説も伝えられています。 

明暦元年、社殿の改築工事にあたり、普請奉行の竹村斉庵はその淵を見せてもらうよう頼み込みました。神官は拒否しますが、断り切れずに見せたところ、水が坂巻き上がり、龍が現れて斉庵をにらんだところ、斉庵は気分が悪くなって死んでしまいました。 

工事が中断してしまったため、淵の蓋に穴が開いたままであったため、ある人足が誤って鑿を落としてしまったところ、再び龍が現れて鑿を戻しますが、恐ろしくなった人足が足でそれを取ったところ、たちまち死んでしまったのでした。 

境内には相撲場があり、奉納相撲の際は賑わいを見せることが想像できます。 

他に、百襲姫命が御手を洗われた花泉や、憩われた休石などがあります。

次に、四国村の近くにあるうどんの名店に向かいました。 

駐車場がいっぱいなので、ひとり車を降り、すぐ近くにある屋島神社を参拝しました。 

またの名を讃岐東照宮といい、慶安４年に初代高松藩主の松平頼重公が本門寿院境内に徳川家康公をお祀りしたのが始まりで、文化元年になってここ屋島に遷座されました。 

屋島は、源氏の軍勢が平家の軍を破った土地で、那須与一がはるか離れた海上に浮かぶ船の扇を射落とした説話でも知られています。 

征夷大将軍を仰せつかった徳川家も、源氏の流れから出ているとされていることから、都を追われた平家が戦力の立て直しを図ったものの、その滅亡を決定的にした戦いのあった屋島の地は、祀りを行うに相応しい場所であるとされたのかも知れません。 

白村江の戦いに敗れた当時、唐の侵攻を防ぐ目的で、天智天皇の命により八嶋城が築かれるなど、古くから要害の地とされて来ました。

さすがに３軒も回ると、あっさり味のうどんでも相当食べた気になります。 

薄暗くなって来たことだし、この日の観光は、高松城跡を見学して終えることにしました。 

日本三大水城の一つに数えられる高松城は、豊臣秀吉公の家臣であった生駒正親公によって築城が開始されました。 

生駒氏は、織田・豊臣・徳川と巧みに臣従して来ましたが、４代目高俊公の時に生駒騒動が勃発、出羽へ転封となりました。 

新しく高松藩の藩主となったのは、水戸藩初代頼房公の子の頼重公でした。 

高松城の別名、玉藻城からとって、現在は玉藻公園として市民に親しまれています。

失われてしまった天守閣を復元する計画が進められているようで、その台座となる石垣の修復工事が行われていました。 

公園内には、披雲閣という庭園もあります。 

ここを見学している時、閉園時間が迫って来た上に雨まで降り始めたため、近道をしようとしたところ、民家の裏庭のような所へ出てしまいました。 

公園内で生活している人がいるのでしょうか？ 

車に乗った瞬間に雨が激しくなり、ここまで耐えてくれた天気に感謝して、旅の一日目を終えました。

*平成２１年５月３１日　坂出

翌日は晴天となりました。 

まずは白峯寺に向けて車を走らせます。 

途中、有料の高松坂出道路を通り、瀬戸大橋を一望することができました。 

有料道路なのに、道沿いには民家が建っており、ここに住んでいる人は毎日通行料を支払っているのかと、余計な心配をしてみたりします。 

有料道路を抜け、車が行き交うのも精いっぱいの狭い山道を登ります。 

白峯寺は八十八箇所霊場の一つに数えられますが、この急な参道を徒歩で登っている人の姿も見られました。

白峯寺には、崇徳天皇陵があります。 

保元の乱によって讃岐へ遷された崇徳上皇は、仏教に深く帰依して、戦死者の供養のために写経したものを朝廷に送りますが、後白河法皇は他意あることを疑ってそれを送り返しました。 

恭順の心を認められなかった崇徳上皇の悲しみは、察して余りあるものではないかと思います。 

その後崇徳上皇は怨霊になり、「皇を取って民とし民を皇となさん」と書き残して崩御したと伝えられています。 

朝廷が官位の授与によって有力者たちを、時に味方につけ、時に賊となし、武力の均衡のためだけに政治を動かした時代は、源頼朝の出現によって終わりを遂げます。 

頼朝公が、それまでの天皇に代わって武家を統率する強大な権力を握ったことは、崇徳上皇の言葉が現実のものとなったことを表すと考えることもできます。

山を降り、次に香川県護国神社に参拝しました。 

讃岐宮とも呼ばれ、香川県出身の御英霊をお祀りしています。 

ちょうど結婚式が行われており、神職の方が奉仕中でした。 

パンフレットは切れてしまっており、受付の方に御由緒などを質問しても詳しくは知らない様子で、ちょっとがっかりしました。

摂社なのでしょうか、境内には乃木神社も鎮座しています。 

鎮座地の善通寺市は、帝国陸軍第１１師団が置かれた土地であり、その初代師団長は乃木大将でした。 

明治３１年に、第１１師団が招魂社を建立したのが、香川県護国神社の始まりです。 

乃木大将は、明治天皇の崩御に際して夫人とともに殉死したのですが、戦死ではないため、護国神社や靖国神社には合祀されませんでした。 

香川の人たちは、乃木大将の生前の人柄を偲んで、単独でお祀りしたのではないかと推測されます。 

乃木神社は、乃木夫妻が殉死した邸宅の隣地（東京赤坂）など、全国に数社あります。

*平成２１年５月３１日　金刀比羅宮

いよいよ今回の旅のクライマックス、こんぴらさんの呼び名で親しまれる金刀比羅宮へ参拝です。 

長い階段で知られる金刀比羅宮の社殿は、当然のこと山の上にありますが、そのふもとから参道まで、たくさんの土産物屋が並んでいます。 

買い物をすると料金が無料になるという駐車場をみつけ、車を停めました。 

さて、本来ならこれから本宮まで７８５段を登らなければならないのですが、運転に疲れている友人のことを考え、途中の大門まで裏道を登ってくれるタクシーを利用することにしました。 

大門までは３６５段。 

約半分を省略できたことになり、友人も少しほっとした表情でしたが、年配の方も階段を登っていることを考えると、少し複雑な気持ちになるのでした。 

タクシーを降り細い道を抜けると、大門が見えて来ました。 

ここからは自力で階段を登らなければなりません。

しばらく進むと、こんぴら狗の銅像が見えて来ました。 

江戸時代、犬による代参が流行しました。 

参拝したくてもできない人が、飼い犬の首に結んだ袋に、こんぴら参りの札と路銀を入れて送り出すと、同じ方向へ向かう旅人がそれを見つけては、途中まで連れて行ってくれるという仕組みです。 

務めを果たす犬も立派ですが、神を敬う点において一致していた民衆が、不思議な縁でこんぴら参りに協力し合ったという文化は、現代では忘れてしまった心の豊かさを思い出させてくれます。 

もちろん、途中で事故に遭い、こんぴらさんにたどり着けなかった犬もいれば、帰り道に遭難した犬もあったことでしょう。 

あどけない表情をしたこの像には、それらの犬たちへの供養の気持ちも込められているのではないかと、ひとり推測するのでした。

すれ違った子供から、７７、７８…と階段を数えている声が聞こえて来ました。 

本宮は間もなくなのでしょう。 

そこで目の前に現れたのは、そびえるような巨大な社殿です。 

重要文化財に指定される旭社は、神仏混合の信仰であった明治までは金堂と呼ばれていました。 

金刀比羅の名前の由来は、梵語のクンビーラで、ガンジス川に住む鰐を神格化したものです。 

本地垂迹説では、大物主が金毘羅権現の化身であると言われています。 

讃岐国一之宮に祀られる倭迹迹日百襲姫命と結婚した、蛇の姿をした神様です。 

なるほど、蛇と鰐は姿が似ています。

子供が数えていた７７段を登っても、本宮は見えて来ません。 

あの子供には、算数を教えなければならないねと友人と話しながら、もうしばらく登り、ようやく本宮に到着しました。 

大物主神と崇徳天皇をお祀りしています。 

崇徳天皇は、先に書いたとおり悲劇の天皇で、都を追われて讃岐で過ごされた間に、たびたび金刀比羅宮を参拝されたそうです。

本殿に並ぶ形で、三穂津姫社が鎮座しています。 

三穂津姫は高皇産霊尊の娘で、大物主の后であると日本書紀に記されています。 

国津神である大物主が、同じ国津神の后ではなく天津神を后としたことは、永遠に皇孫をお護りすることを約束する意味があるのです。 

ここから更に石段を登れば、崇徳天皇と御母侍賢門院をお祀りする白峰神社や、奥社へと行くことができますが、これから車で帰ることを考えると、あまり無理もできないと思い、今回はあきらめることにしました。 

一生に一度はこんぴら参りと言われますが、なにも一度だけに限ることもないので、楽しみを残しておくことにします。 

他に、幕末に志士と親交のあった侠客、日柳燕石の住居など、まだまだ訪れたい場所はたくさんあるのですから。

*平成２１年５月３１日　金丸座

金刀比羅宮の参拝を終え、参道沿いに並ぶ土産物屋を覗きながら石段を降り、駐車場に戻りました。 

タクシーに乗っている時に見えた旧金毘羅大芝居「金丸座」を、最後に見学することにしました。 

国の重要文化財に指定されている金丸座は、現存する日本最古の芝居小屋です。 

初めは年３回の興行が仮設小屋で行われていましたが、門前町の整備が進んだことで常小屋の設置を求める庶民の声が高まり、天保７年に完成しました。 

「金丸座」の名称は、明治３３年以来のものです。

見学料を払って中に入ると、係の方が見学者向けに説明をしていました。 

館内はどこでも見学できますが、このような説明を先に聞くことができれば、見学する時に見るポイントなどもしっかりおさえておくことができます。 

升席や桟敷の客席は当時のまま残されているそうです。 

江戸時代の人々も、ここに座って芝居を楽しんでいたのでしょう。

舞台や花道の地下のことを奈落といいますが、そこも見学することができます。 

ひんやりとしてますが、すこし湿気っぽい空気が漂っています。 

廻舞台も機械ではなく人の力によって回されます。 

足がすべらないようにと、ちょうど歩幅くらいの間隔で石が地面から顔を出していました。

舞台の裏は楽屋です。 

それぞれの役割ごとに部屋が決められています。 

上階と行き来するための階段はかなり急で、廊下も狭く、百人を超える人々が一つの芝居のために動き回る時には、さながら戦場のような忙しさだったことでしょう。

金丸座が現在の場所に移築されたのは昭和４４年。 

昭和６０年には第１回目の「四国こんぴら歌舞伎大芝居」が公演され、その後毎年春に定期公演が行われています。 

次の公演のチケットは、すべて旅行会社などにおさえられているということで、観劇したい人は旅行会社を通して購入してほしいとのことでした。 

情緒あふれる芝居小屋での歌舞伎の観劇、いつか実現したいと思います。    </description>
    <dc:date>2009-08-26T13:34:06+09:00</dc:date>
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    <item rdf:about="http://www37.atwiki.jp/rinseidou/pages/178.html">
    <title>平成２１年５月１６日～１７日　長野へ</title>
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    <description>
      *平成２１年５月１６日①　戸隠

土日の高速道路ＥＴＣ割引の恩恵を受け、家族で長野まで行くことになりました。 

７年に１度の善光寺の御開帳ということもあり、母が強く望んでいました。 

仙台を午前６時に出発し、東北道・磐越道・北陸道・上信越道のルートで長野に入りました。 

途中休憩をはさみましたが、最初の目的地である戸隠神社奥社に到着したのは正午前。 

ほぼ予定通りの時間です。 

駐車場もいっぱいになるほど多くの参拝者の姿が見えるので、やはり割り引い影響かと思いましたが、それだけではなく、ちょうど明日は７年に１度の式年大祭が行われるからのようでした。 

戸隠神社は奥社・中社・宝光社の３社に、それぞれ御祭神をお祭りしています。 

最初に訪れた奥社は、大鳥居からしばらく緩やかな上り坂で、杉の参道が続いています。 

大鳥居から社殿までの距離は約２キロ。 

杉並木や水芭蕉やその他の草花を観賞しながら散歩するにはちょうどよい道ですが、赤色で茅葺屋根の随神門をくぐったあたりから、急な石段に変わります。

旅行といえば神社や城跡めぐり・神社城跡めぐりといえば山登りと心得ている自分にとっても、寝不足と長時間の運転の後では身体にこたえ、社務所の石段で座って休憩してしまいました。 

奥社の御祭神は天手力雄命。 

天照大御神が天岩戸にお隠れになった時、その岩戸を開いた力持ちの神様です。 

天手力雄命が押し開いた岩戸が投げられ、地上に落ちたと伝えられる岩がここにあることを調べて知っていたので、探してみましたが、あちこちにごろごろと巨大な岩が無数に転がっていて、どれなのか分かりません。 

ふと視野を広げて社殿の後ろを見ると、そこには険しい岩山が聳えています。 

この戸隠山全体が、天手力雄命によって投げ落とされた岩戸なのだと気付き、古代の人々の想像力の雄大さに驚きました。 

奥社のすぐとなりには九頭龍社が鎮座しています。 

御祭神の九頭龍大神は水をつかさどる神で、天岩戸神話には登場しない地主神です。

奥社での参拝を終え、車ですぐの所に鎮座する中社に向かいました。 

戸隠山は、落葉松の淡い新緑がとても眼に優しく、長時間の運転の疲れを癒してくれるようです。 

中社では、式年大祭を記念する和太鼓の演奏が行われており、多くの参拝客でにぎわっていました。 

式年大祭は、本来は中社と宝光社の御祭神が奥社に御還りになるお祭りでしたが、現在は宝光社の御祭神が父神である中社の御祭神のもとに御渡りになる形をとっています。 

中社の御祭神は天八意思兼命。 

お隠れになった天照大御神に、岩戸から戻っていただくための策を練った、知恵の神です。 

御朱印をいただくため、１時間近く行列に並びました。

ぐずついた天気でしたが、ここに来て残念ながら雨が降って来ました。 

ちょうどお昼時なので、近くの蕎麦屋に入りました。 

戸隠は蕎麦の名産地でもあります。 

入った蕎麦屋は宿坊も経営する立派なお店で、昔から参拝者が食べて来たという膳に、神社に奉納したのと同じ濁りの御神酒がついてきました。 

戸隠神社は、奥社・中社・宝光社の三院と、九頭龍社・火之御子社を合わせて「戸隠五社」と呼んでいます。 

火之御子社は通り過ぎてしまったため、前年ながら参拝できませんでした。 

こちらにも、天岩戸神話で重要な役割を果たした天鈿女命が祀られています。

宝光社でも式年大祭の準備が進んでおり、石段の前には舞台が設置されていましたが、なぜか前二社のような群衆の姿はなく、ひっそりしていました。 

昼食時の影響か、それとも悪天候の影響でしょう。 

御祭神の天表春命は、思兼命の御子神。 

記紀神話には登場しませんが、他の神話によると、戸隠山を開いたと伝えられる阿智祝部の祖先神です。 

式年大祭を記念して、離山仏里帰り拝観と宝物展が行われており、せっかくなので見学しました。 

もともと神仏習合であった戸隠の信仰ですが、明治の神仏分離令によって多くの仏像が各地の寺に散ってしまいました。 

それを一時的に里帰りさせて集合させたのが今回の企画で、貴重な拝観となりました。 

宝物展では、歴代天皇の御宸筆など貴重な文化財が、ガラスケースに入れられるでもなく無造作に展示されていて、首をかしげずにおれませんでした。

*平成２１年５月１６日②　善光寺とその周辺

降ったりやんだりの天気の下を、車は長野市内に向かって走ります。 

今回の旅の一番の目的地である善光寺に到着しました。 

駐車場待ちの車で行列ができているのではないかと恐れていましたが、すぐ近くの有料駐車場にすぐに停めることができました。 

長野は、我が母方の御先祖が過ごしてきた土地であり、自分にとっては第二の故郷のような場所です。 

善光寺も、物心ついた頃に訪れたことがありますが、成人してからの参拝は今回が初めてとなります。 

善光寺の歴史は、日本の仏教の歴史が始まるのとほぼ同じくらいに古く、廃仏派の物部氏によって遠く避けられた一光三尊阿弥陀如来像を信濃国司の従者である本田善光が長野へ遷座させたのが始まりと言われています。 

一光三尊阿弥陀如来は秘仏であり、一般公開どころか僧侶たちでさえ見ることはできませんが、代わりとして写された「前立本尊」は７年に１度（足掛け７年の意味）の丑年と未年にだけ御開帳になります。 

その際、前立本尊の指から延びる糸をつないだ大回向柱が伽藍の前に立てられ、これに触れるために行列ができるのです。 

時間帯が夕方で、閉門間近であったため、５分くらい並んだだけで触れることができました。

少し歩いたところに、尼寺である善光寺大本願があります。 

こちらの宝物殿を拝観しました。 

明治帝、大正帝、皇女和宮などのゆかりの品が多くありました。 

大本願の住職は善光寺上人（住職）を務めるという伝統は、善光寺の開山以来守られており、皇族や公家の未婚の女性が務めてきました。 

現在の第１２１世上人は鷹司様です。 

大本願の他に、善光寺大勧進というお寺もありますが、こちらは経理面をつかさどっています。 

庭に、松尾芭蕉が善光寺を訪れた際に詠んだ俳句の句碑が建っていました。 


月影や四門四宗も只一つ


仲見世の途中から東へ折れると、釈迦堂があります。 

こちらにも回向柱が立てられ、行列ができていました。 

翌朝利用したタクシーの運転手さんの説明によると、善光寺本堂の回向柱は来世の御利益、釈迦堂の回向柱は現世の御利益があるそうです。

７年に一度の御開帳を祝い、神輿渡御も行われていました。 

数えることはできませんでしたが、御神輿は全部で１０基くらいはあったでしょうか。 

長野という町を挙げてというより、国家的な大祭典であるという印象を受けました。

せっかく来たので、翌朝４：３０に起床して朝の法要に参列。 

内陣にて前立本尊をすぐ近くで拝むことができました。 

ただ残念だったのは、撮影禁止という規則を守れない不心得者の姿があったことです。 

楽しいはずの旅行も、このような不徳者のために気分を害されてしまうと、やりきれなくなります。 

特にＥＴＣ割引のような出血大サービスが始まると、それに釣られて罰当たりも湧いて来てしまいます。 

未熟な自分は憤懣やる方ない気持ちでいっぱいでしたが、如来様の表情はどこまでもやわらかでした。

*平成２１年５月１７日①　川中島

中心部を離れ松代に向かいますが、川中島の標識が見えたので寄ることにしました。 

川中島古戦場は、八幡原史跡公園として整備されており、物産展や土産物屋などが開かれていました。 

武田信玄の本陣跡に鎮座する八幡社に参拝。 

もともと鎮守の神として誉田別尊と建御名方命が祀られており、川中島の戦いの後、信玄公は信濃豪族にとっての武運長久の祈願神となりました。 

大激戦の後、信玄公は敵味方を問わず戦死者の亡骸を手厚く葬り、負傷者の手当てをして、それからここで勝鬨をあげたということです。


川中島の戦いは全部で第５次まであり、特に龍虎相討った大決戦は永禄４年の第４次合戦のことです。 

八幡社に本陣を置く信玄公の所在を察知していた上杉謙信公は、十数騎の精鋭で本陣を突破し、信玄公の身辺に殺到しました。 

信玄公の近侍は槍ぶすまで阻止しようとしますが、謙信公は単騎で迫り、三の太刀まで切り下げたのです。 

これを受け止めた信玄公の軍配には、７か所の刀の跡が残っていました。 

これらの経緯を現在に伝えるのは軍記物語しかなく、脚色が無いとは言えないというのが学者の意見ですが、両軍の大将同士が一騎打ちをしたという興奮は、今も昔も人の心をとらえて離さないという意味では同じだと思います。 


べんせいしゅくしゅくよるかわをわたる 
鞭声粛粛夜過河 

あかつきにみるせんぺいのたいがをようするを 
暁見千兵擁大牙 

いこんなりじゅうねんいっけんをみがく 
遺恨十年磨一剣 

りゅせいこうていにちょうだをいっす 
流星光底逸長蛇 

頼山陽


信玄公が襲われた時、仲間頭の原大隅が主君の傍にあった青貝の柄の槍をもって謙信公の胸板を突こうとしましたが、外れてその乗る馬に当たり、一騎討ちは幕切れとなりました。 

ここから戦局が変わって武田が優勢となるのですが、原大隅は謙信公を討ち逃したことを悔やみ、近くにあった石を槍で突きとおしたのでした。 

その「執念の石」の他、土塁を築いた時に打ち込んだ槐が根付いて大木となった「さかさ槐」など、境内には川中島決戦をしのばせるものが多く残されています。

神社の神職の方に、他にも見どころがないか尋ねたところ、川中島の戦いで討ち死にした信玄公の弟、信繁公の墓があるという典厩寺が近いということ教えていただいたので、行ってみることにしました。 

もともとは鶴巣寺という名前の寺でしたが、初代松代藩主の真田信之公によって、信繁公の官職（左馬助）の唐名「典厩」と寺号が改められました。 

本堂の向かい側にある閻魔堂には、日本一大きな閻魔大王像が置かれています。 

小さな子供が見たら、きっと泣き出してしまいそうなくらい恐ろしい形相をしていました。

武田信繁公は信玄公の同母の弟で、武田二十四将にも数えられるほどの人物でしたが、川中島の戦いで討ち死にした時は、まだ３７歳でした。 

信玄公もこの弟を心から信頼しており、その死にあたっては死体を抱いて号泣したと伝えられています。 

かの真田幸村公の本名も信繁ですが、これは父昌幸による命名であり、本人も生前は改名せず、信繁で通したようです。 

彼が嫡子信豊に残した「武田信繁家訓」は、武士の心得として高い評価を受け、江戸時代の武士たちに広く読まれることとなりました。 

もし、信繁公のあまりに早い戦死がなければ、武田家は滅亡せずに済んだかも知れません。 

それほどの大人物でありました。

*平成２１年５月１７日②　松代

松代に着いたら、まずは象山神社に参拝。 

幕末、西洋列強によるアジア侵略の波から日本を救うには、国家の統一と近代化を行わなければならないことをいち早く唱えた佐久間象山が御祭神です。 

佐久間象山は松代藩士の家に生まれ、文武双方に優れた才能を発揮し、多くの詩文も残しています。 

象の形とした象山という山のふもとに生まれ、雅号も象山としました。 

これまで「しょうざん」と読んでいましたが、正しくは「ぞうざん」とのことです。 

もともと儒学において山田方谷とともに二傑と並び称されるほどでしたが、主君である松代藩主真田幸貫が海防掛に任ぜられてから、兵学や海外事情を学び、「海防八策」を献上しました。 

神社では、知恵の神・学問の神として祀られています。

吉田松陰が海外渡航を企図したことで捕らえられると、象山もそれを幇助した罪で国元蟄居を命じられます。 

境内にある高義亭は、蟄居中に来客があった際に応対に利用した建物で、この２階で国家の時勢を論じ合いました。 

高杉晋作、久坂玄瑞、中岡慎太郎などが訪れ、きっと祖国の行く末を案じて熱く語り合ったことでしょう。 

象山は尊皇開国と公武合体を唱えましたが、洋学にも通じていたことから「西洋かぶれ」との印象が強く、志半ばにして暗殺者の凶刃に倒れます。 

いつの時代も、国家を危機に向かわせるのは、このような短絡的な行動であるということに変わりはありません。 

暗殺者河上彦斎は、殺害後に象山の事歴を知って己のうかつな行動を悔やみ、二度と暗殺を行うことはしませんでした。

象山神社から少し歩くと、松代大本営跡があります。 

先の大戦でいよいよ本土決戦が近付くと、海岸から近く、平野の広がる東京では、神器と玉体の護持が難しいことから、山深いこの地に地下壕を掘って大本営とする計画が実現されました。 

延々と続く地下道を、途中まで見学することができますが、ヘルメットの着用が義務付けられています。 

もし実際に昭和天皇が遷御されることになったとしたら、きっとこのようなうすら寒い地下洞窟など御不快であったことでしょう。 

地下に「幽閉」してまで玉体を護るくらいなら、開戦を望まれなかったという御意志の方をなぜ先に尊重しなかったのでしょうか。 

やはり当時の軍部は狂っていたとしか思えません。 

地下工事には、朝鮮半島で徴用された人々も従事しましたが、一般人に比べて配給される食料などの待遇はかなりよかったようです。

次に旧横田家住宅へ。 

松代藩の中級武士の住宅が、ほぼ完全な状態で残されています。 

お昼近くなって来たので食事のできる店を探しますが、近くには喫茶店などしかありません。 

松代城跡まで行き、ようやく見つけた竹風堂という店に入りましたが、これが大当たり。 

メニューは少ないですが、むかごの和え物や栗おこわなどの乗った膳を注文、味も量も大満足でした。

食事の後に真田宝物館を見学。 

真田邸は、改修工事のため残念ながら見学できませんでした。 

真田氏が松代を治めるようになったのは、真田幸村の兄である信之公が藩主になってから。 

関ヶ原の戦いに際して、父昌幸と弟幸村が西軍についたのに対し、信之は徳川秀忠軍に属して戦功を立てています。 

版籍奉還が行われる１０代幸民公の時まで、真田氏による統治は続きました。 

佐久間象山を登用した幸貫公は８代目藩主。 

幸貫公の時に開校した藩校文武学校も、当時の姿のまま残っており、こちらも見学して来ました。 

自分にとって第二の故郷である長野は、歴史を大切にする町でした。    </description>
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    <title>平成２１年４月５日　東京港区へ</title>
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    <description>
      *平成２１年４月５日①　高輪

東京は桜が満開だという知らせを聞き、ぶらりと散歩をしながらの花見に行ってきました。 

東北新幹線で終点の東京まで行き、そこから山手線で新橋に向かってのですが、ぼんやししていたら乗り越してしまいました。 

分単位で一日のスケジュールを立てて来たので、すぐに戻れば修正できると思ったのですが、これまでの経験から、こういう不測の事態に対してはジタバタせず、流れに身を乗せてしまうのがよいと知っています。 

考えて来た旅の行程を逆ルートでめぐることに決定し、品川で下車しました。 

向かう先は泉岳寺。

ここも東京で過ごした大学時代には一度も訪れたことがない場所です。 

駅から泉岳寺まで歩いていると、あちこちに桜が咲いているのが見えます。 

境内に入ると、「義士祭」と書かれた提灯が並んでいました。 

ちょうど義士さんたちのための法要が営まれる日に当たっていたようです。

墓所に向かう途中に、仇討ちを終えた浪士たちが吉良上野介の首を洗った井戸が残されていました。 

四十七士の物語では、吉良上野介は悪役として憎まれていますが、領民や家臣からの信頼は非常に篤かったそうです。 

四十七士の墓所では、義士ひとりひとりの墓に線香を手向け、手を合わせて来ました。 

先日赤穂に行ったばかりなので、本懐を遂げて潔く散った義士たちの墓を詣でることができた感慨はひとしおでした。

泉岳寺には、松の廊下で刃傷に及んだ後、即日切腹となった浅野内匠頭が葬られていました。 

大石内蔵助をはじめとする義士たちが吉良の首を供え、仇討の報告をしたのが、まさにこの場所です。 

大石内蔵助は統率する立場にあっても、最初に焼香することを一番槍をつけた間十郎左に、次の焼香を二番太刀の武林唯七に許しました。 

このことにも、大石という人物の大きさが表れていると感じます。 

その後、義士たちは４つの大名屋敷に分散して預けられ、幕府からは切腹の沙汰が下るのでした。 

しかし死後、主君のそばに眠ることを許された義士たちの魂は、いたって安らかであったことだと思います。

赤穂浪士記念館では、討ち入りの口上書などが展示されています。 

別館には、四十七士ひとりひとりの木像も。 

討ち入りから主君が眠る泉岳寺まで歩いた道を再現するビデオ上映も行われていました。

*平成２１年４月５日②　東海道(国道１５号)を歩く

泉岳寺をあとにし、現在の国道１５号線を北に向かって歩きました。 

すれ違う人たちの表情も様々ですが、車椅子の女性がご主人らしき人に押されて散策しているのを見た時、こちらまでが幸せになるほど幸福な表情をしているのに気付きました。 

鼻にはチューブを挿しており、重い病を抱えておられるようにも見えましたが、大好きなご主人とまた春を迎えて桜が咲くのを見ることができたという喜びが、満たされた表情に表れています。 

自分も、いまの仕事が思い通りに進まずとも、決して暗い顔・怖い顔をしてはいけないのだと反省しました。 

途中の歩道橋の上からは、東京タワーがコンクリートジャングルの狭間によく見えました。

田町駅の前は、西郷南洲と勝海舟が江戸開城の会見をした場所であり、記念の碑が建てられています。 

幕末期、敗色の濃い幕府軍は起死回生の策として、薩長軍を江戸城下におびき寄せ、町ごと丸焼きにしてしまうことを検討していました。 

もしそうなっていれば、日本の国力の損失は膨大なものとなり、後に列強と渡り合うための力はおろか、東京という首都の誕生もなかったでしょう。 

しかし、幕府を追いだした新政府が、結局あの大戦争によって東京を焦土にしてしまったことも、忘れることはできません。

*平成２１年４月５日③　増上寺

お昼になってので、途中に食事処でもあれば入ろうと思っていたのですが、気安く入れそうな店もないので、そのまま増上寺に向けて歩き続けました。 

首都高の高架をくぐった時、近くでサイレンの音が聞こえました。 

それは、北朝鮮が日本列島を横切る形で「飛翔体」を発射したことを知らせるサイレンでした。 

軍事目的のミサイルであることは間違いないのですが、それを「飛翔体」と言い換えるところに、北朝鮮という野蛮国への遠慮が見え隠れしていて、非常に不快でした。 

そうこうするうちに、増上寺へ到着。 

こちらも春の法要の日程に当たっていて、花見客と合わせてかなり混雑していました。

浄土宗の宗祖法然上人の忌日、御忌大会という法要でした。 

また、浅野内匠頭が勅使饗応役として畳替えをすべきところ、吉良からその必要性を教えられなかったのがこの増上寺で、松の廊下の刃傷に及ぶきっかけとなりました。 

境内では、和太鼓の演奏が賑やかに響いています。

また、徳川家墓所の特別公開も行われていました。 

増上寺は徳川将軍家の菩提寺であり、２代秀忠公をはじめとする６名の将軍と、家茂公の正室である皇女和宮、そして将軍の正側室や夫人子女など３８名の女性が眠っております。 

ちなみに初代将軍家康公は日光東照宮に、他の将軍は上野の寛永寺に眠っています。 

ここにはもともと霊廟がありましたが、戦災によって焼失し、現在は宝塔のみが残されています。 

この地下には、歴代の将軍が、座った状態で江戸城を向いて葬られています。 

事前に調べたわけでもなく、このような特別な機会に参拝できたことは、大変幸運なことであったと思います。

幸運というばもう一つ、舞楽の上演が行われる直前でした。 

最初に降りる駅を間違えたのも、今になって振り返ると正解だったようです。 

この日の曲目は納曽利（なそり）。 

緑系の装束からも分かるように、右方の舞です。

桜の花見も堪能できたので、増上寺をあとにしました。 

ここで、メールを入れておいた古い友人から電話が来ました。 

ちょうど仕事が休みなので、会うことができるということです。 

実に４，５年ぶりの再会です。 

どうやら起床したばかりらしく、家を出るまで１時間はかかるとのこと。 

こちらとしても、もう一か所行っておきたい所があったので好都合です。

*平成２１年４月５日④　愛宕神社

今回の日帰り旅行最後の目的地は、増上寺から北の方角にある愛宕神社です。 

愛宕神社が鎮座する愛宕山は、天然の山としては東京２３区の最高峰です。 

寺院らしきものを見つけ、そちらに向かって歩くと、愛宕神社参拝者はエレベーターに乗るようにと表示がされていました。 

他に参道らしきものも見えなかったため、そのままエレベーターに乗りました。

愛宕神社は、江戸幕府が開かれた慶長８年、将軍徳川家康公の命によって江戸の火防の神として祀られました。 

神社のホームページには、愛宕神社と愛宕山にまつわる秘話が紹介されていますが、そこから一つ。 

愛宕山にはＮＨＫの最初の放送局が置かれ、日本で初めての生中継は、陸軍参謀本部の馬丁だった岩木利夫が、馬で愛宕神社の石段を登った状況を中継したものだったそうです。

境内には池があり、桜の花びらが浮かんで春の錦をなしていました。 

ちらほらと参拝客の姿も見え、都心の隠れた名所となっていることが分かります。 

少し離れた広場には茶店もあり花見をしながら軽食をとれますが、友人と会うまで食事は我慢。 

おいしそうに食べている人たちを、なるべく見ないように心がけました。

境内には、桜田烈士を顕彰する石碑が建てられていました。 

後で分かったのですが、ここは井伊直弼を襲撃するための水戸浪士たちが集合した場所でした。 

初代将軍によって建てられた神社に集合、祈願した後に井伊大老を襲ったのですから、彼らは本心から幕府そのものに対して叛逆するつもりのなかったとこが窺えます。

帰りは表参道の階段を降りました。 

その後、新橋で友人と再会し、お互いの仕事のことや生活のことなど報告し合いました。 

日帰りとは思えないくらい、充実した旅行になりました。    </description>
    <dc:date>2009-08-26T13:21:00+09:00</dc:date>
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    <title>平成２１年３月１４日～１６日　和歌山・河内へ</title>
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    <description>
      *平成２１年３月１４日①　海南市・和歌浦

木の国、和歌山へ初めて行ってきました。 

いつものように仙台空港から伊丹空港まで飛行機に乗ります。 

この日の天気は不安定で、伊丹に着いた時も大雨が降っていました。 

しかし今回も心強い味方が旅に協力してくれたので、車で楽に移動できることになっていました。 

空港を出発し、高速道路を南へ進みます。 

途中、岸和田のサービスエリアで昼食をとり、予定していたより１時間も早く、最初の目的地である紀州漆器伝統産業会館に到着しました。

ここでは蒔絵の絵付け体験ができます。 

雨が降っているので、屋内での体験作業は逆に幸運でした。 

最初に予約していた時間より早く着きそうだったので、断られるのを覚悟で変更の申し出の電話をしたところ、了解してくれました。 

入口には、漆の木が植えられていました。

体験は、蒔絵の実際の材料に似せたものを使うので、正しくは疑似体験と言うべきところでしょう。 

工程もかなり簡単に要約されているとのことです。 

しかし、素人にはそれでも非常に新鮮な体験でした。 

選ぶ器の大きさや模様にもよりますが、あまり凝らなければ３０分程度で作業は終了です。 

こちらが完成品。 

グラデーションを付けたのが見えるでしょうか？ 

館内には紀州塗のおみやげが豊富に取り揃えてある他、伝統的な蒔絵の作品も見ることができます。 

駐車場には漆塗りの守護神を祀るお宮や石碑などが並んでいます。

絵付け体験を終えて次へ向かったとたんに、雨はあがってみるみる空は晴れて来ました。 

次に向かったのは紀州東照宮。 

初代紀州藩主徳川頼宣公が、父である家康公を祀るために元和７年に創建しました。 

頼宣公は死後、南龍大神として合祀されました。 

和歌の浦を見渡せる雑賀山の上に鎮座する社殿まで、１０８段の石段を登って行くことになります。

拝観料を支払い、社殿の近くまで見学させていただきました。 

日光の東照宮と同じ、極彩色の彫刻を施した権現造りで、「紀州の日光」とも呼ばれています。 

写真撮影は禁止と言われ、がっかりもしましたが、かえって眼に焼き付けるようにじっくりと見学できたことはよかったのだと思います。 

金箔や漆塗りなどで芸術の粋を極めた外観に、菊の御紋がさらなる格式を具えさせています。 

これは当時、皇室が太平の世を実現した徳川家を篤く信任されていたことの証なのです。

*平成２１年３月１４日②　和歌山城

次に和歌山城へ向かいました。 

城内には和歌山県護国神社が鎮座しているので、まずはそちらに参拝。 

戊辰の役以降に国難に殉じられた和歌山県出身の御英霊、３万６千余柱が合祀されています。 

昭和１２年に創建された御社殿は戦火を免れることができましたが、昭和６２年に不審火によって焼失してしました。 

近頃も、精神的・歴史的な建造物に対する放火のニュースが時々聞かれますが、戦後教育によって英霊に顔向けできない日本人が多く生まれてしまったことを真摯に反省し、歴史や祖先を尊ぶという当たり前の心を育てて行かなければならないと思います。

道案内の標識が見つからないため、どちらに進んでよいものか分かりません。 

天守閣も神社からは見えず、とりあえず広い道をたどることにしました。 

そして通りかかったのが、西ノ丸庭園。 

藩主の隠居所としてつくられ、滝や鳶魚閣などがありましたが、戦災によって焼失してしまいました。 

残された図面などを参考に復元され、最も新しく復元されたのが御橋廊下です。 

藩主と側近だけが二の丸と西の丸を行き来するためにつくられた橋で、外から見えないように壁と屋根が備えられています。 

全体に傾斜しており、全国的にも珍しいつくりなのだそうです。

西ノ丸庭園から天守閣が見えたので、そちらに向かって歩くことにします。 

予想はしていましたが、かなり高い位置にあるため、どこまでも階段を上らなければなりません。 

大勢の中国人観光客とすれ違ったりしながら、ようやく天守閣のある場所までたどり着くことができました。 

和歌山城は紀州徳川家の居城ですが、もともとは豊臣秀吉公の命によって藤堂高虎らが建てた城で、桑山家・浅野家の次に入城したのが、家康公十男の頼宣公です。 

明治維新後は天守閣などが国宝に指定されましたが、先の大戦により焼失。現在の城郭は鉄筋コンクリートによる復元です。

復元ではありますが、日本名城１００選に選ばれた城郭の姿はとても美しいものでした。 

天守閣では徳川家ゆかりの品々を展示公開しており、最上階からは紀ノ川の流れと和歌山の市街を見渡すことができます。

城の南側には和歌山県立近代美塾館があり、その入口近くに徳川吉宗公の騎乗像が置かれています。 

８代将軍吉宗公は紀州徳川家の５代目藩主でもあり、享保の改革によって破綻寸前だった幕政を立て直したことで有名です。 

なお、紀州出身の将軍はもう一人、１４代将軍家茂公がおります。 

結果的に最後の将軍慶喜公が就任するまでのクッション役として将軍職を全うしますが、幕末の混乱期に家臣たちからの信頼を集めつつ未曾有の混乱を乗り越えた功績は、称賛に値するものであると思います。

*平成２１年３月１４～１５日　五瀬命関連史跡

両日にかけて神武天皇の皇兄にあたられる五瀬命にまつわる史跡を訪れました。 

和歌山城登城を終え、１４日の最後の目的地は水門吹上神社。みなとふきあげ神社と読み、湊本ゑびすと親しまれています。 

御祭神は御子蛭児神と大己貴神。 

もともとは独立した２社でしたが、戦後同床共殿でお祀りを始めたとのことです。 

もともとは水門神社が戎様、吹上神社が大国様を御祭神としていました。

現在の鎮座地は、神武天皇御東行の折、和泉で長脛彦の流れ矢に当たった皇兄である彦五瀬命が崩御された場所にあたり、古事記には「男水門（おのみなと）」と記録されています。 

境内には彦五瀬命の顕彰碑が建てられていました。 

神職の方によると、もともとは上陸された場所にも碑が建っていたらしいのですが、開発によっていつの間にか失われていたとのことです。 

地形の変化は自然現象でもあるので、仕方の会ことと言うこともできますが、日本建国神話の記憶を後世に伝えるためにも、再建運動が起こることに期待したいと思います。

翌日、日前・國懸神宮の参拝の後、竈山神社に参拝しました。 

こちらは彦五瀬命を御祭神としてお祀りしています。 

寛政６年、本居宣長が参拝した時に詠んだ和歌は 


をたけびのかみよのみこゑおもほへて 
あらしはげしきかまやまのまつ


それより前、天正１３年には豊臣秀吉公が根来寺を伐つに際し、社地社領を没収、社殿を含め宝物や古文書などを全て焼き払うという暴挙に及びました。 

全国の神社を巡り歩いていると、関西地方には秀吉公によって失われた文化的財産が非常に多いことに驚かされます。 

先の大戦での空襲による焼失と秀吉公による破壊と、どちらの被害の方が大きいのか、調べてみるだけの価値はあるのかも知れません。 

その後寛文９年、和歌山城主徳川頼宣公が神社を再建し、歴代の尊崇を捧げました。 

織田信長公の意思を受け継いで天下統一を果たした豊臣家は一瞬にして瓦解したのに対し、徳川家による太平の世が永く続いたことは、両者の精神の差によるものが大きいと言えるのではないでしょうか。 

そのことは、日本国中の文化財を空襲によって焼き払ったアメリカが、今後も繁栄を保って行けるはずがないことも暗示していると思います。

竈山神社の裏手には、彦五瀬命の陵墓があります。 

神武天皇は４人兄弟の末弟で、このうち御毛沼命は常世国へ、稲泳命は母の国である海原へ行かれました。 

残った彦五瀬命と若御毛沼命（後の神武天皇）は、大八洲を統治するに相応しい土地に移るため、九州高千穂から西に向けて出発されるのでした。 

しかし「男水門」から上陸して進む途中、長脛彦によって彦五瀬命は命を失います。 

戦死されてすぐこの地に葬られ、神社が建てられたのだということです。 

その後、若御毛沼命は海を東へ迂回して熊野で上陸し、彦五瀬命の加護を受けながら無事に大和を平定、初代天皇として即位されるのでした。

*平成２１年３月１５日①　紀伊国一之宮

紀伊国には一之宮とされる神社が３社あります。 

それら全てを午前中に参拝したいので、和歌山市内から高野山に向かう道のりで巡礼することにしました。 

まずは、和歌山城からほど近い場所に鎮座する日前神宮・國懸神宮へ。ひのくま神宮、くにかかす神宮と読みます。 

きっと神武天皇の御東行の頃から変わっていない、うっそうと茂る森の中に、２社が左右に並び配されています。向って左が日前神宮、右が國懸神宮です。 

こちらの宮司さんは紀国造家の末裔で、日本において神話から系図が残っている家系は、皇室と出雲国造家とこちらの３家だけなのだそうです。 

もっとも、「だけ」というのはおかしいかも知れません。世界中を見ても、日本以外にこれほど歴史を重んじる国は存在しないのですから。 

ちなみにこの神社も豊臣秀吉公に攻め込まれ、破壊行為を受けています。

向って左が日前神宮。 

こちらの御神体は日像鏡（ひがたのかがみ）。主祭神、日前大神の他に、思兼命と石凝姥命をお祭りしています。 

日前大神は天照大御神の前霊で、日本書紀にも名前が見られます。 

他の２神は天照大御神の天岩戸隠れ神話の中心となった神々で、思兼命は岩戸から連れ出すための策を考えた知恵の神、石凝姥命は天照大御神を驚かすための鏡を作った神です。

向って右が國懸神宮。 

御神体は日矛鏡（ひぼこのかがみ）。主祭神、國懸大神の他に、玉祖命、明立天御影命、鈿女命をお祭りしており、やはり天岩戸神社に関わる神々となっています。 

天孫降臨の際に八咫鏡とともに奉戴された御神体の２枚の鏡は、紀伊国造家の祖である天道根命に授けられ、その子孫によって現在まで祭祀が続けられているのです。

次に竈山神社を訪れましたが、そのことについてはもう書きました。 

その次に伊太祁曽神社を参拝。こちらも紀伊国一之宮。 

もとの鎮座地は現在の日前・國懸神宮の社地であったのですが、垂仁天皇の御代に現在地に遷座したと伝えられています。 

御祭神は五十猛命（別名大屋毘古神）と、大屋津比売命・都麻津比売命の妹神２柱。 

五十猛命は素戔嗚尊の御子神で、父神とともに天降られた際に様々の樹木の種をお持ちになりました。 

紀伊国がもともと「木の国」と呼ばれていたのも、樹木の神である五十猛命がお鎮まりの国であるためです。

また、素戔嗚尊の子孫である大国主神の神話に、八上比売をめぐって八十神に命を狙われた逸話があります。 

母の助けによってこの地に逃れた大国主神は、大屋毘古神の助言で木の俣をくぐり抜け、難を逃れることができました。 

この神話にもとづき、参拝者たちの間で、厄難を逃れるために御神木の木の俣をくぐることが行われて来たそうです。

*平成２１年３月１５日②　紀伊国一之宮

伊太祁曽神社参拝を終え、高野山に向けて車を走らせます。 

かなり遠い道のりとなり、協力してくれた友人にはただ感謝あるのみとなりました。 

ここまで来たら、高野山に登るのが普通なのですが、今回は河内に入るという目的があるため、高野山入口にあたる丹生都比売神社に参拝するだけにしました。 

紀伊国にある３社の一之宮のうちの、最後の１社です。 

駐車場からは、池にかかる太鼓橋の眺めを楽しむことができます。

丹生とは朱色の顔料や水銀のもととなる朱砂が採れる場所の意味で、社殿や鳥居なども朱色で統一されています。 

空海が開いた高野山金剛峯寺は、もともと丹生都比売大神から神領を借りて、守護神として祀ったのが始まりでした。 

そのことから金剛峯寺とのご縁は深く、神仏が共存する聖なる場所でありました。 

高野山を参拝する人は、必ずまず先にこの丹生都比売神社を参拝するという習慣があったのだそうです。

平成１６年に「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として、世界遺産に登録されました。 

山奥の神社なので、参拝客でにぎわうような雰囲気ではありませんが、ぽつりぽつりと現れる参拝者の姿が途切れることはないようです。

御本殿は４殿が横に並ぶ、日本一の一間社春日造で、第１殿に丹生都比売大神、第２殿に高野御子大神、第３殿に大食都比売大神、第４殿に市杵島比売大神が鎮座しています。 

丹生都比売大神は天照大御神の妹神で、稚日女命とも呼ばれています。 

また高野御子大神は丹生都比売大神の御子で、弘法大師を高野山へ導いた神と伝えられています。

鎌倉時代に大食都比売大神と市杵島比売大神が勧請され、現在の祭祀の形となりました。 

第２殿の神以外はすべて女神で、そのこともあってか歴史上活躍した女性から崇敬されています。 

神功皇后は三韓征伐の際、丹生都比売大神の託宣によって武具類をすべて朱塗りにし、戦に勝つことができました。 

また鎌倉時代に社殿を寄進して現在の形にしたのは北条政子です。

*平成２１年３月１５日③　観心寺

和歌山県から大阪府に入りました。 

ここ河内は楠木正成公のふるさとであり、建武中興のために鎌倉幕府の軍勢を引き付けた場所でもあります。 

まずは歓心寺へ。 

入ってすぐの所に、後村上天皇御旧跡の碑が見えました。 

第９７代後村上天皇は後醍醐天皇の皇子で、御名は義良親王。 

後醍醐天皇が建武中興に際して、（崇仁天皇に倣って）日本の四方に遣わされた「四道将軍」のうち、北畠父子の補佐のもとで奥州の経営に赴かれたのが義良親王です。 

東北鎮撫のための行在所は宮城県の多賀城に残されており、この旅行の直前にも訪れ、後村上天皇が祀られる多賀城神社に参拝して来ました。 

建武中興は足利氏をはじめとする利に敏い武将たちの謀叛によって失敗しますが、義良親王は後醍醐天皇が崩御する直前に譲位され、理想を貫くために戦い続けるのでした。 

この場所は、後村上天皇が約１０ヵ月間、住まわれた場所です。

後醍醐天皇の御信任が最も厚かった楠木正成公も、この寺にゆかりがあります。 

中院への門の脇に、楠公学問所の碑が立っておりました。 

中院は楠木家の菩提寺で、正成公が８歳から１５歳までの間に学んだ場所であり、また嫡子正行公がまだ幼い時、足利から送れらた父の首級を見て切腹しようとした場所でもあります。

国宝に指定されている金堂は、後醍醐天皇が正成公を奉行として造営の勅を発せられ、建てられたものです。

金堂から東の方に、更に山を登る階段が備えられていました。 

ここを登ると、後村上天皇陵にたどり着きます。 

賊軍と京の争奪戦を繰り返し、一時的な奪回は何度かできたものの賊軍の平定には至らず、理想の政治を実現できないまま、正平２３年に住吉行宮で崩御しました。

後村上天皇陵へ向かう階段の昇り口には、大楠公の首塚もあります。 

時期的には、こちらが建てられたのが先になります。 

湊川で討死した大楠公の御首級は、足利側から楠公の婦人のもとへ送られました。 

ただ送られたのではなく、嫡子正行公が宮方から幕府側に寝返ることを、報償をちらつかせながら迫る目的からでした。 

しかし、利よりも義を重んじた大楠公のその嫡子のことだけはあり、父の首級のみを受け取って、使者を丁重に送り返しました。 

「七生滅賊」の精神は、確実にこの後継ぎによって受け継がれたのでした。

*平成２１年３月１５日④　水分

楠公生誕の地は水分という珍しい地名です。 

現在の大阪府千早赤阪村にあるこの場所は、山の中にある小さな集落といった感じの場所ですが、大楠公は村人たちからも慕われる慈悲深い領主だったのではないかと想像できます。 

その出自や生年は詳しくは伝わっておらず、日本の歴史において危機的な時代に、まさに流星のように現れて散った一人の英雄でした。 

生誕地の石碑は、大久保利通が建てたものです。

小さな男の子を連れた父親が、楠公さんを顕彰する石碑を子供に見せて、偉大な人物なんだよと説明している姿を見かけました。 

楠公さんが命がけで追い求めた理想に対し、はたして今の世が少しでも近づいているのかを考えると、申し訳ない気持ちでいっぱいになります。 

しかし逆に考えると、理想は実現してしまえば理想ではなくなるということもできます。 

理想を実現できないことが問題ではなく、理想を求めたり追ったりすることができない社会にしてしまったことが、いまの一番の問題なのかも知れません。

楠公さんが崇敬していた建水分神社がすぐ近くにあるので、参拝しました。 

たけみくまり神社と読み、富田林市に鎮座する下水分宮と一対の神社なのだそうです。 

御祭神は天御中主神をはじめとする５柱の神で、水に関係する神々です。 

第１０代崇神天皇５年に創建され、後醍醐天皇の御代に大楠公によって再営されました。

神社は金剛山の総鎮守で、楠木氏の氏神でもあります。 

大楠公は勅を奉じて鎌倉幕府打倒の旗揚げをする際、戦勝祈願を行ったと伝えられています。 

その際に詠んだ歌は 


久方の天津朝廷（あまつみかど）の安かれと 
祈るは國の水分（みくまり）の神


大楠公が、後醍醐天皇に背いた足利軍に敗れて湊川に戦死すると、後醍醐天皇は楠公の死を悼み、生前の姿を偲ばせる像を刻ませて、ゆかりの深いここ建水分神社に祀られました。 

そして後村上天皇によって「南木明神」の神号を賜ることになったのでした。 

南木神社は、建水分神社より少し低い場所に鎮座しています。 

また社務所では、大楠公が籠城した際に、敵を欺くために考案した藁人形を模した土鈴が売られていました。

*平成２１年３月１５日⑤　下赤坂城

後醍醐天皇の挙兵を知ると、大楠はそれに呼応して下赤坂城に兵を挙げます。 

下赤坂城跡は現在、中学校の敷地を通って行かなければならない場所にあります。 

武運尽きた後醍醐天皇が幕府によって隠岐に遷されると、大楠公は死を装って姿を隠します。 

これは、危険分子が生きていることが後醍醐天皇の玉体を危うくすると考えた彼の計略でした。

激戦の地、下赤坂城の周辺は、今は美しい棚田が広がる景勝の地となっています。 

こののどかな風景は、いつの時代にできたものか、大楠公も見ることができたものなのかと、ふと考えてみました。

棚田百選にも選ばれるこの場所は、河内に入って最も多くの人を見た場所でした。 

大楠公の偉大な事績を知ることもなく、美しい風景に見とれて日常生活を忘れることも、人間が持つ一つ真実の姿のなのかも知れません。 

楠公が見た幸福と現代人が見る幸福の間は、遠く隔たっているようで、実は意外に近いような気がするのでした。

*平成２１年３月１５日⑥　金剛山

次に金剛山へ向かいます。 

金剛山の名前も、太平記には何度も登場します。 

現在は登山家や自然愛好家たちが訪れる観光地となっており、日本国内で唯一の村営のロープウェイが山頂近くまで通じています。 

せっかく来たので、ロープウェイに乗ることにしました。

ロープウェイ乗り場に最も近い駐車場から、更に坂道を徒歩で登らなければなりません。 

ロープウェイで行く先には、きっとすばらしい眺めと見物できる施設などがあるのだろうと期待していました。 

しかし、すばらしい眺めはあったものの、それ以外の施設はほとんど見当たりません。 

おまけに前日の荒天で積もったと思われる雪が溶け出しており、通常の靴では散策すらできないような状況でした。

もう少し下調べをしっかりしてから来ればよかったと反省し、せめて山なみでも写真に残そうとカメラを覗くと、レンズに黒い点。 

ハンカチで拭いて、さて撮影しようとしても、なぜか黒い点は消えていません。 

不思議に思って友人に尋ねると、カメラの内部にホコリが入ったのではないかとのこと。 

ここに来て、不運が連続して起きてしまったのでした。

*平成２１年３月１５日⑦　千早城

金剛山の散策は思ったより早く終わった、というよりほとんど何もできなかったので、時間に余裕が生まれました。 

そこでせっかくなので、金剛山中腹に大楠公が築いた千早城跡へ登ることにしました。 

千早城は、たかだか千人の兵で幕府軍を１００日にわたって引きつけたことで、新田義貞による鎌倉攻めを可能にしたのでした。 

城へ続く階段の脇に、復元された藁人形がぽつんと立って、出迎えてくれました。

しばらく上ると鳥居が見えました。 

間もなく本陣のあった場所にたどり着くのだろうと思ったのですが、それは甘い見当違いでした。 

なにせ数十万の幕府軍が押し寄せても落ちることのなかった城です。 

ちょっと登ったくらいで本陣にたどり着くわけがありません。 

途中で一人、上から下りて来た人とすれ違いましたが、この人は目的地まで行けたのでしょうか。 

また、もう少し登ると、女の子の声が聞こえてきました。 

まだ幻聴がするほど疲れてもいないはずなのに…。 

汗だくになり、肺に入る空気もとても重く感じながら、ひたすら足だけは前に進め続けたのでした。

ようやく少し広い所に出ました。 

女の子が父親らしい人と遊んでいます。 

やっぱり幻聴じゃなかった。よかった…。 

いままで多くの山城跡に登りましたが、最も険峻な山城であると自信をもって言うことができます。 

千早城は日本１００名城にも挙げられています。

ここで引き返さずもう少し歩くと、千早神社の社号標が見えました。 

このまま進めば、先ほどロープウェイで登った金剛山に行きつくことができるはずです。 

またその途中には、大楠公の三男、正儀公の墓所があるようです。 

正儀公は北朝へ投降したり南朝へ帰順したりと、乱世を揺れ動いた人物のようですが、まだ詳しくは知りません。

千早神社は、もともと千早城の鎮守として八幡大菩薩をお祀りしていましたが、その後正成公・正行公、そして正成公の婦人である久子刀自を合祀して、名前も千早神社となりました。 

乱世にあって、それぞれが苦難に向かわねばならなかった父・母・子の３人は、生前ついに実現しなかった安らぎの時間を、この険しい山奥でようやく手にすることができたのでした。    </description>
    <dc:date>2009-08-26T13:14:05+09:00</dc:date>
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    <item rdf:about="http://www37.atwiki.jp/rinseidou/pages/175.html">
    <title>平成２１年１月２４日～２６日　赤穂へ</title>
    <link>http://www37.atwiki.jp/rinseidou/pages/175.html</link>
    <description>
      *平成２１年１月２４日①　備前

いつ雪が降ってもおかしくないこの季節。 

雪を見る目的の旅も悪くありませんが、限られた時間をできるだけ有効に使って旅を満喫するためには、やはり天気に恵まれた方がよいに決まっています。 

どこへ行くかによって天気の影響も大きかったり小さかったりします。 

そこで今回は中国山陽、赤穂へ行くことに決めました。 

片岡千恵蔵主演の「赤穂浪士」をＤＶＤで鑑賞したのがつい先日のこと。 

また旅程が決まってからは、吉川英治の「新編忠臣蔵」を引っ張り出して読み、浅野内匠頭切腹後に家臣たちがとった行動のイメージを膨らませました。 

これから実際に赤穂城を訪れることで、そのイメージはより鮮明になるものと期待しての旅となります。 

いつものように伊丹空港に到着。 

まずは少し遠回りをし、備前にある閑谷学校へ。 

閑谷学校に新しい講堂（現在は国宝に指定）が完成し、現在に残る姿となったは折しも元禄１４年。 

浅野内匠頭が江戸城松の廊下で刃傷に及び、即日切腹となった年のことです。 

学校そのものの創始はそれよりも遡り、寛文６年に岡山藩主池田光政公が池田家の墓所の選定のためにこの地を訪れた際、風光明媚な環境が学問を修める場所として適していると思い立ち、寛文１０年に津田永忠に学校建設を命じました。 

前の年には藩士のための学校を創立していましたが、ここ閑谷学校は領民のための学校として特別に設立されたので、庶民のための学校としては世界最古のものです。 

その後、講堂や聖廟が次々に完成しますが、光政公は天和２年に亡くなります。 

赤穂藩から距離的に近いことから、四十七士の中にもここで学んだ人がいます。 

敷地の小高い丘には、二棟の社殿が立てられています。 

東側の社殿は閑谷神社。西側の社殿よりも少し低い位置にあります。 

閑谷学校の創始者である池田光政公が祀られており、その後明治に入って先々代輝政公・先代利隆公の御霊が合祀されました。 

光政公は徳川光圀公・保科正之公とともに三名君と称され、淫祠邪教を廃して神儒一致の政策を進めた他、庶民に至るまで華美や奢侈を戒めました。岡山名物の「ばら寿司」も、倹約の精神から生まれたものだそうです。 

光政公のすごい所は、万が一転封や改易となったとしても、学校は永続されるよう、財政面での独立すなわち学校単体の自給自足の体制を整えたことです。

西側の社殿は孔子を祀る聖廟です。 

入念な考証によって鋳造された金銅製の孔子像が納められており、１０月の釈菜（せきさい・羊などの犠牲ではなく野菜を供える簡素化した儀式）の際にのみ開かれます。 

聖廟に続く１９段の石段の両脇には、孔子の墓所で採取された種から育てられた楷の木が植えられており、秋にはそれぞれ赤と黄に染まります。

閑谷学校は津田永忠の死後、次第に衰微しますが、宝暦１３年に教授になった有吉以顕と藩主池田治政公によって再び隆盛し、頼山陽や横井小楠も訪れました。 

明治３年、藩政改革によって藩営の閑谷学校は閉鎖となりますが、それを惜しむ人々が山田方谷を迎えて「閑谷精舎」として再建。 

方谷の死後、明治１７年に藩士西薇山などによって「閑谷黌」として再興します。それから私立中学閑谷黌、岡山県閑谷中学校と改称して行きます。 

その閑谷中学校の本館であった建物は現在、閑谷学校資料館となっています。 

*平成２１年１月２４日②　赤穂城

閑谷学校の見学を終え、赤穂に向かいます。 

最初に訪れたのは赤穂大石神社。 

旧赤穂城内に鎮座し、大石内蔵助良雄命を始め四十七義士命、中折の烈士萱野三平命、浅野家三代、その後の藩主森家七武将をお祀りしています。 

江戸時代は幕府に憚って表だった顕彰ができませんでしたが、明治天皇が勅使を泉岳寺に遣わして赤穂義士を弔われたのをきっかけに、赤穂と京都に義士たちを祀る神社が創建されました。 

参道両脇には四十七士の石像がずらりと並び、その間を参拝者が後を絶たず往来しています。 

宝物殿には討ち入りに用いられた刀剣や防具などが、別館には城の請取の際の文書や浅野家断絶後の城主森家に伝わる重宝類などが展示されています。 

また義士木像奉安殿には、昭和２８年の義士自刃満２５０年大祭を記念して当代超一流の木彫家４９人によって一人一作ずつ製作された木像が展示されています。 

四十七士と浅野内匠頭、そして萱野三平の合計４９人の木像ですが、それぞれ生前のエピソードを踏まえて特徴を備えた作品になっています。

四十七士に含まれない萱野三平は中折の烈士と呼ばれ、四十七士と同格でお祀りされています。 

萱野三平は主君の刃傷を藩に伝える一番早駕に乗った人物です。 

江戸から赤穂まで４日間、昼夜を徹して駕籠を走らせたのは、早水藤左衛門と萱野三平の二人でした。 

飛脚でさえ８日かかる道のりをその半分の時間で移動した二人は、到着した時には廃人同然だったとのことです。 

実はこの日乗った飛行機は気流の影響でかなり揺れ、１時間と少しの間不快感との戦いでしたが、早駕の揺れはその比ではなかったことでしょう。しかも４昼夜連続とは。 

二人が目指したのは筆頭家老大石内蔵助の屋敷でした。その時くぐった門は、大石邸長屋門として、当時のまま残されています。 

萱野三平はその後健康も回復し、血判状にも名を連ねますが、吉良家と縁の深い大島家への士官を父から強く勧められ、孝と義に板挟みされて悩み、大石内蔵助に遺書を書いて自決するのでした。 


晴れゆくや日頃心の花曇り


変事の噂はたちまち城下に流れ、藩札を持つ領民が続々と城に押し寄せました。 

浅野家がお取りつぶしとなれば、藩札はただの紙屑となってしまいます。 

領民たちの不安に答える形で、大石内蔵助は六分換え（換金率６０％）の決定を下します。 

藩の現金を全額藩札処理に充て、自ら所有する藩札は全て破棄するなど誠実な対応をした結果、地元の商人たちも日ごろの恩に答えるかたちで藩札を返すのでした。 

領民たちが押し寄せることがなくなったばかりか、安心しきってしまい換金になかなか訪れず、逆に早く換金を済ませるよう呼び掛けるほどだったとのことです。 

それから、城を枕に討ち死にか、大手門前で全員切腹か、藩士の間で意見が分かれますが、お家再興のために城の明け渡すという決定がなされ、秩序を乱すことなく藩士たちは城を去るのでした。 

赤穂城跡は、今も復元整備が進められています。

忠臣蔵の物語は、その後京都や江戸を舞台とし、宿願であった仇討を成し遂げ、全員が切腹することは誰もが知るとおりです。 

四十七士のうち寺坂吉右衛門は、泉岳寺へは向かわずに姿をくらまします。 

彼の陪臣という身分から、逃げたことにすれば追手がかからないだろうことを予期して、浅野大学（内匠頭の弟）や瑤泉院（同夫人）への報告を行わせた内蔵助の深謀であったと考えられます。 

切腹した四十六士は泉岳寺に埋葬され、吉右衛門もその死後、同じ墓所に葬られました。 

赤穂の花岳寺にも墓所があるというので、お参りに行くことにしました。 

受付へ行くと、閉館時間が近いからと断られてしまいましたが、遠方から来たと熱意を伝えると、墓所だけならと通してくれました。 

墓所には遺髪が納められ、大石内蔵助と主税を中心に、右から身分の高い順に墓石が並んでおり、後から加えられた寺坂吉右衛門の墓は一番左、一番右にある吉田忠左衛門の墓の位置より少し飛び出して置かれていることなど、丁寧に説明して下さいました。 

一番早駕で赤穂に着いた二人が水を飲んで呼吸を整えたという息継ぎ井戸が、花丘寺の近くに残されています。 

現在は飲料水ではないため、萱野三平と同じ水を飲むことはできませんでした。

*平成２１年１月２５日①　赤穂の海

翌日、まずは赤穂市立海洋科学館「塩の国」へ行きました。 

赤穂と言えば塩。 

浅野内匠頭は、製塩技法を隠したために吉良上野介から怨まれたという説もあるくらい、赤穂の塩は全国的に優れていました。 

日本の場合、塩は岩塩ではなく海水から精製されますが、いきなり海の水を蒸発させて作るのではありません。 

まず水分を飛ばして、塩濃度の高い鹹水という食塩水を作ります。 

鹹水の精製は、藻塩焼き・揚浜式塩田・入浜式塩田・流下式塩田と発展し、イオン交換膜法という最新技術にたどり着くのですが、海浜公園には揚浜式・入浜式・流下式の３つの塩田が設置されています。 

鹹水が出来たら、いよいよそれを煮詰めて塩を取り出します。 

「塩の国」では、所要時間３０分でそれ塩づくり体験することもできます。 

生活に欠かせない塩がどのように作られるのか、というより目の前でキメの細かい綺麗な塩の結晶が作られるのを実際に体験し、教え子たちも連れて来たいと思いました。 

毎週日曜日の決められた時刻に、製塩作業所では大規模な釜焚きが行われますが、今回は時間の都合で、準備中の釜を外から覗くだけに終わりました。

海岸へ進むと伊和都比売神社があります。 

赤穂御崎に鎮座しています。 

御祭神は伊和都比売大神、播磨国一之宮の御祭神大穴牟遅神の比売神と考えられます。 

鳥居の先には海しかありません。 

海の道から参拝する神社なのです。 

日本海海戦の前には、東郷元帥も海の道から戦勝祈願の参拝に訪れています。 

少し歩いた所に、大石名残の松があります。 

赤穂城を明け渡した大石内蔵助は、浅野家再興を期して京都山科に隠棲します。 

赤穂を去る時、ここに生えている老松を何度も振り返り見ては、赤穂への名残を惜しんだそうです。 

当時の松は既に枯死してしまい、現在は新しい松が成長を続けています。

赤穂への名残を惜しみながら帰路につくのは、旅人である自分も同じです。 

これから神戸に向けて帰るのですが、どうしても寄っておきたい神社があります。 

それは大避神社、謎の渡来人・秦氏ゆかりの神社です。 

御祭神は大避大神は秦河勝のことで、聖徳太子から弥勒菩薩半跏思惟像を賜り、広隆寺を建立したことで有名です。 

聖徳太子が薨去されてからは、権勢を強める蘇我氏に迫害され、都を追われてこの坂越の地にたどり着いたのでした。 

建築や治水などの技術集団であった秦氏は、日本全国の神社建設や、数々の神道行事の創設に関わっているらしいのですが、表の日本史ではあまり語られることのない一族なので、正確なところはよく分かりません。 

大避神社は瀬戸内海三大祭りの一つ、坂越の船祭り（御船渡御）でも有名で、復元された祭礼船が納められています。 

赤穂藩主は江戸参勤の際、必ずここを参拝してから江戸へ向かったそうです。

裏参道を登ると、明治維新までは神社と一体であった妙見寺観音堂があり、その境内には児島高徳朝臣の墓があります。 

岡山を訪れた際、御醍醐天皇の奪還を試みた児島高徳が桜の幹に十字の詩を刻んだ地に鎮座する、作楽神社に参拝しましたが、その後も南朝の武将として各地を転戦、熊山の戦いで重傷を負って妙見寺にて療養したと伝えられています。 

和気清麻呂が宇佐に流される際、道教の遣わした暗殺者から彼を守った猪とは、実は秦氏のことではないかと言われています。 

同じく忠勤の武将・児島高徳も、秦氏の協力によって朝敵と戦ったのかも知れません。

*平成２１年１月２５日②　加古川

帰りに加古川に寄り道をしました。 

まずは日本三奇のひとつ、石乃宝殿です。 

生石（おうしこ）神社という珍しい名前の神社の御神体、巨大な石造物のことです。 

地元宮城の塩釜にも日本三奇のひとつである塩竈神社の御釜がありますが、いつでも行ける場所であるため、改めて見に行く機会がありませんでした。 

先にこちらを訪れることになったのですが、その佇まいは、想像をはるかに超えていました。 

巨大な石室が浮いているような造りになっているのですが、山から切り離されているのではないのです。 

石室の下は池になっており、どんな旱魃においてもその水は絶えることがないのだそうです。 

惜しいことに、石室の謎を解く手掛かりとなる、神社にあった伝来物の全ては、秀吉公の三木城攻略に協力しなかったために引き起こされた焼き討ちにより灰燼に帰してしまいました。 

石室の周囲をぐるりと回ることができ、背面には、意味ありげな突起を見ることができます。 

石室の巨大さと、周囲の崖との近さゆえ、どの位置から見ても全体を見渡すことはできません。 

この石室がどのような理由で造られたのかは、はっきり分かっておりませんが、以下の伝承が残っています。 

神代の昔、大穴牟遅命と少毘古那命の二神が、天津神の命を受けて国土経営のために出雲からこの地へお遷りになり、国土を治めるのにふさわしい石の宮殿を造営しようと一夜だけの工事を進められましたが、工事の途中で阿賀の神の反乱を受け、それを鎮圧した時には既に夜が明けてしまっていたため、未完成のままこの石に籠られたのです。 

万葉集にも詠まれています。 


大なむち少彦名のいましけむ 
しづのいはやは幾代へぬらむ


次に鹿嶋神社へ。 

聖武天皇の勅願によって国分寺と大日寺が建立された時、その鎮護の神として奉祀されました。 

秀吉公の神吉城攻略の際、周辺は戦火に焼かれましたが、社殿の消失はまぬがれました。 

参拝して気づいたのは、社殿をぐるぐると回っている人たちがいることで、よく見ると手には竹の札のようなものを持っています。 

説明書きには、置かれている竹の札を年の数だけ持ち、一周するごとひとつずつ箱に収め、全部なくなると願いがかなうのだと書いてありました。 

神仏習合の風習が残っているようで、境内には線香の煙がただよっています。 

境内を出ると占い所や新興宗教らしい施設もあり、独特な雰囲気でした。 

参道で売っている柏餅が名物です。

次は高砂神社。 

御祭神は素盞鳴尊、奇稲田姫、大己貴命の三神。 

神功皇后が三韓征伐から凱旋の途中、守護神である大己貴命がこの地に止まって国土を守りたいと宣されたため、阿閇臣の祖瀬立大稲起命を祭主として創建されたという伝説が伝えられています。 

その後、円融天皇の御代に疫病が流行した際には、阿閇臣正敦の夢に素盞鳴尊と奇稲田姫が現れ、翌朝社頭の松を見ると、神託のとおり白木綿がかけられていたことから、二神を合わせてお祀りしたところ、疫病は治まったのだそうです。 

境内にある松は、ひとつの根から左右に雄雌が分かれており、「相生の霊松」と呼ばれています。 

尉姥の二神がこの松の元に現れて、「我は伊弉諾・伊弉冊の神である」と告げて姿を隠されたという伝説が残されており、浪曲「高砂」にも歌われています。 

しかしこの松も、秀吉公による三木攻めの際に切られてしまい、現在の松は５代目とのことです。 

播磨地方は秀吉公によって傷つけられた歴史遺物が多いことを実感したところで、二日目も暮れて行くのでした。

*平成２１年１月２６日　三宮

帰りの飛行機まで時間があるので、神戸市内を散策することにしました。 

前回は湊川神社へ行ったので、今回は三宮駅周辺を回ることに。 

まずは三宮の地名の由来となった三宮神社へ。 

一ノ宮・二ノ宮の次に格式の高い神社なのだから、それなりに大きな神社だろうと予想していましたが、小さな地図には掲載されていない小さな神社で、ビル群に囲まれて窮屈そうな様子でした。 

御祭神は水の神である湍津姫命。 

海運の盛んな町ですから、昔から水の神によって守られていたのでしょう。

三宮神社は、明治維新期にひとつの事件の舞台になります。 

神戸事件。西宮警備のために移動していた備前藩兵の隊列を仏兵と米兵が横切ろうとし、それを制止した藩兵に対して英兵が銃を構えたことで騒動に発展しました。 

備前藩は３門の大砲を引いて応戦しました。 

その時の大砲ではありませんが、同時代の大砲が境内に置かれています。 

力にものを言わせる三国は神戸沖の諸藩の船６隻を拿捕し、神戸の外国人居留地を軍事占領下に置きました。 

結局新政府は日本側の非を認めて謝罪。銃撃を指揮した藩士、滝善三郎を切腹させることで解決するのでした。 

彼の犠牲がなければ、神戸は香港や上海のように本国から切り取られていたことは間違いありません。 

辞世の句 


きのふみし夢は今更引かへて 
神戸が宇良に名をやあげなむ


次に生田神社へ。 

前の神戸旅行の際にも訪れましたが、その時は友人が一緒であったため、あまりゆっくり散策することができませんでした。 

今回は、社殿の裏にある生田の森のを見ることができました。 

源平合戦の舞台でもあります。 

まだ時間に余裕があるので、異人館が立ち並ぶ北野天満神社へ向かいました。 

まだ１月なのに温かさを感じます。しかも上り坂なので、歩くと汗ばむほどでした。 

しかしここで道に迷ってしまいました。 

異人館の案内表示はたくさん出ているのですが、神社の看板は一つも見かけません。 

犬を連れて散歩しているおじさんに訊いてみると、どうやら日本人ではないらしく、言葉すくなに教えてくれました。 

そしてようやくたどり着いた北野天満神社。 

平清盛公が福原の都を整備する際、禁裡守護の神として、京都の北野天満宮を勧請してお祀りしたのが始まりです。 

北野の地名も、この神社からつけられたものです。

鳥居から階段を上り、社殿で参拝した後さらに裏手の梅林園の階段を上ると、そこは展望台になっていました。 

天神様といえば梅の花。 

この梅林園は、先々代宮司の手作りで整備されたものです。 

展望台からは、神戸港まで見渡すことができました。     </description>
    <dc:date>2009-07-29T14:59:08+09:00</dc:date>
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    <item rdf:about="http://www37.atwiki.jp/rinseidou/pages/174.html">
    <title>平成１７年２月５日～７日　鎌倉へ</title>
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    <description>
      *平成１７年２月５日　鎌倉

過去の旅を振り返ることにしました。 

特にこの鎌倉行きは、自分にとって転機となった重要な旅なので、記憶の糸をたどりながら記録に残したいと思います。 

この頃はまだデジタルカメラを持っていなかったし、携帯電話のカメラもかなり性能の低いものだったので、画像が残っていないことが残念です。 

某中学校で初めて担任を仰せつかり、間もなく１年を迎える厳寒の季節。 

正規の職員ではなく臨時職員であったため、何やら契約の都合で、辞令の切れる期間が１週間生じてしまうことになりました。 

その間は教師ではなくなるため、授業を行うことができません。 

担任がいないことで学ぶことも多いだろうと結論を出し、１週間は完全に姿を消すことにしました。 

しばらく来ないということは、前日まで秘密にしていたのですが、その日にはクラスの生徒たちとの間にちょっとした感動的な場面があったのでした。 

それまで部活動の指導で休日もなかったため、やりたくてもできなかったことを、この機会に済ませることにしました。 

そのうちのひとつは、大学時代に仲のよかった友人に会いに行き、近況を報告し合うことです。 

新幹線で東京まで出て、それから鎌倉をめざしました。 

まず相模国一之宮、鶴岡八幡宮に参拝。 

ここは小さい頃に母に連れられて来た大事な場所で、鎌倉駅からまっすぐ続く参道など、おぼろな記憶が残っています。 

社殿は改修工事のためにシートに覆われていました。 

鶴岡八幡宮は源頼朝公ゆかりの神社ですが、創始は河内源氏の源頼義公にまで遡ります。 

頼義公は前九年の役の戦勝祈願のために、京都の石清水八幡宮を由比郷鶴岡に勧請し、その後鎌倉に幕府を開いた頼朝公によって、現在の地に遷されました。 

平家の天下を覆し、更に強大な武力を持つことによって国家の安寧を実現したのが頼朝公でした。 

軍事の天才であった弟義経公が、その理想を理解できず、官位を賜って新たな構想の火種となったことは、日本史上の大きな悲劇のひとつでした。 

頼朝公は情に薄いと現代人は思っていますが、異腹とは言え血を分けた兄弟を討つことは非常に苦しかったことだろうと思います。 

古今東西、天下太平は悲しい犠牲の上に成り立っていることを忘れてはならないのだと思います。 

源氏による幕政は３代目実朝公の暗殺によって終わり、北条氏が実権を握ります。 

その北条氏も、元の侵略軍を追い払ったことはよかったとして、後鳥羽上皇や後醍醐天皇を遠島に遷し奉る乱行を行ったり、賄賂が横行して民の生活を苦しめるなどして、全国で倒幕の烽火が上がります。 

倒幕のために立ち上がったのが、次に訪れた鎌倉宮（大塔宮）の御祭神、大塔宮護良親王でした。 

後醍醐天皇の皇子で、建武中興のために東奔西走、数多くの戦場を駆け巡った、皇族としては異色の人物です。 

宮や忠臣たちの働きにより、鎌倉幕府は倒れるのですが、恩賞に与ることのできなかった武将たちの不平をうまく汲み取った足利尊氏によって、建武中興の理想はうたかたの夢と消えてしまいます。 

宮は足利直義の策略によって捕えられ、土牢に幽閉されたあげく殺害されてしまいました。 

社殿の後方には土牢が残されており、宮の御無念を慰めるために参拝者による捧げものが置かれています。 

また、宮が身につけておられた御遺品などの展示も見ることができ、人並み外れたご立派な体格をしていたことが分かります。 

鎌倉宮は、建武中興十五社にも数えられています。

帰りに荏柄天神社(三天神社)と源頼朝公墓所を参拝。 

頼朝公の墓所は、初めて幕府を開いた偉大な権力者のものとは思えないほど、小ぢんまりとして粗末なものでした。 

本来なら、政権を継いだ北条氏が立派な廟を建てるなどして丁重に祀るべきものですが、彼らは権力の簒奪者でしかなかったことをこの墓所から窺い知ることができます。 

気づくと夕方になっていましたが、昼食をとっていなかったことに気づき、賛同の洒落たレストランで食事をしました。 

そして東京の友人宅へ。 

久しぶりの来訪を喜んでくれ、話は尽きませんでした。

*平成１７年２月６日　秩父三峰

この日の目的地は、秩父の三峰神社。 

友人宅を出て、出身大学のある池袋から西武線で終点の秩父まで向います。 

大学時代に所沢までは行ったことはあるのですが、それより先は初めての領域です。 

駅を進むごとに、風景はどんどん寂しさを増します。 

秩父駅で降りると、なぜか公用車から「旅立ちの日に」が流れているのが聞こえ、学校のことを思い出しました。 

卒業式の歌だな…。 

そこから更に、何時間かに１本しか運行していないバスに乗りました。 

神社に着いたらお守りなどのおみやげを買うつもりでしたが、財布は空に近い状態。 

行き当たりばったりの旅なので、バスの時刻は事前に確認していませんでした。 

バス停の時刻表を見ると、間もなく貴重なバスが発車する時刻。 

周辺でＡＴＭを探す時間はなく、とりあえず神社まで行けばあるだろうと高をくくっていました。 

バスはどんどん冬の山奥へ入って行きます。 

途中、交差点でもないのに信号機があり、かなり待たされてようやく青に。 

なんと、車がすれ違うことのできないほど狭い道路なので、交互通行のための信号だったのです。 

とんでもない場所に向かっているのだと、今更ながら気づきました。 

バスはつづら折りの坂道を登り、ようやく駐車場らしき所に到着しました。 

そこは、四方を雪山に囲まれた秘境でした。

まず、帰りのバスの時間を確認します。 

帰れなくなっては大変ですし、実際にそうなってしまうことも無いとは限りません。 

今乗って来たバスは、３０分ほどで出てしまいますが、２時間ほど待てば次のバスが来ます。 

それに乗って帰ることに決めました。 

まずはＡＴＭを探すのですが、このような山奥にあろうとは考えられません。 

お土産を買えば、帰りのバス代がなくなります。 

せっかくここまで来ながら、お土産はあきらめざるを得ませんでした。 

参拝を済ませ、周囲を散策することにしました。 

境内には思ったより多くの参拝者の姿が見えましたが、少し離れると人の姿は見えなくなります。 

動いていないロープウェイの乗り場は、ちょっとした公園になっていましたが、山賊が出てもおかしくないような雰囲気でした。 

神社に戻ると、まだバスが来るまで時間があったので、温泉に入ることにしました。 

温泉に入り、バスに乗ると、ちょうど財布が空になる計算です。 

のんびりつかる湯は、心身ともにリラックスさせるに充分の憩いを味わわせてくれました。

三峰神社は秩父三社のひとつに数えられ、日本武尊が東国平定の際、碓氷峠に向われる途中で立ち寄られ、伊弉諾尊と伊弉册尊の国造りを偲んで創建したと伝えられています。 

社殿には極彩色の彫刻がほどこされ、雪の白がその彩りをより鮮やかに見せてくれました。 

雪のある冬こそが、この神社を訪れるには最もよい季節であると思います。 

帰りも同じ道をバスで下り、１時間以上かけて秩父駅に着きました。 

郵便局を探し、今更ながら軍資金を調達。 

秩父神社を参拝したかったのですが、なかなか見つかりません。 

レッドアロー号の時間が迫っていたので、秩父神社は次の楽しみとすることにしました。

*平成１７年２月７日　大宮

最終日も、大学時代に行きそびれた場所を目指しました。 

この日は大宮に鎮座する武蔵国一之宮、氷川神社へ。 

荒ぶる神である須佐之男命をはじめ、妻神である奇稲田姫命と息子神である大己貴命をお祀りしています。 

この日はちょうど的（いくわの）神事の日に当たっており、参拝した時には弓矢で的を射る儀式が行われていました。 

欅の参道をのんびり散歩し、帰路につきました。    </description>
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