現実世界の歴史では違う時代に生きた人物、日本に定住しなかった外国の人々など、
本来なら戦国と縁が薄い人物はこちら。
織田信成
織田信成 1987-
織田信長の七男・信高にはじまる近江神崎20万石織田家の御曹司。
幼少の頃よりフィギュアスケートの鍛錬に励み、名手として知られる。
2005年、世界ジュニア選手権で優勝し、世界に名を轟かせた。
「昔は触れられるのが嫌だったが、
今はいい“おじいちゃん”を持ててよかったと思える」
肝付健太
肝付兼正(1935~)
肝付幕府第20代(当代)将軍職。立憲将軍制の下、元首として多忙な政務に当られる傍ら、
演劇やアニメなどの文化の振興に深い関心を持ち、自ら俳優・声優としても活躍されている。
グスタフ2世アドルフ
グスタフ・アドルフ(1594-1632)
スウェーデン・ヴァーサ朝第6代国王。17歳で国王に即位後、大国ロシアをバルト海沿岸から駆逐してスウェーデン・ポーランド戦争にも勝利するが、その頃、朝鮮・明から中央アジアを征服した豊臣政権の勢力がヨーロッパに迫りつつあった。
豊臣政権2代目である関白豊臣秀頼の命を受けた伊達政宗・愛新覚羅多爾袞・呉三桂ら五十万の欧州遠征軍がロシアへと侵攻する。
ロシア皇帝ミハイル・ロマノフの要請を受けたグスタフはフランスのルイ16世・スペインのフェリペ4世・イングランドのチャールズ1世らとともにロシア救援に向かう。
1632年、東ウクライナ・ポルタヴァで豊臣政権軍と欧州連合軍が衝突する。
この戦いでのグスタフの奮戦は凄まじく、政宗の本陣に突撃して政宗の側にいた娘婿の松平忠輝を討ち取って豊臣軍を撃退するも、殿を務めた立花宗茂・徳川家光軍による反撃を受けて、徳川家臣・柳生十兵衛三厳に首を討たれた。
コロンブス
庫論募(ころんぼ) ???~1506
明応元年、関東に漂着したと伝えられる異人。
「三多丸(さんたまる)」という長さ六〇尺の帆船に乗って沖合いに現れたという。
だが船はほとんど破損しており、乗員も庫論募一人だけが瀕死で生き残っている有様
だったという。現地の村人に保護された庫論募は息を吹き返し、わずかながら言葉も
通じるようになったものの十数年後に病死した。
庫論募の残した供述の多くは要領を得ないものだったが、故国から身毒(インド)を
目指して西方の海へと航海したすえにこの地に漂着したと述べたらしいと伝えられている。
こうした供述や、記録に残る風体や船体の描写から、ヨーロッパから日本を目指して
航海してきた実在の人物であるとする説もある。
日本に数多ある異人漂着伝説の中でもこの記録が人の注目を誘うのは、庫論募ヨーロッパ人説
のみならず、航海の途中に立ち寄った様々な島や土地について語った詳細な内容に負うところが
大きい。しかし当然ながらヨーロッパと日本を結ぶ線上に該当するような陸地は存在しておらず
遭難や漂流によって幻覚や妄想を得たとする意見もあるが、一般的な見方としては、
この記録そのものの真実性が疑わしいものであるとして、庫論募についても民間伝承内の人物と
見なされている。
当時のヨーロッパではすでに地球球体説が認められており、またインド方面への航路を
各国が模索する動きがあったことは確かである。こうした背景から庫論募の実在を主張する
論者は、スペイン王国が地球球体説を根拠に地球を一周するルートを探るために派遣した
探検者ではないかと推論している。
しかしインド航路をポルトガルに抑えられて海外への発展が叶わず、1580年にポルトガルに
併呑され消滅したスペイン王国の記録はほとんど残存しておらず、この説を裏付ける証拠は
発見されていない。
ヌルハチ
愛新覚羅ヌルハチ(1559-1631)
女真族の一部族長だったが、1583年に挙兵し、明の後援をうけ満州の統一を目指す。
以後急速に勢力を伸ばし、1995年には明によって竜虎将軍に任命されるが、
文禄の役で明を脅かした日本軍が1997年に再び朝鮮に侵攻するとこれに呼応して明に敵対を宣言、
怒涛の勢いで南下、平壌・漢城を占領し日本軍と合流を果たす。
この時に言葉や文化の壁を乗り越えて加藤清正とよしみを通じた。
しかしこの無謀にも思える進軍のおかげで後方が手薄になり、明軍に隙を突かれてヌルハチは旧領を失う。
1598年に豊臣秀吉が死去すると日本軍は撤退するが、ヌルハチは一族郎党と共にこれに従った。
その後加藤清正の右腕となり、関ヶ原の戦いでは九州で兵を率いて南下し、小西・島津軍を圧倒、存在感を見せつけた。
ヌルハチの力を恐れた徳川氏は「功を称えて大名として独立させる」
という名目で、ヌルハチを蝦夷の日高静内に封じる。
現地ではアイヌに友好的な政策を取り、アイヌや本州との交易で利益を上げた。
なお、愛新覚羅家は次第に松前氏に取って代わって蝦夷の盟主として認知されることとなるが、
4代藩主玄燁(1654-1722)のときにシャクシャインの乱を裏で手引きしたと松前氏に讒言されサハリンに追放処分となる。
その後玄燁は沿海州を経て満州に復帰、さらには中国を統一して清の初代皇帝康熙帝となった。
細川護煕
細川護煕(1938~)
肥後熊本藩16代藩主
1980年後半からのリクルート事件などの汚職や、湾岸戦争における幕府の対応の遅れなど、幕政に批判が集まる中で、1992年(平成4年)文芸春秋誌上で「外様譜代連合」構想を発表する
1993年参勤交代制度改革で幕府内が対立する中、譜代大名を離脱した井伊家と薩摩島津家、長州毛利家などと連合し、1993年に大老に就任し、。御三家らと妥協し、参勤交代制度改革を実現させる
幕政改革を国民から期待されるも佐川急便からの献金スキャンダルが発覚し、辞任した。その後御三家尾張徳川家、島津家、会津松平家による三家が成立した
李如松
李如松(?~1598)
明の将軍。遼東鉄嶺衛の出身で、字は子茂、諡は忠烈。
1592年、東アジア征服を目指した豊臣秀吉が琉球に出兵すると(文禄の役)、
尚寧王の要請を受け、防海禦倭総兵官として明軍を率いて琉球に赴いた。
李如松軍は那覇港に上陸し、漫湖に陣営を構えていた小西行長を激しく攻め立てて
これを破り(第一次漫湖の戦い)、ついで琉球の首都・首里を回復したが、
島尻(南部)方面から反撃に転じた小早川隆景・立花統虎の軍を
漫湖で迎撃、大きな出血を強いられ敗北を喫した(第二次漫湖の戦い)。
以後は首里城を拠点として積極的な攻勢を控え、交渉による事態の終息を模索。
小西行長と漫湖の和を結んで帰国した。