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現行スレ
『2万5千で上洛』スレテンプレ
ここでは「武田は上洛できたのか?」から始まって。現在では
「どうすれば武田は上洛できたのか」
「どうして武田は上洛できなかったのか」
など、武田と織田を中心にした戦国時代の話が扱われています。
ネタによっては場所は東北から九州まで、時間は室町から江戸まで
幅広くカバーしております。
2 名前:人間七七四年[sage] 投稿日
上洛の可能性 ↓以下で上洛可能
- 信玄が健康で長命
- 足利浅井朝倉松永本願寺三好残党六角残党らも包囲網一致協力
- 三方ヶ原の戦い後、徳川家を早期に攻略乃至は降伏
- 武田軍が甲斐に帰らず1年以上遠征可能
- 上杉が空になった信濃、上野を 襲うことは決してない
- 北条も軍艦の記載のように援軍を出す
- 三河尾張国境の 水野家が離反する
- 織田との決戦で勝利する
3 名前:人間七七四年[sage] 投稿日
各国の石高及び動員兵力(石高は太閤検地のもの)
ちなみに、万石あたり250人は比較的低い動員率、
無理すればもっと動員できるだろうがそういう兵力は基本的な守りに残すと解釈。
関東
上野:49万6千石/12400
甲信・中部
甲斐:22万8千石/5700
信濃:40万8千石/10200
飛騨:3万8千石/950
美濃:54万石/13500
近江:77万5千石/19375
東海
駿河:15万石/3750
遠江:25万5千石/6375
三河:29万石/7275
尾張:57万2千石/14300
伊勢:56万7千石/14175
志摩:1万8千石/450
北陸
越後:39万1千石/9775
越中:38万3千石/9500
越前:49万9千石/12500(慶長検地では68万石)
若狭:8万5千石/2125
畿内
山城:22万5千石/5625
大和:44万9千石/11225
摂津:35万6千石/8900
河内:24万2千石/6050
和泉:14万1千石/3550
伊賀:10万石/2500
四国
讃岐:12万6千石/3150
阿波:18万4千石/4570
淡路:6万2千石/1550
各国の石高及び動員兵力(石高は太閤検地のもの)は以下参照
ttp://homepage3.nifty.com/ksatake/
4 名前:人間七七四年[sage] 投稿日
1572年(元亀三年)十月三日(信玄、古府中を出立)の各勢力の状況
●武田
- 甲斐…100%(5700)
- 信濃…95%(9690)
※飯山周辺は残す。
※賀野、松井田、箕輪など領地は広げているが、ほとんど北西山間部なのがネック。
面積で言えば4割だが、石高では三分の一程度とする意見あり(上野の平野部は南東)。
14郡中武田は吾妻郡 碓氷郡 甘楽郡 群馬郡の半分 故に石高的に3分の一 の説。
利根川以西を領土とすると、これに録野、片岡、多胡郡が加わる。(約四割)
※72年7~8月に飛騨諏訪城を落としている。これ以前の直接の軍事行動はなし。
もともと飛騨の豪族は越中の対一向一揆で上杉と仲がいい。諏訪城主江間氏も逃亡
して上杉氏を頼る。
※68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っているが、71年には謙信に落とされている。謙信は73年
には加賀まで攻め寄せているから、その頃までに越中の武田勢はなくなっていたとみるべきか?
松倉(富山)城主椎名氏を降すのは『北陸の中世城郭第15号』より1573年1月の可能性が高い
※遠征前に陥したのは71年に国境の榛原郡小山城(この時高天神や掛川も攻めるが落せず)と犬居の天野氏のみ 天方等はこの時点では未攻略 。
武田が本格的に東に出てくるのは、氏康が死んで同盟復活する71年後半(正式な復活は71年12月)。
遠征後は20%ほどに増大
※足助城を落とし、賀茂郡一部・設楽郡ほぼすべて・八名郡一部を支配。ただし全て山地なのがネック。
※秋山信友が岩村城を落すのが72年11月(ただしソースは軍艦)。 それ以前に落していた恵那郡の小城を、どの程度に見積もるか?
18(21?)郡中これだけでは最大5%もないとする意見。
総計25035~26635
後北条と同盟。義昭や顕如ら畿内の反織田勢力と連絡を取り合う。背後に上杉と上野方面を巡って火種。
ただし、もともと高税率のうえ、69年以降は戦もそれまでの二倍以上。領国の疲弊はすでに始まっていた
とする説あり、ただしソースは少ない。継戦能力にも疑問。
5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日
●織田
- 尾張…100%(14300)
- 美濃…90%(12150)
※21(18郡?)郡中武田は恵那郡岩村周辺のみ 郡上郡遠藤氏は武田織田を秤にかけて日和見。
※ただし、戦力としては水軍衆がほとんどと思われる。
※浅井・六角は追い詰め中。他には甲賀郡の土豪と野洲郡のいつ蜂起するか判らない一揆衆。
※桑名・三重郡の一揆衆。配下からも寝返られ、本城も明け渡され乗っ取り進行中の北畠氏を除く。
※水野氏など、桶狭間以前から織田についていた豪族。
総計51114
この他、畿内各地に協力勢力と敵対勢力あり。義昭とは抜き差しなら無いところまで。堺などの都市も抑える。
若狭の豪族たち(逸見・粟屋・内藤)、大和の筒井他、摂津河内和泉の細川畠山荒木などが味方勢力として存在。
池田和田淡路の安宅などはテンプレ時は旗幟をはっきりさせていない。
●徳川
- 三河…78%(5675)
- 遠江…92.2%(5875)
※両国とも、武田にどの程度侵略されているか。また調略如何によっては動員はさらに下がるかも。
総計11550
三方ヶ原の戦力を考えれば妥当か。ただし武田軍撤退後、特に遠江では支配率は グンと下がっているだろう。上杉と同盟。
{6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日''
■三方ヶ原の戦い後の情勢。
1572年
十二月 二十二日 三方ヶ原の戦い
1573年
一月 三日 武田軍 野田城を囲む
畿内の国衆から義昭に付く者が現れる。信長は村井、島田、朝山日乗を講和の使者に出すが義昭は一蹴し、
近江志賀郡の石山、今堅田に兵を入れる。
二月 十五日 武田軍 野田城を落とす。
二十四日 柴田、丹羽、明智、蜂屋の軍が近江を攻撃。石山、今堅田も数日で開城。
三月 二十五日 信長、岐阜を出陣し京へ。
二十九日 細川藤孝、荒木村重が逢坂に信長を出迎えて忠誠を誓う。
四月 三日~四日 信長 上京焼き討ち。二条御所を包囲。
七日 朝廷の仲介により信長と義昭との和睦なる。
八日 信長、岐阜に帰る。
十二日 武田信玄死去
柴田、佐久間らは六角氏が立て篭もっていた近江愛知郡の鯰江城を攻略。さらに百済寺も焼き討ち。
七月 足利義昭京より逃れる。
八月 朝倉・浅井両家滅亡。
7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日
■この情勢をもとにした推測。
織田は
近江に浅井・朝倉への抑えとして木下、磯野で合計七千ほど、
江南の抑えと京へのにらみに八千ほど、
北伊勢への抑えと尾張の守備に五千ほど、
美濃では岩村への抑えに三千ほど抑えに置くとすれば、
(基本的な任務は守備、現状維持)
計算上は2万8千ほどを対武田に向けられるのでは?
武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、
北条の援軍が二千~三千で、
合計ニ万~二万五千ほど?
武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、石高的には10万石3000ほど
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、石高的には6万石1500ほど
北条の援軍が二千~三千で、
遠征軍合計実数二万五千ほど
信玄率いる遠征軍は石高的には84万石~90万石で21000~22500ほど+北条の援軍2000~3000
- 美濃へ入ってくる秋山隊が3000ほど
8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日
その他の勢力 東国
●長尾上杉
※ただし、揚北衆特に本庄氏の扱いは微妙。
※沼田・厩橋近辺と考えるとこれぐらいか? 武田・北条におされ気味。
※神通川以東(新川郡)松倉・富山は1573年正月まで攻撃中。72年~73年にかけての遠征によって、越中の大部分を支配下に収める。
この時は越中から加賀にまで攻め込み、顕如から信玄へ援軍要請が行われた。
松倉(富山)城主椎名氏を降すのは『北陸の中世城郭第15号』より1573年1月の可能性が高い
- 飛騨…三木氏や江間氏とは友好的。1572年の富山攻めでは江間氏が援軍派遣してる
- 信濃…5%?(510)
※飯山城とその周辺は保っていた模様。最大見積もってもこの程度。
総計13425~13900
遠征能力は高いが、北陸へ出陣中。仮に北信・上野に出陣するとしてもメリットは薄い? ただし史実
ではこれ以前も以後も関東への出兵を繰り返している。武田・北条・加賀を敵に回して織田・徳川と同盟。
関東の諸将(佐竹ら)とは疎遠になった。
●後北条
武田・上杉と並ぶ大国だが、武田とは同盟中。今回の武田西上でも援軍(二千~三千?)も出している。
数年前まで戦っていたとはいえ、手切れをしてまで武田を攻める事は無いだろう。北関東には他に敵
もいる。
●朝倉
※寺社領については、明確な根拠を示さない限り否定されます。
※守護武田氏は抑えているが意味なし。有力国人である逸見氏・粟屋氏などはこぞって織田について抗争中。
朝倉軍の一部は粟屋氏の居城を攻撃していた模様。(武藤氏が反織田に回ったが、この時期の動向は不明)
総計12500+?
遠征は10000程度は可能か? 現在、越前にフラフラ様子み。70年の講和以降、浅井への援軍以外に
出兵なし。経済疲弊。一部軍役拒否の状態。若狭の支配圏は低下中、むしろ抑えるための兵力派遣
が必要。
●浅井
※伊香郡、高島郡の半分、浅井郡の小谷、山本山城しか残っていない。
高島郡はもう少し高いとみる説あり。これも考慮に入れた。
総計1850~2825
単独での侵攻は辛い。小谷城の眼前に虎御前山砦を築かれ、朝倉と協力しても守備の木下隊を突破できない状態。
●六角
※愛智郡鯰江城で逼塞状態。甲賀の土豪がどれほと力になるか?
●松永・筒井(反松永)
※寺社勢力は心情的にも筒井派。土豪も多くが筒井につく。
大和で両派が泥沼の抗争中。お互い支援を求めて織田や三好と手を組むことに。
元亀三年の時点では織田の支援を受けた筒井側に有利。松永は押されっぱなし。
9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日
●長島一向宗+国人
計 最低20000以上
尾張は目と鼻の先だが遠征不可。動きも鈍い。地形上 守備力は高い。
●石山本願寺+雑賀衆?
計23000?
遠征準備は謎、動きも鈍い。一応 近江まで歩いて1日。守備力は鬼。信長との外交ルートあり。
ただし織田とは和睦したまま動きを見せていない。
※一向一揆衆に対して絶対的な命令権があるわけではない。
織田に服従している一向宗の寺もある。
また、兵力には老人や女子供が多数含まれていると考えられる。
●北畠
※大湊など、伊勢湾の海上交易に大きな影響力をもつ。かつては南伊勢五郡を有したが、織田へ離脱
するものが出る。
計?
織田による内部からの乗っ取り進行中。そのため勢力としては身動きとれない。隠居させられた北畠
具教は面従腹背。武田と接触をとっているが(根拠は不明)、実質どれほど動かせるかは不明(後年、
具教が討たれたときに北畠残党が挙兵するが、一族などの一部に留まる)。
ほとんど織田の一部とみなしてもいいとする意見あり(ただし、信雄が正式に跡目を継いで北畠軍が
織田の一環として行動するのは74年以降)。
●伊賀
六角に協力したり北畠についたりするが、基本的には中立。
10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日
その他の勢力 三好
三好一族の主だった頭(各国の支配率は不明、動員数は100%の場合)
畿内
- 本家:三好義継 三人衆との関係から信長に従っていたが、義昭と共に敵対する
- 三人衆:三好長逸、三好政康、石成友通 これも一枚岩ではない。義継や久秀と
抗争の為に行動をともにしていただけ。特に石成は一人信長についた時期もある。
- 三好笑岩 基本的に、四国三好家にちかい。信長以前は本家と戦い続ける。
- 三好政勝 管領細川家の家臣。親の仇である長慶と長年争い続ける。
- 摂津(8900)
- 河内(6050)
- 和泉(3550)
※ただし、この全てを三好一族が抑えていたわけではない。(細川、畠山、池田、和田、荒木、伊丹、高山など)
その他在地勢力が根を張り、反三好から織田につくものも多数いた。他に足利家につくものも多数いた。
総計18500-敵対勢力
反織田という形で立場は同じになったが、指揮が統一されたわけでもなく分裂状態のまま。
統一行動は難しいか。
四国
- 阿波三好家:三好長治-篠原長房 基本的に、主筋になる細川家と争ったり講和したり。 畿内には
あまり関わらず。播磨方面で抗争があった模様?
- 讃岐十河家:十河在保 阿波三好家と行動を共にす。
- 淡路安宅家:安宅信康 四国三好家についていたが、1572年には義昭信長につく。
- 阿波(4570)
- 讃岐(3150)
- 淡路(1550)
※安宅信康が織田についてしまったので、これは三好には加えられない。
離反は確実であるが織田に付いたとも言い切れない。
総計9270-安宅氏の勢力
お互いに争ったり結んだり。このころには篠原長房との確執が表面化しだす。73年4~5月に長房が
討たれた後は抑えられていた豪族たちが反旗を翻すことになる。
四国の三好家関連は、後にほとんど信長に属することになる
おまけ
●足利将軍家
※北山城の国人が義昭に呼応し、明智の配下から離脱者が出たとの記録あり。また細川藤孝や石成友通
などの勢力もあり。細川・明智は織田勢力とみなしてもいい。和田池田伊丹などは義昭勢力。
総計不明