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    <title>戦国時代板案内所</title>
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    <description>戦国時代板案内所</description>

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    <title>戦国大名の経済力</title>
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    <description>
      ・田舎大名の大内なんかが1番経済力を持っていたなんてうそ臭い（&gt;&gt;1）
→貿易しているから（&gt;&gt;3

・尾張・美濃・伊勢をおさえた信長の経済力は大きい。これだけで他の有力大名と十分に渡り合えるんじゃ？（&gt;&gt;5）
・その辺りは一国当りの石高がでかい（&gt;&gt;7）
→先進地帯の畿内を押さえたことが一番大きい（&gt;&gt;6） 
→津島湊・熱田湊の税収が大きい（&gt;&gt;137）

・武田の収入の半分以上は人身売買（&gt;&gt;8）
→そんなに人身売買が儲かるなら楽チン（&gt;&gt;9）
→金山からの収入がある（&gt;&gt;10）
→武田は紙や漆などの産業を興して特産品作りもしてたか？（&gt;&gt;11）

・人身売買
上杉（&gt;&gt;12）
人身売買は武田、上杉、大友（&gt;&gt;13）
島津（&gt;&gt;14）

・大内は何を売って稼いでいたのか？（&gt;&gt;16）
→鉱物（銅・鉄）、農海産物、干し椎茸？（&gt;&gt;18）

・武田の金山支配、上杉の港湾都市支配は確実な史料がある
・武田金貨は伊勢でも流通していた
・織田の経済基盤は一次史料では不明らしい？（&gt;&gt;22）
→織田は銭を大々的に輸入してた（&gt;&gt;24）
→武田産の金は「碁目金」って呼ばれるように金貨の形じゃなかった（&gt;&gt;37）

・石見銀山の年収は3,600貫 
・堺の商人が村上水軍に支払った礼銭の額は、１年間で２０００貫文以上（&gt;&gt;43）

遣明船の利益は10000貫文くらい（&gt;&gt;44）

・直江津・柏崎の「船道前」は年間４万貫を超えた
・国人領主と商人への金融も莫大な金額だったらしい（死後、土蔵から発見された証文など）
・ソースは「人間・上杉謙信」（渡辺慶一）（&gt;&gt;47）

三好の財力は？（&gt;&gt;50）
→細川だったら大内に次ぐ経済力を持っていたよ（&gt;&gt;51）
→堺押さえてたから、経済力はあったはず（&gt;&gt;52）

・金や銀などの鉱物にどれ程の価値があったのか知りたい（&gt;&gt;65） 

・信長は尾張にいた頃サラリー制に近いことをやっていた？（&gt;&gt;90） 
→やってる&gt;（&gt;&gt;91）






でも、がんがん狩られてる北条にも問題アリだ。 
いくら税金が安くても、領民を守らない領主はどうかと思う。 


165 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/12(火) 18:22:35 ID:QQ/3Ov8Y
&gt;&gt;163 
えーっと、君は学校で検地って教わらなかった？ 


166 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/12(火) 18:49:39 ID:HjnE8B8m
&gt;&gt;159 
違う、基本は親類縁者が買い手になる。 
言うなれば、身代金を払って誘拐された身内を取り戻すのが主、最も高値で売れるから。 
この場合、領主などが全額、或いは一部の金銭を負担する場合もあった。 
そういった買い手が付かない場合、二束三文で奴隷として売り払われる。 

大量の奴隷が発生する場合は、その地域が天災などで不作＋大規模な戦役が重なる場合。 
特に不作が酷いと、自主的に奴隷に落ちる場合もある。 


167 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/12(火) 20:52:55 ID:WDP65PCF
それは貴族・騎士・武士、或いは裕福な宗教者や大濃のような階層の話でしょう 
第一義的に身代金が商売の手法なら、奴隷商売と一緒くたに扱うのは混同が激しすぎる 
両者の商売上のシステムも、被害社会に与える影響も、「商品（人）集め」の手法も、全く異なるんだから 

奴隷制度が定着していた国のケースと、奴隷待遇として扱われる人々がいた、というケースとの違いから 
論じるはめになりそうだし、話切るべきだろうか… 


168 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/13(水) 09:10:44 ID:CSzml2wB
奴隷商売って外国並に考えるから変に成るんであって、戦火においての 
一時的保護業者と思えば良いんじゃない？ 
例えば震災なんか経験した人は解ると思うが、避難場所で良くある光景 
は「○○の親族の者です。御存知の方が居られましたら御連絡ください」 
と言うのがある。まあこの避難場所が奴隷市場と考えればいい。 
もし誰も保護者が現れない場合、第三者が保護者となる。それが奴隷商人。 
日本の奴隷は海外から見れば非常にリーズナブルで一人一貫（6万円）ほどだったらしい。 


169 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/13(水) 09:44:17 ID:j86rv/H+
まぁどっちにしろ戦のついでであって経済性を論ぜられるほどの収益はなかったんじゃないかね？ 
そもそも日本国内に「商売になる」ほどの奴隷市場が存在したとは思えないし、国外となるとまず 
そのルートを持ってる大名をある程度絞ってから話を進めないとならない。 


170 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/13(水) 09:51:34 ID:CSzml2wB
詰り外国のように母、子が別々に競に掛けられ手足は拘束されてる風景じゃない。 
戦国時代と言っても日本の風土が根底から違う訳じゃない。飽く迄も奴隷商人は 
職業斡旋や身元引受人の仲買業者であり、バイキングなどではない。 
故に奴隷に対して特別な印（肉体に刺青をしたり、一部を欠いたり）を付けない 
し、当人も今で言う奴隷の意識は無いだろう。ただ運悪く海外に売られた人は 
地獄を見たのは確かであろう。（海外では奴隷は飽く迄も商品） 


171 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/13(水) 14:23:26 ID:Kwjb5D89
＞詰り外国のように母、子が別々に競に掛けられ 
「安寿と厨子王」の話は日本のお話やないの？ 

産業革命以前、人は生産力そのものだったから、 
奴隷売買に世界の違いはないと思うなぁ。 


172 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/13(水) 15:10:12 ID:Qz3zEtnA
&gt;&gt;170 
日本国内であればそっちがだいたい正しいと思う。 
武田の佐久攻めでそのような身代金要求があったような 
小作人も日本で言うならある意味奴隷なんだろうな。 

&gt;&gt;171 
それは時代が違いすぎないか？ 


173 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/13(水) 15:10:59 ID:j86rv/H+
そこらへんは単なる民の貧困による話であって 
介入して儲けを出してたわけじゃないし、 
大名の経済力からは話がずれると思うのだが。 


174 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/13(水) 15:32:22 ID:Qz3zEtnA
それじゃあ人返し令などに代表されるように戦国時代の農村の労働力不足と 
奴隷売買による労働力の確保とかの話は 
あんま詳しくないけど 


175 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/13(水) 15:37:18 ID:MmOTlvlu
鉱山労働に捕虜や奴隷が使われるのは危険な仕事だし、 
良くあったらしいが、農作業に奴隷を使用するのは聞かないなあ。 
兵農分離がなされてない時代なら戦争が起こるたびに農村の労働人口が 
減って困るのは確かだろうし、小作人（水呑百姓）も使ってただろうけど 
他国から連れてこられた捕虜を自分の田で使用したがる人は 
どんだけいたのか良く分からない。 


176 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/13(水) 15:44:45 ID:KfXwO8q7
奴隷奴隷というがアメリカにおける黒人奴隷などとはだいぶ形態は違うぞ。 
今の感性だとわからないかもしれないが、当時は食料にありつくのに必死だ。 
うられる方も半ば自発的だった部分もある。うる方も口減らしになるわけだし。 

バブルの時ジャパユキさんという言葉がはやったが、もともとはカラユキさんというのが 
本家だ。詳しく知りたいやつは山田長政あたりと一緒に調べてみれ。ミクロ経済の視点で 
見れば、今とは比べ物にならないほど食料は必死に確保するものであり、貨幣経済なんぞ 
二の次だったんだよ。 


177 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/13(水) 15:52:08 ID:4gzEwx09
&gt;&gt;174 
人返しは、農民の都市への流入の禁止じゃなかったっけ？ 
永住は勿論、日雇いも含めて。 
大体、秀吉は奴隷の海外流失は禁止したが、奴隷自体は禁止していない。 


178 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/13(水) 18:36:28 ID:QnpfKrie
&gt;&gt;157 
遠征先で略奪をするからではないのか？ 


179 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/13(水) 21:22:14 ID:69/IoIhZ
つーか、佐渡の金山と上杉って無関係でしょ 


180 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/13(水) 21:51:41 ID:iN/d9Yu/
佐渡は地獄だ 


181 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/19(火) 10:54:53 ID:YCNVt5q9
&gt;&gt;179 
1589-1600年は上杉領 


182 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/20(水) 01:24:16 ID:ABiB+J+f
&gt;&gt;181 
＞ 1589-1600年は上杉領 
たしかにそうだが、佐渡はそれほど鉱山開発されていない。 
しかも掘っていたのは銀山であって、金山ではない。 
上杉の金山は揚北衆のもの。 


183 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/20(水) 01:41:02 ID:qcKsqPZH
少なくとも謙信の軍資金には無関係だな 
信長の野望で、謙信のいる越後でがんがん金山開発できた記憶はあるが 


184 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/20(水) 02:20:15 ID:Pe4CVQ7X
&gt;&gt;183 

上杉の金山は当時黒川金山が主です。 


185 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/20(水) 11:40:46 ID:AUyrr9+v
それ武田じゃぁ… 


186 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/20(水) 21:31:34 ID:15xH6HWl
&gt;&gt;184 
謙信の時代だと、こんな感じ。 
・揚北衆・鮎川氏の高根金山 
・上田長尾氏の上田銀山（後に直轄） 
・越中椎名氏の松倉金山（後に直轄） 
・佐渡本間氏の鶴子銀山と西三川金山 


187 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/20(水) 21:37:29 ID:Pu8rGBRU
&gt;&gt;186 
それだけ鉱山があればウッハウハかな？ 
新田次郎の「武田信玄」の中で甲州軍が 
越後兵がみんな砂金と白米を持ってるのを見て驚くシーンがあったけど 


188 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/20(水) 23:06:56 ID:ABiB+J+f
他スレで何度も出てきているが、 
上杉の資金源はアオソと直江津。 


189 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/20(水) 23:27:57 ID:Pu8rGBRU
そか、まあ金山銀山の収入はそこを知行としてる豪族のモンだろうしね 


190 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/20(水) 23:54:54 ID:eCJBv/AO
いや、本当に鉱山の規模が大きいなら、土豪が集める人手じゃ足りないよ 
金銀を売買するためのルートも簡単に保持できるものではないし 

その辺りを公権力によって徹底的に拡大したのが、秀吉や家康（大久保）ということになるのかな 


191 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/23(土) 18:15:54 ID:h4f5hQiE
金山銀山の収入って、大名の取り分はどれぐらいなんだろうね。 


192 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/23(土) 18:25:00 ID:ei19DmfQ
戦国期の鉱山技師は、武家権力にも従属しない独立した性質があったというからね 
大久保長安の頃、徳川家と長安側（鉱山技師や彼らの責任で集める人手含む）で５：５という話を聞いたけど、 
アテにはならないな 

ぶっちゃけ、掘るのも精錬するのも技師がいないとどうしようもないから、 
大久保長安のような散財・蓄財が可能だったわけで、正確な取り分は大名側にも分かってなかったと思う 

専門知識が絡む分野なら、適当に表沙汰の辻褄が合えばどこに金が消えてもよく分からない構図は、 
古今東西変わらないと… 


193 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/27(水) 22:14:09 ID:G67Mrlf3
保守 


194 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/28(木) 16:05:06 ID:+QVYtvgO
秀吉は確か産金の一割を上納させてたんじゃ 


195 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/29(金) 00:50:13 ID:iUfTfO3w
北条に滅ぼされた里見氏も滅亡の原因は篭城の末最後は兵糧を買う 
お金もなくなったとか 
返るお金があれば海からいくらでも取り寄せられたのでまだまだ 
粘れたのだろうが 


196 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/29(金) 01:06:57 ID:zhVuLskl
制海権を無くしたから、経済的にジリ貧になったんじゃ？ 
確定的にそうだと分かるような勉強したわけじゃないけど… 


197 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/29(金) 01:19:11 ID:iyvvazlN
確かに、経済で負けたら戦争にならんよなぁ。 
ジリ貧になったら恩賞も払えなくなるし。 


198 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/29(金) 01:26:33 ID:3u2wcUaa
&gt;&gt;195 

里見は北条には滅ぼされてませんよ。 
古河公方辺りとお間違えでは？ 


199 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/29(金) 01:59:14 ID:OgH5GO7J
三浦氏じゃないの？ 
古河公方の滅亡も戦争によるものじゃないし。


201 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/09/29(金) 10:16:04 ID:5PypPNj4
&gt;&gt;1 
明が面子のためにやっている朝貢貿易は、明側に儲けるという意思がないのだからぼろ儲け。 
倭寇の活動も、オイラトやモンゴルの侵入も、もっと朝貢貿易をやらせろという、 
デモンストレーションのような意味合いが強かった。


204 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/10/08(日) 02:37:49 ID:Uq4W4py5
1貫＝12.5石（1,000貫＝12,500石） 
つまり 
知行40貫＝知行500石（公35：民65として実収175石）＝切米(現米)175石取り＝500俵取り＝100人扶持取り 
そして 
現米1石＝1両＝10万円 

ちなみに100人扶持の100人とは自家の使用人や家臣の家族も含むので、軍役上の動員家臣はせいぜい10～15人 


205 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/10/08(日) 04:12:53 ID:dxjz6n0X
貫高・石高換算は時代・地域差が出るからなあ。 

つか、どこの江戸時代の資料だ？ 


206 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/10/10(火) 08:14:47 ID:yCHCX2It
豊臣期は小田原では北陸で100石6人役、徳川は7人役。 
近畿や西国でも４～５人役。 
朝鮮での九州大名は5人役。 
江戸時代の倍の軍役を割り当てられてる。 
朝鮮は長引いたし九州大名の負担は大きかったろうね。 


207 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/10/10(火) 12:40:00 ID:ARtEHPee
小田原とか朝鮮での動員数だけでは反当収量は割り出せないらしいよ。 
単純に石高から兵隊数決めてたわけじゃないので。一律の基準はないっぽい。 
石高、領地の遠近、秀吉に対するそれまでの態度とかから決めてたみたいだから。


208 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/10/10(火) 14:53:37 ID:mmiSuihk
一部外様大名の石高は低く見積もられていたから 
実質的な軍役はもう少し低かった気がする。 


209 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/10/11(水) 05:27:49 ID:sb5LXI9/
小田原や朝鮮は無茶しても大丈夫なんじゃね？ 
領地攻め込む敵いねーし、飽く迄、豊臣家の戦だから、豊臣家からの経済援助も特に朝鮮の役では期待出来たし。 


210 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/10/11(水) 10:17:31 ID:Nddd9dc1
&gt;豊臣家からの経済援助も特に朝鮮の役では期待出来たし 
実際はどうでしたっけ？ 
確か自力補給だったんでわ 


211 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/10/12(木) 02:22:48 ID:ybDVXNGS
&gt;&gt;209 
朝鮮の役は各自自腹じゃないかな。 
たしか三河では一村丸ごと餓死とかあったらしいし。その時の領主は誰だ？ 
どこまで本当か分からんけど石田さんが高利貸しで儲けたとか聞くけど。 
秀吉が本当に援助してたら大坂城に金銀が残ってないんじゃないの？ 
あくまでも豊臣に対するご奉公働きかと。 


212 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/10/12(木) 03:00:43 ID:8JdEuLPs
&gt;&gt;211 
田中と池田って朝鮮に渡ってないような・・・ 


213 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/10/12(木) 04:35:41 ID:BMh1R9vN
&gt;&gt;211 
そうだったっけ？ 
補給の不手際も清正が三成恨んだ原因の一つじゃなかったっけ？ 


214 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/10/12(木) 13:25:25 ID:WRTqV+yg
不手際というか、根本的に補給線を維持できなくなった、というのが客観的なんだろうけどね 
誇張があるとしても、「伝令兵を通すにも騎馬の二十はつけてやらないといけない」 
というぐらいの状況だったそうだから 


215 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/10/13(金) 22:13:47 ID:xKHHefs0
慶長の役はともかく、文禄の役は進軍速度速すぎだろｗ


218 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/11/03(金) 13:31:57 ID:a0IfjEsp
謙信じゃないの？銀でたし 


219 ：名無しさん＠お腹いっぱい。：2006/11/03(金) 18:18:12 ID:5Qcc0hrk
なんだかんだ大友だろ。


226 ：名無し議論スレにて投票方法審議中：2006/12/17(日) 21:09:07 ID:CT7U9TyX
&gt;&gt;211 
それは確か小牧長久手の戦いの時だったような気がする。 
その時の領主がどうしようも無かったんだろ？ 


227 ：名無し議論スレにて投票方法審議中：2006/12/18(月) 15:42:22 ID:tv88zGe9
&gt;&gt;226 
小牧長久手の時の三河の領主って誰だっけ？ 


230 ：武蔵国：2007/01/08(月) 23:40:25 ID:mSNivuym
&gt;227それは家康君だろう、その当時の領国は三河、駿河、遠江、甲斐、信濃かな。 


231 ：名無し議論スレにて投票方法審議中：2007/01/09(火) 00:48:12 ID:gOaJNR97
今さらだけど山口ってのは当時すごく栄えた貿易都市だったんだよ&gt;&gt;1 
それに鉱山も豊富だったし中国地方は鉄鉱業も有名だからね 
まぁ後に厳封されて周防・長門にはいった毛利の石高は３０万石も無かったんだけどさ 


232 ：名無し議論スレにて投票方法審議中：2007/01/10(水) 00:50:18 ID:RZyME3AY
貿易できないからな。 


233 ：名無し議論スレにて投票方法審議中：2007/01/10(水) 13:24:46 ID:bgQvbkJz
大友氏は、博多支配と硫黄の輸出で儲けていた。 


234 ：名無し議論スレにて投票方法審議中：2007/01/11(木) 07:03:19 ID:s02aygH0
藩政改革に成功した末期の長州は表高37万石に対して実高120万石越えているけどなあ 


235 ：名無し議論スレにて投票方法審議中：2007/01/11(木) 21:29:02 ID:37HISOtV
別に山口は貿易都市ではないから。 
大内氏は瀬戸内海流通と博多支配と日明貿易で財を成してたわけで。 


236 ：名無し議論スレにて投票方法審議中：2007/01/12(金) 21:15:10 ID:E2yM9Cc3
鉄砲の値段：慶長期 
史料によると、六匁目の鉄砲一丁が九石＝約金二両。 
で、現代の金銭感覚に直す場合 
米一石は約150Kg、スーパーで米1kgは約500円とすると、 
米一石＝150×500円＝7万5000円。 
鉄砲一丁＝9×7万5000円＝67万5000円になる。 
長篠の織田軍三千丁とすると、 
67万5000円×3,000＝6億7500万円 
FROM　歴史群像No40　天下取りの収支決算 
↑玉薬の値段、信長の街道政策、秀吉の高松城攻めの人夫代などが書いてある。 
　戦国時代の経済知りたいなら入門にちょうど良いと思う。 











271 ：人間七七四年：2007/05/10(木) 20:08:10 ID:kiQMLdpA
今川って裕福な印象があるが経済の基盤って何なの？ 

金？塩？ 
清水港を持つぐらいだから何か輸出できるような特産物が有ったんだろうが 
何を輸出していたんだろう？ 




276 ：人間七七四年：2007/05/11(金) 13:25:01 ID:8dX74ql6
当時の港湾での収入ってどれくらいあったんだろう。 
誰か知らね？ 


277 ：人間七七四年：2007/05/11(金) 14:40:16 ID:IQNXDmSi
越後港の史料によると、積み荷額の10分の1が、税収だったらしい。 


278 ：人間七七四年：2007/05/11(金) 20:31:55 ID:3nCNKLJO
そういえば石見銀山の領主取り分も1/10だったな。 
当時の年貢以外の税率って1/10が一般的だったのかな？ 




・信長は商業税を安めにしていた？（&gt;&gt;363）
→関所の通行税はなくなった（&gt;&gt;364）あちこちにあるので合計すると莫大な減税（&gt;&gt;365）

・今川と織田の国力差はそこまで大きいものではなかった？（&gt;&gt;393）
→今川は尾張にも影響力を有しているし、織田に全ての力を注げる今川と違って織田は今川以外にも備えなければならない（&gt;&gt;394）
→東尾張の人々は織田よりも強大な今川に着かざるを得ない。
今川が上洛開始(？)した頃、信長が掌握できたのは西尾張＋アルファ２０万石強（&gt;&gt;454）

・武田は占領地には重い軍役を課してた？（&gt;&gt;456）
→諏訪は本国と同じくらい、東信は明らかな重軍役（&gt;&gt;457）

・100万石で侵攻なら二万五千程度、防衛なら四万五千程度の動員力と考えていいだろう。 信長～大坂の陣くらいの動員数の記録もこれで大体合う。 
・百万石で五公五民なら五十万石は大名の取り分になるかと言えばそうではない。 
まず戦国末期でも寺社や旧荘園の勢力が在ったし、とにかく土豪勢力の力が強い。特に甲斐信濃辺りはそういう既得権層が武田家を支えていた色彩が濃いから家自体の財政基盤は意外に小さいと見るべき。 
（金山経営なんていうのは本家の直轄地をなかなか増やせない苦肉の策だと思う） 
守護大名から戦国を生き延びた武田や朝倉が没落し始めたらあっという間に滅亡してしまった理由として、この手の既得権層が信長に寝返ったことが挙げられる（&gt;&gt;458）




だから秀吉がやった検地と刀狩りというのは、そういうアンタッチャブルな地域既得権層の力を弱めて支配権を大名家に集中させる意味に置いて革新的だったと言える。 

つかこれをやらなかったら大名の転封や取り潰し、加減増といった中央の政策がうまくやれなかった。 
九州、四国、関東、奥羽と大名の仕置きと検地・刀狩りがセットだったし、逆に中国地方なんかは毛利が早くから帰順していたから例外的に切り込めなかった面がある。 

家康の関東移封が失策だったとか言うスレもあるけど、俺が思うに北条の取り潰しと家康の関東移封は戦略的事情だけじゃなく、関東と東海甲信地域の近代化、中央集権化という意味ではしかたなかった面があると思う。 
地域既得権層の力を削ぎ、大名家との縁故関係を切らせる意味ではね。 

伊達や上杉の微妙な転封も理由は同じだと思う。    </description>
    <dc:date>2012-04-11T21:11:27+09:00</dc:date>
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    <item rdf:about="http://www37.atwiki.jp/sengokuita/pages/67.html">
    <title>スレッドまとめ</title>
    <link>http://www37.atwiki.jp/sengokuita/pages/67.html</link>
    <description>
      -[[お勧めの本]]
-[[戦国時代を舞台にした歴史小説]]
-[[最も面白い戦国時代のゲームは？]]
-[[戦国武将人気投票]]
-[[歴史が違う方向に行ってた場合の人物略歴]]
-[[凡将を名将のように説明するスレ]]
-[[山県昌景と愉快な仲間たち]]
-[[幕府を開こうと思うんだが････]]
-[[戦国時代の悪人総合スレッド]]
-[[戦国大名の経済力]]    </description>
    <dc:date>2012-04-11T20:00:43+09:00</dc:date>
  </item>
    <item rdf:about="http://www37.atwiki.jp/sengokuita/pages/24.html">
    <title>リンク</title>
    <link>http://www37.atwiki.jp/sengokuita/pages/24.html</link>
    <description>
      アスペルガーだが　まとめWIKI
http://www26.atwiki.jp/dagamatome/

佐　吉　の　日　記
http://shed.gozaru.jp/sakichi/
良ネタスレ『佐　吉　の　日　記』のまとめサイト。

週刊それがしのおやかたさま
http://members3.jcom.home.ne.jp/soreoya/mainframe.html
『週刊それがしのおやかたさま』のまとめサイト。

http://f61.aaa.livedoor.jp/~soreoya/
『週刊それがしのおやかたさま』の応援サイト。

戦国時代YouTube動画
http://hobby9.2ch.net/sengoku/
YouTubeの戦国動画を紹介している。

火間虫入道
http://hima.que.ne.jp/
戦国ニュースや信長の野望の攻略。    </description>
    <dc:date>2012-04-11T19:59:05+09:00</dc:date>
  </item>
    <item rdf:about="http://www37.atwiki.jp/sengokuita/pages/71.html">
    <title>戦国時代の悪人総合スレッド</title>
    <link>http://www37.atwiki.jp/sengokuita/pages/71.html</link>
    <description>
      *現行スレ
戦国時代の悪人総合スレッド　part1
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1182211434/

*「悪人」一覧
**親殺し
-大友宗麟（家臣の独断とも言われるが真相は謎）
-江馬輝盛（武田家と上杉家のどちらにつくか父・時盛と対立し、これを殺害して上杉家に従属）
-斎藤義龍（土岐氏の嫡流として挙兵、父・道三を討った）
-伊達政宗（二本松義継に拉致された父・輝宗を義継と一緒に殺害。政宗の陰謀説もある）
-南部信直（義父・晴政と義弟・晴継を討ち、当主に就任…異説あり）

**子殺し…
-市川経好（大友氏に内通した長男・元教を殺害) 
-甲斐宗運（伊東氏への内通を理由に次男・三男・四男を殺害、また己を排除しようとした長男までも手にかけようとする）
-武田信玄（長男・義信を自害に追い込んだ） 
-徳川家康（武田氏への内通を理由に長男・信康を自害させる） 
-細川忠興（出奔し、大坂方に付いた次男興秋を自害させる。生存説あり) 
-最上義光（長男・義康を殺害、家臣の独断という説もある）
-三木頼綱（謀叛の疑いで長男・信綱を殺害）

**主君殺し
主君変えせずに現・主君を殺害するケースは特殊であるが、主君の首を土産に敵に降るというのは偶にあるケースだった。
-明智光秀（→織田信長。未だに動機は謎である）
-朝倉景鏡（→朝倉義景。敗走してきた義景を切腹させ、その母・妻子を信長に差し出して降伏した）
-織田信友（→斯波義統。織田信長との権力争い）
-木沢長政（→畠山義宣。細川晴元の勧めに従って主家を見限り、一向一揆衆と共にこれを討った）
-陶晴賢（→大内義隆。しかしこの謀叛は支持者も多かった）
-南部信直…（前述の義父・晴政）
-松永久秀・久通父子（→足利義輝、三好長慶。もっとも義輝は直接の主君ではなく、長慶毒殺に関しては俗説の域を出ない）
-壬生綱房（→宇都宮興綱。「主家乗っ取り」の罪を追及し自害に追い込んだ）
-三好義賢（→細川持隆。三好氏に反抗しようという動きを察知され殺害）
-遊佐信教（→畠山昭高。織田信長に接近する動きを見てこれを殺害する）

**主君追放
-宇喜多直家（→浦上宗景）
-織田信長（→斯波義銀、足利義昭）
-斎藤道三(→土岐頼芸)
-武田信玄（→武田信虎）
-徳川家康（→今川氏真）
-遊佐信教（→畠山高政）

**兄弟・親族殺し
戦国期にはよくあることだった。
-今川義元（異母兄・玄広恵探を家督争いの末自害に追い込んだ）
-織田信長（実弟・信勝、及び叔父・信光を殺害。お互いに争っていた）
-織田信雄（秀吉の策に乗せられ、実弟・信孝を切腹させた）
-織田信孝（本能寺の変の折、光秀の娘婿である従兄弟・津田信澄を殺害）
-斎藤義龍（異母弟の龍重、龍定を殺害。これが道三への事実上の宣戦布告となった）
-伊達政宗（義姫による暗殺未遂事件後、実弟・小次郎を手打ちにした。なお、義姫事件は政宗のでっち上げだという説もある）
-長宗我部盛親（実兄・津野親忠を殺害。この行動は非難されたようである）
-豊臣秀吉（甥・豊臣秀次を切腹させた。非常に評判が悪い）
-毛利元就（異母弟・相合元綱の謀叛を察知し、事前に暗殺） 
-最上義光（実弟・義時を自害に追い込む。が、義時は実在が疑われている）

**暗殺・謀殺の多用
-宇喜多直家（婚姻関係にある武将も暗殺しまくる）
　　　被害者：三村家親、金光宗高ほか
-織田信長（領土拡大率が高いため多め）
　　　被害者：織田信勝、北畠家など
-豊臣秀吉（疑惑の域を出ない）
　　　被害者：羽柴秀勝、島津家久、蒲生氏郷など
-松永久秀（俗説の域を出ないものが多いが、インパクトは強烈）
　　　被害者：足利義輝、三好長慶（？）、三好義興（？）、十河一存（？）
-最上義光（別名「羽州の狐」。時には自ら手を下すこともあった）
　　　被害者：白鳥長久、東根頼景ほか


**宗教弾圧
これは一方的な意見となるが、当時非難を浴びた行動であるため記す。
-織田信長（比叡山焼き討ち）
-豊臣秀吉（キリシタンの迫害、しかし完全ではない）
-徳川家康（三河の一向寺、秀吉より徹底したキリシタン迫害）
-三好長治（領民に法華宗への改宗を迫り、従わない者は殺害した）

**佞臣
-久武親直（主君・長宗我部盛親をそそのかして津野親忠を殺害させ、関ヶ原の戦いの後は加藤家に鞍替えした）
-松永久秀（主君の実弟・安宅冬康を讒言により謀殺させる）

**裏切り全般
-小山田信茂（武田勝頼を見捨てる。信長に非難され殺された）
-小早川秀秋（関ヶ原の戦い。戦いの最中に寝返るのは当時としても非道）
-真田昌幸（本能寺の変の後、短期間で10回近く主君を変えた）

*その他    </description>
    <dc:date>2012-04-11T14:14:32+09:00</dc:date>
  </item>
    <item rdf:about="http://www37.atwiki.jp/sengokuita/pages/17.html">
    <title>投票所</title>
    <link>http://www37.atwiki.jp/sengokuita/pages/17.html</link>
    <description>
      新規アンケートネタ募集中→[[掲示板]]

*戦国三英雄の中ではどれが一番好き？
#vote2(time=10[0],織田信長[81],豊臣秀吉[29],徳川家康[37])

*『関ヶ原の戦い』、東軍派？西軍派？
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#vote2(time=3[0],2chの板一覧[46],検索エンジン[13],どっかのサイト[5],2ch内リンク[14],三戦板から[17],日本史板から[11],忘れた[4])    </description>
    <dc:date>2012-04-08T04:11:52+09:00</dc:date>
  </item>
    <item rdf:about="http://www37.atwiki.jp/sengokuita/pages/19.html">
    <title>【武田】２万５千で上洛【信玄】</title>
    <link>http://www37.atwiki.jp/sengokuita/pages/19.html</link>
    <description>
      ご自由に置いてください。

#contents

＊現行スレ
【武田】２万５千で上洛【信玄】その51
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1188124346/

＊『２万５千で上洛』スレテンプレ

&amp;color(#66ff00){1 名前：人間七七四年[] 投稿日}
前スレ【武田】２万５千で上洛【信玄】その00
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/00000000/

ここでは「武田は上洛できたのか？」から始まって。現在では
「どうすれば武田は上洛できたのか」
「どうして武田は上洛できなかったのか」
など、武田と織田を中心にした戦国時代の話が扱われています。
ネタによっては場所は東北から九州まで、時間は室町から江戸まで
幅広くカバーしております。

&amp;color(#66ff00){2 名前：人間七七四年[sage] 投稿日}
上洛の可能性　↓以下で上洛可能
・信玄が健康で長命
・足利浅井朝倉松永本願寺三好残党六角残党らも包囲網一致協力
・三方ヶ原の戦い後、徳川家を早期に攻略乃至は降伏
・武田軍が甲斐に帰らず１年以上遠征可能
・上杉が空になった信濃、上野を 襲うことは決してない
・北条も軍艦の記載のように援軍を出す
・三河尾張国境の 水野家が離反する
・織田との決戦で勝利する

&amp;color(#66ff00){3 名前：人間七七四年[sage] 投稿日}
各国の石高及び動員兵力（石高は太閤検地のもの）
ちなみに、万石あたり250人は比較的低い動員率、
無理すればもっと動員できるだろうがそういう兵力は基本的な守りに残すと解釈。

関東
上野：49万6千石/12400

甲信・中部
甲斐：22万8千石/5700
信濃：40万8千石/10200
飛騨：3万8千石/950
美濃：54万石/13500
近江：77万5千石/19375

東海
駿河：15万石/3750
遠江：25万5千石/6375
三河：29万石/7275
尾張：57万2千石/14300
伊勢：56万7千石/14175
志摩：1万8千石/450

北陸
越後：39万1千石/9775
越中：38万3千石/9500
越前：49万9千石/12500（慶長検地では68万石）
若狭：8万5千石/2125

畿内
山城：22万5千石/5625
大和：44万9千石/11225
摂津：35万6千石/8900
河内：24万2千石/6050
和泉：14万1千石/3550
伊賀：10万石/2500

四国
讃岐：12万6千石/3150
阿波：18万4千石/4570
淡路：6万2千石/1550

各国の石高及び動員兵力（石高は太閤検地のもの）は以下参照
ttp://homepage3.nifty.com/ksatake/

&amp;color(#66ff00){4 名前：人間七七四年[sage] 投稿日}
1572年（元亀三年）十月三日（信玄、古府中を出立）の各勢力の状況

●武田
・甲斐…100％(5700)
・信濃…95％(9690)
※飯山周辺は残す。
・上野…36～43％(4450～5375)
※賀野、松井田、箕輪など領地は広げているが、ほとんど北西山間部なのがネック。
　面積で言えば4割だが、石高では三分の一程度とする意見あり（上野の平野部は南東）。
　14郡中武田は吾妻郡　碓氷郡　甘楽郡　群馬郡の半分　故に石高的に3分の一 の説。
　利根川以西を領土とすると、これに録野、片岡、多胡郡が加わる。（約四割）
・駿河…100％(3750)
・飛騨…10％(95)
※72年7～8月に飛騨諏訪城を落としている。これ以前の直接の軍事行動はなし。
　もともと飛騨の豪族は越中の対一向一揆で上杉と仲がいい。諏訪城主江間氏も逃亡
　して上杉氏を頼る。
・越中…？
※68年に松倉（富山）城主椎名氏が武田に降っているが、71年には謙信に落とされている。謙信は73年
　には加賀まで攻め寄せているから、その頃までに越中の武田勢はなくなっていたとみるべきか？
　松倉（富山）城主椎名氏を降すのは『北陸の中世城郭第15号』より1573年1月の可能性が高い
・遠江…7.8％(500)
※遠征前に陥したのは71年に国境の榛原郡小山城（この時高天神や掛川も攻めるが落せず）と犬居の天野氏のみ 天方等はこの時点では未攻略 。
　武田が本格的に東に出てくるのは、氏康が死んで同盟復活する71年後半（正式な復活は71年12月）。
　遠征後は20％ほどに増大
・三河…12％(850)
※足助城を落とし、賀茂郡一部・設楽郡ほぼすべて・八名郡一部を支配。ただし全て山地なのがネック。
・美濃…ほぼ0～5％(0～675)
※秋山信友が岩村城を落すのが72年11月（ただしソースは軍艦）。 それ以前に落していた恵那郡の小城を、どの程度に見積もるか？
　18（21?）郡中これだけでは最大5％もないとする意見。

総計25035～26635
後北条と同盟。義昭や顕如ら畿内の反織田勢力と連絡を取り合う。背後に上杉と上野方面を巡って火種。
ただし、もともと高税率のうえ、69年以降は戦もそれまでの二倍以上。領国の疲弊はすでに始まっていた
とする説あり、ただしソースは少ない。継戦能力にも疑問。

&amp;color(#66ff00){5 名前：人間七七四年[sage] 投稿日}
●織田
・尾張…100％（14300）
・美濃…90％（12150）
※21（18郡？）郡中武田は恵那郡岩村周辺のみ　郡上郡遠藤氏は武田織田を秤にかけて日和見。
・志摩…100％（450）
※ただし、戦力としては水軍衆がほとんどと思われる。
・近江…70％（13563）
※浅井・六角は追い詰め中。他には甲賀郡の土豪と野洲郡のいつ蜂起するか判らない一揆衆。
・伊勢70％（9923）
※桑名・三重郡の一揆衆。配下からも寝返られ、本城も明け渡され乗っ取り進行中の北畠氏を除く。
・三河…10％（728）
※水野氏など、桶狭間以前から織田についていた豪族。

総計51114
この他、畿内各地に協力勢力と敵対勢力あり。義昭とは抜き差しなら無いところまで。堺などの都市も抑える。
若狭の豪族たち（逸見・粟屋・内藤）、大和の筒井他、摂津河内和泉の細川畠山荒木などが味方勢力として存在。
池田和田淡路の安宅などはテンプレ時は旗幟をはっきりさせていない。

●徳川
・三河…78％（5675）
・遠江…92.2％（5875）
※両国とも、武田にどの程度侵略されているか。また調略如何によっては動員はさらに下がるかも。

総計11550
三方ヶ原の戦力を考えれば妥当か。ただし武田軍撤退後、特に遠江では支配率は グンと下がっているだろう。上杉と同盟。

&amp;color(#66ff00){6 名前：人間七七四年[sage] 投稿日&#039;&#039;
■三方ヶ原の戦い後の情勢。

1572年
十二月　二十二日　三方ヶ原の戦い

1573年
一月 　三日　武田軍 野田城を囲む
畿内の国衆から義昭に付く者が現れる。信長は村井、島田、朝山日乗を講和の使者に出すが義昭は一蹴し、
近江志賀郡の石山、今堅田に兵を入れる。
二月　十五日　武田軍 野田城を落とす。
二十四日　柴田、丹羽、明智、蜂屋の軍が近江を攻撃。石山、今堅田も数日で開城。

三月　二十五日　信長、岐阜を出陣し京へ。
　　　二十九日　細川藤孝、荒木村重が逢坂に信長を出迎えて忠誠を誓う。

四月　三日～四日　信長 上京焼き討ち。二条御所を包囲。
　　　七日　朝廷の仲介により信長と義昭との和睦なる。
　　　八日　信長、岐阜に帰る。
十二日　武田信玄死去
柴田、佐久間らは六角氏が立て篭もっていた近江愛知郡の鯰江城を攻略。さらに百済寺も焼き討ち。

七月　足利義昭京より逃れる。

八月　朝倉・浅井両家滅亡。

&amp;color(#66ff00){7 名前：人間七七四年[sage] 投稿日}
■この情勢をもとにした推測。

織田は
近江に浅井・朝倉への抑えとして木下、磯野で合計七千ほど、
江南の抑えと京へのにらみに八千ほど、
北伊勢への抑えと尾張の守備に五千ほど、
美濃では岩村への抑えに三千ほど抑えに置くとすれば、
（基本的な任務は守備、現状維持）
計算上は2万8千ほどを対武田に向けられるのでは？

武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、
北条の援軍が二千～三千で、
合計ニ万～二万五千ほど？

武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、石高的には10万石3000ほど
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、石高的には6万石1500ほど
北条の援軍が二千～三千で、
遠征軍合計実数二万五千ほど
信玄率いる遠征軍は石高的には84万石～90万石で21000～22500ほど+北条の援軍2000～3000
+美濃へ入ってくる秋山隊が3000ほど

&amp;color(#66ff00){8 名前：人間七七四年[sage] 投稿日}
その他の勢力　東国

●長尾上杉
・越後…100％（9775）
※ただし、揚北衆特に本庄氏の扱いは微妙。
・上野…10％（1240)
※沼田・厩橋近辺と考えるとこれぐらいか？ 武田・北条におされ気味。
・越中…20～25％（1900～2375)
※神通川以東（新川郡）松倉・富山は1573年正月まで攻撃中。72年～73年にかけての遠征によって、越中の大部分を支配下に収める。
この時は越中から加賀にまで攻め込み、顕如から信玄へ援軍要請が行われた。
松倉（富山）城主椎名氏を降すのは『北陸の中世城郭第15号』より1573年1月の可能性が高い
・飛騨…三木氏や江間氏とは友好的。1572年の富山攻めでは江間氏が援軍派遣してる
・信濃…5％?（510）
※飯山城とその周辺は保っていた模様。最大見積もってもこの程度。

総計13425～13900
・遠征能力○
遠征能力は高いが、北陸へ出陣中。仮に北信・上野に出陣するとしてもメリットは薄い？ ただし史実
ではこれ以前も以後も関東への出兵を繰り返している。武田・北条・加賀を敵に回して織田・徳川と同盟。
関東の諸将（佐竹ら）とは疎遠になった。

●後北条
・遠征能力○
武田・上杉と並ぶ大国だが、武田とは同盟中。今回の武田西上でも援軍（二千~三千？）も出している。
数年前まで戦っていたとはいえ、手切れをしてまで武田を攻める事は無いだろう。北関東には他に敵
もいる。

●朝倉
・越前…100％(12500)
※寺社領については、明確な根拠を示さない限り否定されます。
・若狭…？
※守護武田氏は抑えているが意味なし。有力国人である逸見氏・粟屋氏などはこぞって織田について抗争中。
　朝倉軍の一部は粟屋氏の居城を攻撃していた模様。（武藤氏が反織田に回ったが、この時期の動向は不明）

総計12500+？
・遠征能力○
遠征は10000程度は可能か？ 現在、越前にフラフラ様子み。70年の講和以降、浅井への援軍以外に
出兵なし。経済疲弊。一部軍役拒否の状態。若狭の支配圏は低下中、むしろ抑えるための兵力派遣
が必要。

●浅井
・近江…9.5～14.5％(1850～2825)
※伊香郡、高島郡の半分、浅井郡の小谷、山本山城しか残っていない。
高島郡はもう少し高いとみる説あり。これも考慮に入れた。

総計1850～2825
・遠征能力△（朝倉が来れば助力可）
単独での侵攻は辛い。小谷城の眼前に虎御前山砦を築かれ、朝倉と協力しても守備の木下隊を突破できない状態。

●六角
・近江…？
※愛智郡鯰江城で逼塞状態。甲賀の土豪がどれほと力になるか？

●松永・筒井（反松永）
・大和（11225、ただし双方合わせて）
※寺社勢力は心情的にも筒井派。土豪も多くが筒井につく。
・遠征能力×（両派とも）
大和で両派が泥沼の抗争中。お互い支援を求めて織田や三好と手を組むことに。
元亀三年の時点では織田の支援を受けた筒井側に有利。松永は押されっぱなし。

&amp;color(#66ff00){9 名前：人間七七四年[sage] 投稿日}
●長島一向宗＋国人
計 最低20000以上
尾張は目と鼻の先だが遠征不可。動きも鈍い。地形上 守備力は高い。

●石山本願寺＋雑賀衆？
計23000？
遠征準備は謎、動きも鈍い。一応 近江まで歩いて1日。守備力は鬼。信長との外交ルートあり。
ただし織田とは和睦したまま動きを見せていない。
※一向一揆衆に対して絶対的な命令権があるわけではない。
織田に服従している一向宗の寺もある。
また、兵力には老人や女子供が多数含まれていると考えられる。

●北畠
・伊勢…30％（4253）
※大湊など、伊勢湾の海上交易に大きな影響力をもつ。かつては南伊勢五郡を有したが、織田へ離脱
　するものが出る。
計？
・遠征能力×
織田による内部からの乗っ取り進行中。そのため勢力としては身動きとれない。隠居させられた北畠
具教は面従腹背。武田と接触をとっているが（根拠は不明）、実質どれほど動かせるかは不明（後年、
具教が討たれたときに北畠残党が挙兵するが、一族などの一部に留まる）。
ほとんど織田の一部とみなしてもいいとする意見あり（ただし、信雄が正式に跡目を継いで北畠軍が
織田の一環として行動するのは74年以降）。

●伊賀
六角に協力したり北畠についたりするが、基本的には中立。

&amp;color(#66ff00){10 名前：人間七七四年[sage] 投稿日}
その他の勢力　三好

三好一族の主だった頭（各国の支配率は不明、動員数は100％の場合）

　畿内
・本家：三好義継　三人衆との関係から信長に従っていたが、義昭と共に敵対する
・三人衆：三好長逸、三好政康、石成友通　これも一枚岩ではない。義継や久秀と
抗争の為に行動をともにしていただけ。特に石成は一人信長についた時期もある。
・三好笑岩　基本的に、四国三好家にちかい。信長以前は本家と戦い続ける。
・三好政勝　管領細川家の家臣。親の仇である長慶と長年争い続ける。

・摂津（8900）
・河内（6050）
・和泉（3550）
※ただし、この全てを三好一族が抑えていたわけではない。（細川、畠山、池田、和田、荒木、伊丹、高山など）
　その他在地勢力が根を張り、反三好から織田につくものも多数いた。他に足利家につくものも多数いた。

総計18500-敵対勢力
・遠征能力×
反織田という形で立場は同じになったが、指揮が統一されたわけでもなく分裂状態のまま。
統一行動は難しいか。


四国
・阿波三好家：三好長治-篠原長房　基本的に、主筋になる細川家と争ったり講和したり。 畿内には
あまり関わらず。播磨方面で抗争があった模様？
・讃岐十河家：十河在保　阿波三好家と行動を共にす。
・淡路安宅家：安宅信康　四国三好家についていたが、1572年には義昭信長につく。

・阿波(4570)
・讃岐(3150)
・淡路(1550)
※安宅信康が織田についてしまったので、これは三好には加えられない。
　　離反は確実であるが織田に付いたとも言い切れない。

総計9270-安宅氏の勢力
・遠征能力×
お互いに争ったり結んだり。このころには篠原長房との確執が表面化しだす。73年4～5月に長房が
討たれた後は抑えられていた豪族たちが反旗を翻すことになる。
四国の三好家関連は、後にほとんど信長に属することになる

　おまけ
●足利将軍家
・山城…？
※北山城の国人が義昭に呼応し、明智の配下から離脱者が出たとの記録あり。また細川藤孝や石成友通
などの勢力もあり。細川・明智は織田勢力とみなしてもいい。和田池田伊丹などは義昭勢力。

総計不明
・遠征能力×（史実でも城に篭った）

*[[過去のまとめ]]    </description>
    <dc:date>2012-04-08T04:08:07+09:00</dc:date>
  </item>
    <item rdf:about="http://www37.atwiki.jp/sengokuita/pages/106.html">
    <title>源四郎と鬼小島</title>
    <link>http://www37.atwiki.jp/sengokuita/pages/106.html</link>
    <description>
      著：2スレ目&gt;&gt;624殿
----
#aa{{
１
永禄四年九月十日、第四次川中島合戦 
啄木鳥先鋒を見破った上杉軍が突如八幡原西に出現した事から始まった戦いは 
上杉軍の一方的優位のうちに進み武田本隊は、左翼の穴山信君中央の飯富昌景の部隊を残し 
壊滅または後退を余儀なくされていた。 
伝令「申し上げます。山本道鬼斎殿、本庄越前守の陣に突撃し、斬り死なされたとのこと！」 
（｀･ω･´）昌景「なんと･･･典厩様、（諸角）豊後守殿に続き、道鬼殿までが･･･。」 
伝令「寄せ手が本陣に向けて押し寄せてまいります！」 
（｀･ω･´）昌景「くっ…妻女山へ向かった兄者や美濃殿が戻るまでここは我等で凌ぎ切らねばなるまい。すぐさま迎撃態勢をとるのだ！」 
山県隊は本陣を守りきるべく、上杉軍の猛攻に耐えたが徐々に陣形が崩れはじめ戦場は混乱の様相を呈してきた。 
（｀･ω･´）昌景「ちぃ、敵の数が多すぎる上朝からの劣勢で士気が萎えておる、このままでは･･･。」 
　／■＼　 
,（　´∀`）???「そこの御仁、名の有る将と見たワッショイ！名をお聞かせいただきたい！」 
（｀･ω･´）昌景「かく言う貴殿こそ先に名乗るのが礼というものではないか！」 
　／■＼　 
,（　´∀`）???「そうであったな、我こそは越後一の大力の士「鬼小島」こと小島弥太郎貞興！」 
（｀･ω･´）昌景「小島･･･鬼小島弥太郎か！」 


２
鬼小島弥太郎、そう聞いて昌景はすぐにピンと来た。 
（｀･ω･´）昌景（あの時の長尾の使いか。） 
先日、上杉政虎の宣戦布告の使者として武田の本陣に現れたのがこの巨漢であった。 
（´∀｀）信玄「この度長尾から使わされた使者は奴の幼少からの警護役であり、去る 
　　　　　　　　天文二十二年に長尾が上洛した際、公方様のけしかけようとした狒々を 
　　　　　　　　その大力で怯えさせたほどの剛の者だそうな。」 
彡｀Д´ミ信房「それは敵ながら天晴れでござるな。」 
（｀ﾒω・´）虎昌「うむ、力だけならばそれ程の者は武田の家中にはおらんやもしれぬ。」 
（´∀｀）信玄「そう思うであろう･･･それ程の男の狼狽した姿見てみたいと思わんか？」 
（　＾ω＾）昌豊「お？」 
（´∀｀）信玄「例の物を連れて参れ」 
まもなく小者たちが二人係で引っ張ってきた檻の中を見てその場にいた将兵は絶句した。 
そこにいたのは信玄の飼い犬で「人喰い獅子」と恐れられる猛犬である。 
（｀･ω･´）昌景「御屋形様･･･それは･･･。」 
（´∀｀）信玄「ははは、さすがの鬼小島もこやつに吠え立てられればさぞかし肝を冷やすであろう。」 
（｀･ω･´）昌景（やれやれ、時々こういうご無体な事をなさるのだからな･･･。） 
間も無く弥太郎が陣中に姿を現した。


３
　／■＼　 
,( ´∀`）弥太郎「関東管領の名代として参りました、小島貞興でございますワッショイ。」 
（´∀｀）信玄「うむ、お使い御苦労。」 
　／■＼　 
,( ´∀`）弥太郎「では、さっそくでございますがこの戦の大義名分は我等にあるワッショイ。」 
（´∀｀）信玄「うむ。」 
床机に腰をかけた弥太郎は得々と口上を述べ始めた。武田のものにとってはこの台詞を聞くのはもう四度目になる。 
　／■＼　 
,( ´∀`）弥太郎「以上のことからこの北信濃の地は･･･ぐっ！？」 
（´∀｀）信玄（ｷﾀ━━━━━(ﾟ∀ﾟ)━━━━━!!!!） 
弥太郎の脛部に激痛が走った陣幕の後ろから飛び出した「人喰い獅子」の牙がその肉に深く食い込んでいた。 
だが顔を青ざめさせる事となったのは弥太郎ではなく武田の将兵だった。 
　／■＼　 
,( ；´∀`）弥太郎「北信濃の地は村上殿ら国人衆の元に返す事こそが天の理というものワッショイ。」 
（´∀｀）信玄「（なんと、叫び声一つ挙げずに使者の口上を読み終えるとは…。）うむ、貴殿らの言い分はよく解った。だが何度も申しておる通り 
　　　　　　　　北信濃を渡すわけには参らん。どうしてもと申されるなら戦にて決着いたす所存と政虎殿にお伝えくだされ。」 
　／■＼　 
,( ；´∀`）弥太郎「承知仕ったワッショイ、その旨しかとお伝え申すが…その前に。」 
耳を劈くような甲高い悲鳴が陣中に響いた。弥太郎は脛に喰らいついて離さない「人喰い獅子」の口元を強く握り締めた。 
弥太郎の拳は顎を砕かれた「人喰い獅子」の鮮血で染まった。 
　／■＼　 
,( ；´∀`）弥太郎「会見の場を汚した無礼者を成敗ワッショイ！！」 
弥太郎は「人喰い獅子」を自分の脛から引き剥がすと立ち上がり、そのまま片手で持ち上げると 
思い切り地面にたたきつけた。「人喰い獅子」は顔の七つの穴から地を噴出し体を二、三度痙攣させ動かなくなった。 
陣中はしんと静まり返ってしまった。 
（｀･ω･´）昌景（なんとこの男、唐土の樊噲の再来か…。） 
この男の名と顔は昌景の脳裏に深く刻まれた。


４
（｀･ω･´）昌景「先日の犬殺し、いや獅子殺し殿か！脛の具合はどうでござるか。」 
　／■＼　 
( 　´∀`）弥太郎「あの程度傷たいした事ないワッショイ！それよりここで遭うたも何かの縁、 
　　　　　　　　　一対一の勝負を所望いたすワッショイ！」 
（｀･ω･´）昌景「お互い余り時間はかけられぬようじゃな、よかろう！お受けいたす。」 
こうして二騎の武者がお互い相手に向けて駆け出した。昌景は自身の背丈を越える槍を振りかざし 
弥太郎は大薙刀を振るって挑みかかった。体格からすれば勝負はすぐつくかと見られたが 
昌景は馬上を飛ぶように動き回って弥太郎の薙刀を受け返し、すきあらば一撃を加えんと狙っていた。 
（｀･ω･´）昌景「さすがは鬼小島、一撃、一撃が堪える…。早々に蹴りを付けねば。」 
　／■＼　 
( 　´∀`）弥太郎「くう、あの体躯このわしと三十合以上も渡り合うとは…少しでも気を抜いたらおしまいだワッショイ。」 
人並みはずれた巨躯の男と、人並みはずれた矮躯をもつ二人の武者の 
いつ果てるとも無く続く激戦に終止符を打ったのは一人の伝令であった。


５
伝令「申し上げます！太郎義信様の軍勢が上杉本隊に突撃を加え、勇戦なされましたが 
返り討ちに遭われ現在千曲川方面へ後退中、さらに敵の猛追を受けております！」 
（｀･ω･´）昌景「なんだと！？（馬鹿な！あれ程御屋形様に持ち場死守を優先されよと、仰せ付かっておられたではないか！）。」 
伝令「このままでは右翼が切り崩されまする！」 
（｀･ω･´）昌景（血気にはやられたか、いずれにせよ義信様に万一の事会っては、御屋形様に…兄者に顔向けが出来ん！） 
／■＼　 
( 　´∀`）弥太郎「どうしたワッショイ！上の空で俺に勝てるとでも思ったワッショイ！」 
（｀･ω･´）昌景「あいや、待たれい！！この勝負ひとまず預けてくれぬか！」 
／■＼　 
( 　´∀`）弥太郎「なに！？どういうつもりワッショイ！！」 
（｀･ω･´）昌景「我等が若君、太郎義信様の御身が危ない。わしは卑怯者の誹りを受けてもかまわぬ。 
　　　　　　　　　が、主君を見殺しにして何の武士か、恥をしのんでお頼み申す。この場はお許しくだされ。」 
／■＼　 
( 　´∀`）弥太郎「…。貴様の行いは本来ならば許されざる卑怯の振る舞いワッショイ。 
　　　　　　　　　だが、ここは貴殿の忠節に免じてとがめだては致さぬ。いずれまた戦場で交わる事があれば 
　　　　　　　　　その時こそ白黒つけてやるワッショイ。ではさらば！！」 
（｀･ω･´）昌景「・・・かたじけない。」


６
昌景の救援により義信隊の壊滅だけは避けることが出来た。 
妻女山に向かっていた別働隊が八幡原に到着したのはこれより一時間ほど後である。 
（｀ﾒω・´）虎昌「うおおおおお！！御屋形様、若、源四郎ぉ！！我等が参ったからにはこれ以上寄せ手の好きにはさせぬ！！」 
これにより一気に形勢は逆転、その日の三時ごろには上杉軍は完全に戦場から退却した。 
（｀ﾒω・´）虎昌「おおおおおお！源四郎、心配しておったのだぞ！！」 
(；ﾞﾟ&#039;ωﾟ&#039;）昌景「あ、あにじゃ…くるし…。」 
（｀ﾒω・´）虎昌「おお、すまなかった。しかしおぬし槍の柄が太刀傷だらけじゃが…足軽相手ではそのような角度の傷はつくまい。一騎討ちでもやったか。」 
（｀･ω･´）昌景「はぁ、実は寄せ手の小島弥太郎殿とやりあったのでござる。決着をつけずに投げ出してしまったのですが…。」 
（｀ﾒω・´）虎昌「なんと！先日の鬼小島か！あの化け物と討ちあうとは…。」 
（｀･ω･´）昌景「いやいや、鬼小島などとはとんでもない。かの者こそ花も実もあるまことの武士でござる。兄者も某もあの男には礼を申さねばなりますまい。」 
（｀ﾒω・´）虎昌「???」

}}    </description>
    <dc:date>2011-12-07T00:05:46+09:00</dc:date>
  </item>
    <item rdf:about="http://www37.atwiki.jp/sengokuita/pages/114.html">
    <title>天正九年の後典厩</title>
    <link>http://www37.atwiki.jp/sengokuita/pages/114.html</link>
    <description>
      著：3スレ目&gt;&gt;90殿
----
#aa{{
１
時は天正九年、その年も暮れようとする十二月、甲府は重い空気に包まれていた

跡部　（　｀ハ´ ）　「勝頼様、織田方より人質として預かっておりました信長養子勝長殿、御坊丸殿を返還いたしましたが、
　　　　　　　　　　　　　織田方は講和を拒否しました・・・」

長坂　&lt;丶´｀A´`&gt;「昨年来、対立を続けています北条との戦に備えるための安房里見氏との同盟を佐竹義重殿に依頼しておりますが
　　　　　　　　　　　　こちらも低調に終わりそうです、また大田三楽斎殿に仲介を頼んでいた佐竹氏自身との同盟もいまだ成果が出ておりません・・・」

真田昌幸（・_ゝ・）「尾張美濃方面にはなっております乱波の諜報によりますと信長は来年春にもわが領内に総攻撃をかけると家臣に
　　　　　　　　　　　号令をかけた模様です！
　　　　　　　　　　　また、それがしが縄張りをいたしました新府城ですが完成には今しばらく時間がかかります、おそらくは織田との
　　　　　　　　　　　決戦には間に合わぬものかと・・・」

勝頼　　 くﾐｲX｀дK!　　 「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

小山田 （-@∀@）「勝頼様！今こそ、アジアに、じゃなかった、 織田、北条にさらなる謝罪と賠償を！！！」

跡部　　（　｀ハ´ ）　「小山田殿！織田には十分誠意を尽くした対応をとっております。また北条に対してはそもそも
　　　　　　　　　　　　　上杉家の内乱に乗じた、北条の越後に対する野望が発端となったもの、我らに非はありませぬ」

真田昌幸（・_ゝ・）「しかし、上杉景勝はまだ若い、織田に対する防備が精一杯で約束の援兵を差し出さぬ、
　　　　　　　　　　　甲越同盟については現状を鑑みるにもっとも正しい選択であったかは・・・」

小山田 （-@∀@）「だからこそ、アジアに、じゃなかった、 織田、北条にさらなる謝罪と賠償を！！！」

真田昌幸（・_ゝ・）「一門衆である御三方はいかが思われます」

穴山(&#039;A`)y-「・・・・・・・・」

木曽（*｀Д´）「・・・・・・・」

信豊ヽ(ﾟ∀ﾟ)ﾉ「・・・・・・・」

跡部　（　｀ハ´ ）「御三方は勝頼様を補佐すべく今は亡き信玄公よりの遺訓を賜っているはずです！
　　　　　　　　　　　それなのに、長篠の戦のおりも、、、、、まさか、織田方に通じておるのでありますまいな！？」

木曽（*｀Д´）「なんじゃと！！」

穴山(&#039;A`)y-「・・・・・・（するどいのぅ）」

勝頼　　 くﾐｲX｀дK!　　 「・・・・・・・・・・もうよい」


軍議を重ねるたびに家臣団の団結は乱れていく、かつて戦国最強といわれた武田家家臣団、その強さはここの能力が優れていたことも
さることながら、各々の家臣たちの結束が強かったことにあった。
しかし、その結束は既に失われていた・・・・


２
真田昌幸（・_ゝ・）「それがしは新府築城、および上野方面の防備がありますのでこれで・・」

小山田 （-@∀@）「私も、岩殿にもどらぬと。跡部殿、長坂殿、くれぐれも周辺諸国に
　　　　　　　　　　　謝罪と賠償を（ｒｙ」

跡部　（　｀ハ´ ）「フン！小山田め、奴こそ獅子身中の虫だ、売国奴め・・・
　　　　　　　　　　　それがしも諏訪方面の経営がありますのでこれで失礼いたします」

長坂　&lt;丶´｀A´`&gt;「ああ、みなのもの、ご苦労であった・・・これからも苦労が多い
　　　　　　　　　　　　これからが正念場じゃ・・・みなで一致団結して武田家を・・・」

跡部　（　｀ハ´ ）「ああ、そうじゃ、ご一門衆の御三方！あなた方は勝頼様を支える
　　　　　　　　　　　お役目があることを努々忘れなさるな」

木曽（*｀Д´）「・・・（奴とて正式に武田の家を継いだわけではあるまい」

穴山(&#039;A`)y-「・・・・・・・・（血筋でいえばわが穴山家のほうが諏訪の妾に産ませた子よりも正統じゃ）」


険悪な空気の中、軍議は散会した

&lt;丶´；A；`&gt; 「・・・・・・我ら武田家臣団はいつからこうなってしまったのかのう・・・・
　　　　　　　　山県、馬場、高坂、そして・・・内藤、彼らが生きていた頃は楽しかった・・・
　　　　　　　　彼らと言い争ったこともあった、それも武田家をそれぞれが思ってのこと
　　　　　　　　最後は彼らとも分かり合えた。。。だが、今は違う。みな、自分のことしか
　　　　　　　　考えておらぬ・・・・・・・・」


３
長坂&lt;丶´；A；`&gt; 「山県、馬場、内藤、高坂、、、なぜお主らは先に逝ってしまったのじゃ
　　　　　　　　せめて高坂だけでもあと１０年長く生きてくれれば・・・・
　　　　　　　　わしのような老いぼれがいつまでも生きておって、お主らのような
　　　　　　　　勇敢で才能あふれる者たちが先に死んでしまうとは・・・・」

信豊ヽ(ﾟ∀ﾟ)ﾉ「南蛮の諺にも良いものは早く死ぬ、と申しますからな」

長坂　&lt;丶´｀A´`&gt;「！？なんじゃ？て、典厩殿？まだ、ここにおられたのか？？
　　　　　　　　　　　いや、というか、あなたが真面目に話しておられるのを私は
　　　　　　　　　　　初めて聞いたような！？」

信豊ヽ(ﾟ∀ﾟ)ﾉ「確かに、今、武田家は未曾有の国難にある、みな、自分の保身に必死じゃ」

長坂　&lt;丶´｀A´`&gt;「！？わしの質問はスルーですか？」



信豊ヽ(ﾟ∀ﾟ)ﾉ「義昌、梅雪、それぞれ、織田、徳川と通じておるだろう、小山田もしかり
　　　　　　　　　それぞれが敵と領地を接している最前線に領地を持つものたちじゃ
　　　　　　　　　当然、敵との交流も増える。あの時、高坂殿の進言に従い国替えをすべきで
　　　　　　　　　あったかもしれんが、過ぎた事はもう遅い」

長坂　&lt;丶´｀A´`&gt;「・・・」

信豊ヽ(ﾟ∀ﾟ)ﾉ「もはや、離れていったものたちの心を取り戻すことは出来ぬ
　　　　　　　　　釣閑斎、お主も自らの家名を考えるのであれば、寝返りもよし
　　　　　　　　　この期に及んで、勝頼も繰言は申すまい。
　　　　　　　　　今となっては勝頼を支える、というよりも武田家武将として
　　　　　　　　　その名を永久に残すべく、私は闘おうと思う。」

長坂&lt;丶´；A；`&gt; 「典厩殿・・・」　　　　　　　

普段は天然真性電波の信豊の真面目な発言に面食らった長坂であったが
ふと、その話し方、その声色がなぜか信豊の父、古典厩信繁によく似ている気がしてきた


長坂&lt;丶´；A；`&gt; 「もしかしたら古典厩殿が信豊殿の体を借りて武田家とともに戦おうとしているのかも知れんな・・・」



時は天正九年、戦国にその名をとどろかせた最強軍団武田家の落日は目前に迫っていた・・・・
}}    </description>
    <dc:date>2011-12-06T23:55:34+09:00</dc:date>
  </item>
    <item rdf:about="http://www37.atwiki.jp/sengokuita/pages/39.html">
    <title>オの人物</title>
    <link>http://www37.atwiki.jp/sengokuita/pages/39.html</link>
    <description>
      #contents
＊大石家歴代当主
大石朝良（？～？）
近江・栗太郡国人。大石氏は藤原秀郷の末裔、小山氏の流れを汲む。
織田信長が近江に入ると、蒲生賢秀ら近江国人とともに織田氏に従った。
その後、秀吉に仕えて功績が多く、のちに近江で1万石の所領を得た。

大石良信
大石良信（？～？）
朝良の子。豊臣秀次に家老として付けられ、その失脚に連座して流罪となるが、
蒲生氏郷の取り成しで許され、大名に復帰。関ヶ原では東軍につき、
戦後伊予吉田に転封され、3万石の領主となった。

大石良勝
大石良勝（1587～1650）
良信の子。伊予吉田第2代藩主。大坂の陣に出陣し、
天王寺合戦で多大な功績があり……（以下略）

：
：
：

大石良雄（1659～1737） 
伊予吉田藩第4代藩主。1677年、祖父良欽の死により家督継承。 
領主としては凡庸で、「昼行燈」と陰口を叩く者がいたという伝説もあるが、 
領内はおおむね平穏であり、本人も天寿を全うした。 
1701年、院使饗応役を命じられた際、相方の勅使饗応役、 
赤穂藩主浅野長矩が吉良義央に斬りかかる刃傷事件を起こしたことで有名。 

*大内義長
大内義長

大友宗麟の異母弟。
1544年大内義隆の養子になる。この時、周防行きを諌めた兄に｢燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らずや｣と言い放ち決定的な対立を招く。
1551年の陶晴賢の乱では相良武任と陶晴賢両者を和解させ義父義隆隠居で決着、という電撃的な政治工作を見せ大内領内の動揺を最小限に抑える。
また義父の代から仕える毛利元就を国人から切り離し、直臣として参謀に迎える。
この事により仲の悪くなった陶晴賢を1555年の厳島神社参詣の折に暗殺。
また、1560年には月山富田城を元就の奇策で奪取。尼子晴久･義久親子は戦死。
元就の奇策とは1542年の月山富田城攻めの二の舞に見せたもので、大内麾下だった吉川・本城・三刀屋などの国人衆が攻めあぐねる大内に愛想を尽かし、
尼子に寝返ったように見せかけて内部から火の手を放つものであった。
すでに元就の謀略によって尼子宗家から離れ、大内に帰属していた新宮党尼子誠久との壮絶な一騎討ちの末晴久は討たれたとある。
1568年にはついに宿敵大友宗麟との北九州を巡る一進一退の戦いが始まる。
立花鑑載・秋月種実・高橋鑑種・龍造寺隆信など反大友諸将と連携するも、戸次鑑連・吉弘鎮種・一万田鑑実など大友麾下の前に各地で苦戦。
ついに業を煮やした義長は元就の制止も聞かず、立花ら諸将を糾合して多々良浜で決戦に及ぶ。
大内軍３万大友軍２万3000の戦い、誰もが大内優勢を信じて疑わなかった。
ところが戦の最中に大内軍最左翼に陣取る筑紫広門が返り忠を働き、ほぼ同時に遅参してきた蒲池鑑盛率いる筑後からの大友の援軍1000に右翼を衝かれ総崩れになる。
殿軍を務めた毛利隆元を始め立花鑑載・龍造寺長信などの戦死者を出し筑前・豊前から大内の勢力は一掃される。
またこの戦いの参謀を務めた江良長栄(房栄より改名)は責任をとり切腹。
義長は自らの責任を被り、大内軍内部崩壊を防いでくれた長栄の為に涙を流したという。
これが後に言う｢泣いて長栄を斬る｣ということわざである。

また、この敗北により各地の反大内勢力の動きが活発になる。
出雲には尼子秀久・倫久兄弟が、備後には三村家親が侵入を繰り返すようになる。
これらの動きに対し義長は再び元就を参謀に迎え、適切に対処していく。
1570年には神西城に尼子兄弟を破り秀久を討ち、倫久を敗走させる。
また翌71年には芦田川の戦いで三村家親を大敗させる。この年元就が亡くなり、元春は毛利を継いでいたので、隆景を新たに参謀に任命する
このころから伊予の河野通宣が援軍を求めてくるが、兵力不足を理由に断る。
1573年には再び九州に上陸。雪辱を試みるも大友に匿われていた大内輝弘が宗家を名乗り、大友の援助で山口に乱入。仕方なく１週間の滞在で退陣し、輝弘を敗死に追い込む。
輝弘の｢捨て駒や　いつか花咲く　布石かな｣は辞世の句としてちょっとした話題になる。
74年ついに重い腰を上げ伊予に兵を出す。河野・西園寺と連合し一条・宇都宮・大友連合と戦う。小競り合いに終始したが敵勢を追い返し数城を奪う。
その直後、毛利元就の息子元清を河野通宣の養子にし河野家乗っ取りに成功する。
翌75年には宇都宮豊綱を滅ぼし中予平定。すでに大内麾下になっていた西園寺勢を加え一条氏を滅ぼす。
76年には三度九州に上陸。猛烈な勢いで途中の諸城を抜き、立花山城を包囲する。
だが小勢の立花道雪の前に釘付けになる大内軍。そうこうしてる内に大友の軍が集結という話を聞いた義長は包囲を解くと門司まで後退する。軍内からは｢戦う前から退却か｣と不満の声が上がるが、
ここで義長は船は対岸の下関にあり、退路は断たれている事を宣言。諸将の顔色が変わる。
大友軍は敵が背水の陣である事を見抜くと、兵糧攻めにしようと下関からの水軍を完全に叩き兵糧運搬を阻止しようと田原親貫が提案。これに反対する道雪・高橋紹運と賛成する若手に意見が割れるが
結局採用され、大友水軍100艘は下関に向かう。だがこれが隆景の策謀であった。
壇ノ浦で迎え撃った大内水軍は潮の流れを利用し、潮が逆転する前に一気に殲滅したのである。
源平合戦の再現はならなかったのである。
また同時に義長率いる本隊も猛然と大友軍に襲いかかったのである。
大内軍２万6000に対し大友軍４万5000と数の上では劣勢であったが 狭い地形では戦線が伸びるはずもなく、実際に戦ってるのは7000対8000とほぼ互角であった。
大内勢は背後が海という状況に加え義長自ら太刀を奮い督戦したため、士気がいやが応にも上がっていった。また大友勢は緒戦こそ互角に戦って見せたものの
三刻も立つとじわじわ押され始め、水軍潰滅の報を聞き兵は浮き足立って次第に崩れ始めた。
一度崩れた態勢が立てなおせるはずもなく大友勢は夕方には退却していった。
義長は追撃を試みようとしたが、道雪や紹運が整然と軍をまとめ下がったので無理に追わず、この門司の戦いは大内軍の圧勝に終わった。義長の鎧は返り血で真っ赤だったという。
大友軍は立花山城を放棄し、豊前・筑後に兵を戻したので義長は立花山城に入城し筑前平定果ては宿敵大友宗麟との直接対決にこれからという時、1578年病に倒れこの世を去る。

＊大谷吉継 
大谷吉継 

豊臣四天王の一人。 
関ヶ原合戦において、同じく豊臣四天王の一人、石田三成と共に西軍の中枢を担う。 
小早川秀秋の内応を事前に察知し、脇坂隊、朽木隊などと連携して秀秋の大軍を撃破。 
西軍勝利に大きく貢献する。 

吉継自身は関ヶ原合戦の直後、らい病の悪化により没したが、 
大谷家はその後豊臣政権が倒れるまでの300年間、有力大名家として存続した。 

現代でも人気の高い武将であり、彼を主人公とした映画、小説も多い。 
特に戦後、映画「刑部の名は」は大ヒットを記録し、 
彼を真似た男性たちの間で「吉継巻き」が流行したことはあまりに有名。
 
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大谷吉継(1559-1613) 
豊臣秀吉の家臣、後に大名。 
関ヶ原合戦直前に、親友三成の挙兵を思いとどめんと 
説得を続けるが失敗、戦いでは決して家康に勝てぬと見た吉継は 
家康を暗殺する事で豊臣家を救おうと決意、東軍に参加する。 
やがて関ヶ原合戦後の家康と諸将対面時において 
家康と刺し違える絶好の機会を得るが 
目の前で&gt;&gt;125の黒田長政乱心事件が起こってしまう。 
あまりの出来事に吉継は茫然自失の態だったと言う。 

大谷家は恩賞として10万石の加増を受け、中堅外様として 
幕末まで栄えるが、初代藩主の吉継は鬱々として楽しまなかった。 
晩年は「こんな事になるのなら、佐吉と共に死ぬべきだった」 
としきりに悔やんでいたという。 
・（まとめ注：黒田長政乱心事件については[[カ～コの人物]]を参照のこと）

＊大友宗麟
大友宗麟　1530-1587 

豊後・府内に漂着したアラビア商人と親交を深めてイスラム教に興味を持ち、 
日本初のムスリム大名になった。ムスリム名・アブドゥルラフマン。 
領内の寺社神社を破壊し、竜造寺・島津・大内ら諸氏と激しく覇を競った。 
天正少年遣トルコ使節団を派遣、オスマン帝国と友好関係を結んで 
アラビアの学問や兵器を導入したが、耳川で島津氏に大敗し没落した。 
フロイスは見るに耐えない凄まじい言葉で彼をけなし、 
「シモの地方で十字軍を起こすべきだ」と述べている。 

＊大友義鑑
大友義鑑（1502-1557）

豊後大友氏第二十代当主。
1557年、「二階崩れの変」で、三男・塩市丸とともに死亡した。

原因は、手抜き工事といわれている。

＊小川祐忠
小川祐忠（？～１６００）
関が原の合戦で西軍につく。
戦況を日和見していたが東軍の威嚇射撃によって
小早川秀秋が寝返ると脇坂・朽木・赤座・大谷吉継らと共に
小早川隊を迎えうち全員討ち死に。
後の世で『亡き太閤の恩に報いた忠義の者』として尊敬される。

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小川祐忠(15??～1600)
関ケ原の戦いにおいて脇坂・朽木・赤座らと共に寝返るも、何を血迷ったのか再度西軍に寝返り
小早川隊に突撃して討ち死に。配下も一人残らず死亡した。
死亡直前まで叫んでた｢小早川家のみなさん目を覚ましてくださ～い｣は
子孫の小川直也に引き継がれ新日本プロレスに上がったときにリサイクルされた

＊小田氏治
小田氏治(1534～1602) 
土浦公方。または江戸公方とも。号して天庵。 

父、政治の跡を継いで当主となる。当時の小田家は河越夜戦に敗北し、凋落の一途を辿ろうとしていた。 
氏治は手始めに結城政勝を攻略すると、南進して来た佐竹義昭も返り討ちにする。1558年には佐竹・多賀谷連合軍を破り、常陸と両軍の家臣団を一気に傘下に収める。 
その戦上手振りを恐れた北条氏康は同盟を持ち掛け、互いの息子である小田友治と北条三郎(のちに北条治康と名乗る)を人質として交換した。 
1560年代になると上杉謙信の侵攻が激化するも、氏治はその都度撃退し、時には逆に上野に攻め込んだ。更に旧佐竹家臣だった真壁らに下野の諸勢力を攻略させ、自らの版図に加える。 
この頃になると堀越公方・足利政知を祖父に持つ氏治は、有名無実化した古河公方を廃し、自らが関東公方を名乗る事を土浦城にて宣言。世に言う土浦公方の誕生である。 
だが、これは氏治の数少ない失策であった。氏治の公方僭称を認めない関東管領の謙信と小田家の膨張を恐れた氏康が越相同盟を組んだのだ。 
この状況に氏治は武田信玄と甲常同盟を結んで対抗した。 
そして1569年、ついに氏治と謙信・氏康との決戦が始まる。決戦の地は河越。そう、かつて父が氏康に敗北を喫した地である。 
北条綱成が篭る河越城を小田軍が包囲、更に連合軍が遠巻きに囲むと言う状況だった。実は氏治は河越城を囲む前に布石を打っていた。それは里見義頼を動かす事である。 
氏康らが小田原を発つのとほぼ同時に里見軍が安房より進発。海上から相模に上陸、一路小田原を目指す。 
これに気付いた氏康は、全兵力の半数を氏政に預け、救援に向かわせた。 
それにより第二次河越合戦は、小田軍二万に上杉・北条連合軍が五万(籠城兵五千を含む)となった。 

開戦直後は流石に数に勝る連合軍が優勢で、氏治自身も危機に晒されるほどであったと言われる。(謙信が単騎駆けしたとの文献も見られるが、定かではない) 
だが、小田原救援軍が里見家家臣、正木時茂に敗れるとの報が入ると状況が一変する。 
帰るべき城を無くしたと思った北条兵が次々と逃げ出したのだ。逃げるならまだしも、中には小田軍に下る一門衆や家臣も出る程である。 
更にこの混乱が上杉軍にも及ぼうとした時、氏治は次なる手を打つ。 
小田本陣に上がる狼煙。連合軍が訝しむ中、鬨の声が上がる。上杉軍にいた佐野昌綱が矛を逆しまに攻めかかって来たのだ。 
前々から打倒謙信に燃える昌綱に調略の手を伸ばしていた氏治はこのタイミングで昌綱を裏切らせたのだ。 
第二次河越合戦に際して昌綱が謙信に早々に下り、道案内を務めたのも全ては氏治の策であった。 
こうなると連合軍は誰が敵で誰が味方か分からずに同士討ちを始めてしまった。 
さしもの謙信もこれ以上の戦闘継続を諦め、越後に撤退して行った。また、氏康を初めとした北条軍も逃走兵以外は何とか河越城に逃げ込む事に成功したが、既に風前の灯火である。 
三日間の抵抗の後、河越城は落城。氏康らは自害した。(但し、氏治の元に人質として来ていた治康が北条家を継ぐ事を許されている) 

敗戦後、謙信は 
「儂は憲政公より上杉姓と関東管領を拝命し、その職を全うしようとしたが、むべなるかな。関東に氏治がおる限り、儂は三国峠を越えられぬ」 

と周囲に漏らし、また同盟相手の信玄も死去する際に 
「儂が死んだら小田氏治を頼れ。西の織田家とは争っても、東の小田家とは争うな」 

と勝頼や家臣団に厳命したと言われる。 

この合戦により小田家は常陸・上野・下野・武蔵・相模を領する大大名に成長。関東の覇者に君臨した氏治は新しい拠点に江戸を選ぶ。ここを整備し、東の京都と呼ばれるまでに発展させた。(氏治を江戸公方と呼ぶのもこの辺りが要因である) 
拠点を江戸に移してからは内政に力を入れ、１０年近く関東全域から戦が絶えると言う快挙を成し遂げた。 
だが、それも長くは続かなかった。1582年に武田征伐が起きたのだ。氏治はかつての同盟相手の息子である勝頼が滅びるのを良しとせず、信長と敵対してでも、勝頼の甲斐脱出を援助した。 
その結果、上杉を降した柴田が上野から、武田征伐を終えた滝川が甲斐から、信長の盟友徳川が駿河より侵入して来た。 
これに対し、氏治は相手戦力を減衰させながらも、最後には太田資正が手掛けた東国一の堅城と呼ばれた江戸城にて籠城戦を繰り広げる。 
籠城戦の最中、包囲軍の動きが慌ただしくなるのを氏治は見逃さなかった。細作を放ち、調べさせると、信長が本能寺で明智光秀に討たれたと言うのだ。 
これを好機と見た氏治は、上野から撤退する柴田軍に資正を、甲斐に撤退する滝川軍には客将として迎え入れた勝頼父子を、駿河に撤退する徳川軍には自らが当たり、逆襲の追撃戦が始まる。 
結局は勝家が神流川で、一益は甲府で、家康は箱根でそれぞれ首級を挙げられた。(一益に関しては土民に討たれたとも言われる) 

その後も徳川残党を追撃するが、三河・遠江国境で東進して来た明智秀満軍と遭遇。互いを不可侵とする事で合意した。 
明智幕府が開かれると、、引き続き関東公方に就任。奥州征伐の総大将として白河関を越える。 
伊達政宗を討ち、江戸に凱旋すると家督と関東公方を守治に譲り、隠居。 
かつて関東公方を宣言した土浦にて悠悠自適な生活を送り、1602年に死去。死後、孫の経治の手によって日光に祀られる。 

＊織田市（お市の方）
織田市（1547～1615） 
賤ヶ岳の合戦の際、柴田勝家に進められ徳川家康の下へ逃亡、 
羽柴家の討伐を家康に進言するも大政所と娘の茶々との人質交換で和睦 
その後大阪の陣の直前まで茶々に降伏を説得するも願い虚しく死亡し自身も 
３ヵ月後に死亡した。 

＊織田信雄
織田信雄（1558～？）
織田信長の二男。大坂の役では知らず知らずのうちに豊家総大将にされるも恐ろしくなり行方不明となる

＊織田信勝
織田信勝（1536-1596）
※達成・信成とも

織田信秀次男。
稲生原合戦で弟・織田秀孝や異母弟・信時と結託し、
兄信長を討ち取り織田家を相続する。
今川家が尾張侵攻の際にはいち早く、軍門に降り尾張４郡を治め
織田家当主が代々名乗っていた弾正忠を名乗る。
今川家の美濃侵攻や近江侵攻で軍功を上げ、尾張国を治めた。

＊織田信貞
織田信貞　1574-1624

織田信長の九男。1582年、本能寺の変で信長・信忠親子が横死し、
それにひきつづく騒乱の中で信雄・三法師・長益・信孝ら主要な
織田家の者たちが命を落とすと、織田家の後継者として浮上した。
柴田勝家に擁立され、一時は窮地に立った織田勢力を再統合し、
天下統一を果たした。1615年征夷大将軍に任じられ織田幕府を開いた。

幼名の「人（ひと）」は、中世日本語で「者」「民」を意味する普通名詞。
信長のネーミングセンスを疑いたいが、初代将軍のご幼名ということで、
将軍家の嫡男には代々「人」と名づけられた。
一般の者はこのおそれ多い言葉を避けるならわしとなったため、
近世には「ひと」という言葉が廃れることとなった。

歴史にＩＦは許されないというが、信貞が将軍にならなかったなら
ドラマ「３年Ｂ組金八先生」の名ゼリフ「“者”という字は～」も、
また違う形になっていただろう。

＊織田信孝
織田信孝（1558―1650）
侍従・参議・中納言。織田信長の三男。
神吉城攻めでは足軽に混じって奮戦するなど、血気に逸りがちであるものの武勇に秀でた。
また、村井貞勝の元で行政官としての経験も積み、後の善政の礎とした。

1582年、父信長と長兄信忠が明智光秀の謀反から命からがら京を脱出した際、
信孝は丹羽長秀と四国征伐の途上にあったが、いち早く大坂まで引き返して父や兄と合流した。
この際、光秀の娘婿となっていた津田信澄を攻撃するよう進言する者もあったが、
信孝はそれを退けて信澄に使者を送り、父（信長の弟信勝）の怨恨などに囚われず信長側につくべきと説得させた。
信澄も最初から光秀に与するつもりはなく、妻を離縁・出家させ（彼女は後に赦され天寿を全うした）光秀討伐の先陣を志願した。
講談などでは信孝自ら信澄の元へ赴き、理路整然と光秀の非と天下万民の為に戦うべきと説いたとあるが、もちろん後世の創作である。

光秀を打倒した後は四国征伐を続行、遅れを取り戻すかのような電光石火の快進撃を重ね、
四国諸大名はことごとく降伏・滅亡していった。
その功により、信孝は新設された四国総督の初代に就任、四国全土を支配する事となる。
その善政は代々の当主が必ず手本としたほど細やかで民を第一に考えるものであった。
信長の後を追うように信忠が若くして死去した後は
和解した次兄信雄と共に甥の信道（仮想戦記では秀信と呼ばれる事が多い）の補佐に徹し、
「雄孝ある限り、織田家に陰りなし」とまで言われた。

織田政権最大の危機と言われた羽柴秀吉の反乱においても活躍し、秀吉の首を挙げた後、命乞いをする秀吉の母なかと妻のねねに対し、
「形の上でも武家の女（ねねに関しては武家の出だったという説もある）となった以上、覚悟はできていよう」と冷然と逆さ磔に処した。
これは織田家の禄を食んでおきながら弓を引く謀反人とその一族の末路を見せつける意図があったという。

そんな信孝ではあったが、不思議と男児には恵まれず、
次女と織田信衡の間に生まれた次男である孝衝に家督を継がせた。
しかしながら、依然として実権は信孝が握っており、
徳川家の家督争いが勃発した際、老体に鞭打って紀州徳川家当主の頼宣を次男忠長側につくよう説得した逸話が有名。
「家光殿の如き凡愚の御仁では徳川は滅びましょうぞ。どうしても家光殿につきたくば、この老骨を斬ってからになされよ！！」と
頼宣を大喝した時の眼光は若き日に戦場を駆け巡っていた頃から、いささかも衰えていなかったと伝えられる。

1650年、92歳の長寿で永眠。多くの大名にその死を惜しまれた。
覇王信長の子に恥じぬ炎のような生涯は、今も多くの創作物となって人々の心を滾らせている。

＊織田信忠
【織田信忠】
日本を統一し、戦国を終わらせた織田信長の嫡男。
父・信長の遺言に従い、外国との外交・貿易を積極的に進めたが、
若死してしまう。
その後、稀代の野心家・明智光秀と羽柴秀吉に謀反を起こされ、
織田政権は崩壊した。

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織田信忠（1557～16??）

幼少期に武田信玄の娘、松姫との政略婚約を結ぶ。
時は流れて1573年春、
前年三方ヶ原にて徳川軍を破った武田軍が尾張に乱入。
雪解けによる上杉謙信の動きが懸念されたが
江北戦線で浅井勢が織田方の横山城を強襲して
大勝利を収めたとの報を受けての賭けである。
武田と織田による濃尾最終決戦！
兵力では織田が5万、武田が3万ほどだが
長島一向宗の支援と連戦連勝の勢いにより武田が勝利。
その戦いの最中、信長と信忠の隊が分断、
信忠必死の奮戦で信長を岐阜に逃がし、
自身も清洲に入ろうとするも生け捕られる。
岐阜はわずか2日で落城し、信長自害。
信長自害の報を聞いた徳川父子も降伏。

捕らわれの身の信忠は自害しようと試みるも
先の戦での戦い振りに惚れ込んだ信玄が
見張りをつけ四六時中監視してそのスキを与えない。
信忠が次に採ったのは「断食」による餓死。
みるみるうちに信忠の体は痩せこけていった。
信玄は愛娘、松を呼んで信忠の看病をさせるも信忠は食を拒み続ける。
ほどなくして、信忠は危険な状態に陥る。
死の淵にて松の愛が伝わり、献身的看病により体力を取り戻す。
快復後、信忠と松の婚儀が行われ、幼少の頃の婚約が実現。

以後、信玄により密かに除かれた家康の跡徳川を継いだ信康、
後に同じく信玄の娘を娶る上杉景勝とともに勝頼を輔佐し、
武田の天下取りに貢献し、尾張1国を宛がわれる。

＊織田信長
織田信長（1534―1560？）
尾張守
尾張守護代・織田氏の家を乗っ取って
一時期尾張を支配したが、上洛途中の義元に
攻められ滅亡。その後自害したとも諸国を放浪したともいわれている。

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織田信長

尾張の大名。
桶狭間の戦いで今川義元の大軍を破り、周囲にその名を轟かせる。
その後美濃を落とし地盤を確立。
その後上洛し、天下に足をかけるも、浅井長政の裏切りによりそれは崩れ
千種越えの最中に杉谷善住坊に狙撃され死亡する。

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織田吉法師

織田信秀の子。２歳で川に落ちて死亡

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織田信長　
織田幕府の創始者
南寇の撃退者

南北朝時代　北朝を擁する足利幕府は懐良親王を頂く九州南朝を屈服させること
に失敗、九州一円を統一支配に成功し明の冊封を受けた事から、日本とは別個の独立国・筑紫
として体裁を整え、以降九州は独立国として歩み始めた。
懐良親王は筑紫国王として南朝に由来する王統を唱え
足利直冬を征西大将軍とする。ここに東西足利幕府が成立
ただ惰弱な東の足利幕府と異なり西の足利幕府は天竺に砲艦を送って武威を示し
国威の発揚と港湾の確保による交易拡大を得ており、
独立国として琉球や呂宋まで版図とし明朝の皇女を迎え
将軍の次男がローマを訪れ洗礼を受けるなど国際的な大国として発展しつつあった。
　筑紫の表玄関となった博多や長崎はコンスタンティノープル以東で最大の城塞を構え
その都会の様はかの長安や古のローマの如し・・と宣教師に謳われる国際的なメトロポリス
となっていた。
またイスパニアはコロンブスなる人物が見出した新天地に派兵して雲煙万里を越えて
メヒコインカの地を「略奪からの解放」の名のもとに己が物とし
イスパニアポルトガルとの抗争でアフリカはマダガスカルと喜望峰まで獲得
東洋初の日没無き帝国の威容を備えるに至っていた。
これほどの世界帝国でありながら隣する日本は国祖・懐良帝の遺言で手を出すことは
禁じられていた。
が海洋帝国として分断工作に余念はなく日本は長い戦国時代を迎えていた。
そんな戦国を終わらせる可能性を秘めた男それが織田信長であった。
信長と筑紫との抗争は石山本願寺への支援に始まり
東の足利最後の将軍義昭の亡命を機に本格的な戦争となる。
世にいう南寇の勃発であった。
筑紫と気脈を通じた中国路の毛利に軍勢を派遣　備前で激突
四国を統一した長宗我部元親が筑紫王に四国を献納、自らは
その四国都督に任じられていたが、これも呼応して立ち上がった。
　　また国際的な世界帝国らしく北方からの調略も遂行され
密約を結んだ奥羽の伊達政宗が筑紫の支援のもとに信長の後押しする
佐竹最上を撃破、奥羽統一を果たした伊達が関東に迫る勢いを見せた。
・・信長・信忠二代に渡る織田幕府いや日本始まって以来の国難
とされる南寇は・・・

ってなんか話が取り留めなく長くなりそうなので・・ここまでにしよ。

----

織田信長(?-1561）
尾張の戦国大名。猛将であったが思慮に欠け、猪突猛進の嫌いがあった。
1560年、今川義元に対し無謀な奇襲をかけこれを討ち取る。
1561年、それに味を占めて美濃に攻め込み、斎藤龍興に奇襲を
かけるが、逆に斎藤龍興の計略にはまり、戦死した。
極めて粗野な人物であり、風体かまわず「うつけ者」と評された。

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織田信長（1534―1635？）
尾張の豪族の嫡男。
その奇行から大うつけと呼ばれるが、その実なかなかの才覚を持っていたといわれる。
隣国の斉藤道三などにはその才を認められ、娘を嫁に貰うも、将来を心配した家臣たちにより病院に連れて行かれ
出された向精神薬で本当に頭がおかしくなって、分裂病の症状を発症し強制入院されられることになる。
入院中に著した自伝では自身は天才的な軍略を発揮して大活躍をし、初めて鉄砲隊を組織的に運用したことになっていたり、
鉄板で覆われた巨大軍船で毛利家を破ったことになっていたり、ただの新興宗教の本願寺が強大な戦国大名化して立ちはだかったことになっていたり、
閤豊臣秀吉を見出したことになっていたり、徳川家康とは同盟を結んで全国を統一する直前で暗殺されたことになっているが
実際には江戸期まで恐ろしく長生きしている。
昭和時代には、このウソ自伝を元に書かれた小説など盛んに書かれてベストセラーになるなどし、
一般には実際の歴史と勘違いした話が広まっており、歴史研究者や教育者は頭を痛めている。

「世界はとんでもトロピカル」「鳴かぬならわしが鳴ぃちゃぉホトトギス」の名言を残す。

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織田信長(1534-1575)

別名上総介。尾張織田家当主。父は猛将信秀。
奇行多く、うつけと呼ばれる。しかし1560年、今川義元率いる大軍を桶狭間にて奇襲で破り
一躍全国に武名を轟かす。その後、後を継いだ今川氏真と抗争を重ね、1574年ごろほぼ三河全土を攻略する。
しかし1575年、武田信玄の息子勝頼率いる3万の軍勢に攻められる。
信長は「桶狭間よふたたび」と意気込み1万弱の兵で奇襲をかけたが、あっさり見破られ、討死。
結局ただのうつけであったことを示す結果となった。

なお、同じことばかり繰り返して失敗することを「桶狭間を決め込む」と言うのは彼が由来である。

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織田信長
尾張の戦国大名
幼少期はうつけとよばれたが長じては東海一の弓取りと呼ばれる
今川義元を破って天下に名をとどろかせる。
彼が天下を意識したのはいつかは定かではないが
当時はユーラシア大陸に巨大なモンゴル帝国が覇を唱えていた影響が大きいとされる。
遠く地中海や大西洋から日本の近海にまで及ぶ史上空前の超巨大世界帝国
が隣に位置しながら狭い島の日本が分裂してあい争っている状況から
天下統一を意識したといわれる。
三好を破って畿内にまで勢力を伸ばすが
　モンゴル帝国に朝貢し勘合貿易を行なう西国諸侯と衝突したことから
モンゴル帝国よりの来寇を受ける。

大友宗麟、毛利輝元、小早川隆景、吉川元春、島津義久以下四兄弟
長宗我部元親等の西国諸侯にモンゴル帝国旗下の多国籍軍が加わった混成軍
とはいえ総勢数十万の大軍勢を相手に
織田信長は激戦をすることとなる。
この長い戦いにおいて信長配下の智将羽柴秀吉とモンゴル帝国日本軍師に
抜擢された謀将黒田孝高の智謀と駆け引きは有名である。

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織田信長

茶人。三郎、無楽斎と号す。戦国武将織田信秀の子。
優秀な能力を持っていたが、その奇抜なセンスが親や家臣に全く理解
されず、信秀没後の後継争いに敗れ、諸国を放浪。
堺で今井宗久の弟子となり、卓抜したセンスで独創的な茶器を作り、
茶人として天下第一の名声を得るも、天下を再統一した将軍足利義輝と
次第に対立を深め、１５８２年京都本能寺茶室天下布文庵に於いて
自刃を命じられ、管領土岐（明智）光秀の監視の元、弟子の松平元康に
介錯され死亡した。室生駒氏との間に生まれた常真斎信雄が茶道織田流を
三河松平藩に於いて再興し、その流派は現代でも続いている。
尚、信長自刃の折下人で黄金細工に優れた猿の藤吉なるものも殉死し、
「下人といえども人情を知るもの哉、世が世なれば天下を取るべき人
だったやもしれぬ」と土岐（明智）光秀は嘆息したという
（光秀公記『織田無楽斎の事並びに下人忠義の事』）。

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【織田信長】

尾張半国の大名・織田信秀の実子。
嫡男であったが、信秀の葬儀で見せた奇行な振る舞いなどで家中の反感を買い、
それをいち早く察知した信長は、尾張を去り、遠く武田信玄の元へと流れた。
武田家では人が変わったようにめきめきと頭角をあらわし、
尾張の大うつけ、甲斐では楠正成と称され、その名声は遠く京まで轟いたという。
また正式に信玄の養子となり、その頃から武田信長を名乗った。
1570年、武田家は信長の活躍などもあり、ついに宿敵上杉家を倒した。
またその頃、今川義元は、織田、北畑を倒し西へと勢力を拡大していたが、
信玄の急成長に同盟を一方的に破棄、大勢力どおしのぶつかりあいとなったが、
密かに北条家へ武田を味方するよう画策していた信長の活躍もあり、
やがて今川は押されてゆき、やがて滅んだ。
そして満を持して義昭と共に上洛を決行した武田は、ついに名実ともに日本最大の大名となった。
将軍となった義昭はすぐに信玄に副将軍を与えたが、信玄の重臣となっていた信長が信玄に対し、
受けるべきではないと主張したため、やむなく辞退した。
その態度に不信感を募らせた義昭は、信玄打倒を発したが、すでに信玄の敵と言える者はおらず、
やがて義昭はそれを口実に処刑されてしまう。
そして信玄は将軍に任じられるが、その途端病死、
今川との戦いの際に義信はすでに死亡していたため、勝頼が跡を継ぐはずだった。
しかし信長の実力を疑わない家中の者や、信長の直臣によって、信長が担がれたために内乱が起きた。
やがて勝頼が敗れると、その一派は粛清され、武田家は信長が正式に跡を継ぐこととなった。
そしてとうとう日本を統一、ここに武田信長による天下は来た、と、

甲斐公記は伝えている。

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織田信長（1534－1557）
尾張織田信秀の次男（一説には三男）。幼名は吉法師。1548年美濃の斎藤道三の
娘と結婚する。これにより長年敵対していた織田と斎藤は同盟関係になった。
1551年父信秀が没したため家督を継ぐ。しかしうつけものと言われた信長では
織田家の将来が危ぶまれるということで、織田家重臣の林秀貞、柴田勝家らは
信長の弟信行を擁立し、織田家は信長派と信行派が対立した。
1556年、織田と同盟関係にあった斎藤道三が討ち死にし、これを好機と見た
信行派は1556年８月24日挙兵して信長派と戦うが、敗北する。世に言う稲生の
戦いである。その後信長は末盛城の信行を包囲するが、母土田御前の仲介により
信行を許した。
しかし1557年、信行派は再び謀反を企てる。そして尾張守護斯波氏の援軍を含めた
4000の兵で信長の籠もる清洲城を包囲した。この危機に信長は、先の合戦以来
信長に通じていた柴田勝家を利用して信行暗殺を企てるが、信行に事前に察知
され、柴田勝家は林秀貞に斬られ暗殺を失敗した。
これに激怒した信行はついに兵を動かし、清洲城を力攻めした。しかし信長派の
抵抗はすさまじく、落城には一ヶ月を要したという。しかし、同盟関係の斎藤道三が
滅んだ今となっては援軍の期待はできず、もはやこれまでと思った信長は城に火をかけ
好んでいた敦盛を舞いながら焼死したと伝わる。
信長の失敗は、稲生の戦いで破った信行派を家臣ともども許したことである。
この時、林秀貞らの首を取っていれば謀反は起こらなかったかもしれない。
ただ、父信秀が称した様に、わざとうつけを装い周辺豪族を油断させていたなど
能力はかなり高かったらしい。ただ戦乱の世、親兄弟といえども戦いあう時代、
情に負け、断固とした態度をとれなかったゆえの悲劇であった。

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織田信長（1534～157?）

近江安土の地に大層な御殿を建てて移り住み
天下の掌握も間近かと思えたが、
突如、御殿のある丘が大爆発を起こし、
御殿は跡形も無く吹き飛び、信長自身の遺体すら発見できず。

後の調査で丘の地中に空洞ができ
つるはしや焔硝などの遺留品も多数発見。
同様の事件が同日、岐阜でも起き長子信忠が死亡、
その他、織田一門の居城、徳川父子の居城2つなどでも
大小の出火が起こり、織田・徳川家を狙った
同時多発テロ的な様相を見せる。

安土・岐阜に関しては長篠で手痛い惨敗を喫した武田が
金堀衆を使って起こしたものと思われる。

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織田上総介信長

尾張半国の大名織田信秀の嫡男。父信秀の死後、一族との争いの末一時的にせ
よ尾張統一を達成する。しかし今川義元の上洛に際し、家臣等の籠城説を退け
無謀にもわずかな兵で田楽狭間に義元の本陣を強襲するという奇策にうってでる
だが、信長の動きは事前に察知されており、目指す義元の本陣を目前にして壮絶
な最期を遂げた。若い頃から奇矯なふるまい多く、おおうつけと影でささやかれ
ていた。その末路もまた死の恐怖のあまり錯乱した信長の自殺行為であったともいわれる。

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織田信長

信秀が急死し家督を継いだ、部下の離反などで尾張の四分の一以下の領土になるも数年で尾張を
その後は今川義元を破り美濃も１０年足らずで取ってしまった　僅か１５年で１００万石の大領土を持つまでになったのである
だが、その辺をブラブラ歩いていたところを殺される

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織田信長
尾張守護代・織田氏の家を相続し
尾張を支配、上洛途中の義元を奇襲で破って以降
昇竜の勢いで天下の覇権を窺うまでになる。
　天下統一後は石山本願寺跡に壮麗な大阪城を建立
城内には内裏を設けて帝を招聘するなど
従来の日本にはありえない強力な中央集権的絶対王政を樹立する。

　が晩年に行った唐入りは信長最大の汚点ともされており
イスパニアと同盟して（これは遠洋航海の技術と砲術を得るためだとされる）
大明征伐にのめりこむ。
結果的に明を征服はできなかったが
イスパニアはキリスト教布教の許可
日本は大陸沿岸部の永代租借と交易での優先権を獲得し
この遠征をきっかけに日本が海外進出を行ったことは
後の史家から賛否両論が出ておりいまだに結論が出ていない。

　日章旗の翻るもと日が沈むことなしと歌われた
七つの海に君臨する大日本帝国の礎を作った人物であるのは確かで
ヨーロッパでは海のジンギスカーンと恐れられ
世界史に与えた影響も大きい。    </description>
    <dc:date>2010-12-19T09:42:54+09:00</dc:date>
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    <item rdf:about="http://www37.atwiki.jp/sengokuita/pages/57.html">
    <title>サ～ソの人物</title>
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      #contents

＊斎藤龍興
斎藤龍興（1547-1577)
美濃の戦国大名。国主斎藤義龍の嫡男として生まれ、１３歳で家督を
相続した。非常に聡明な人物であったが、敵・織田信長の油断を誘うため
わざとバカのうわさを流したという。
１５６１年７月２１日、竹中重治らとともに初陣で織田信長を討ち取る。
竹中と謀議して編み出した計略は入念なもので、これまで龍興の能力を
疑っていた美濃三人衆も驚き、「斎藤の家名を揚げるはこの殿にて候」と
歓喜したと伝えられる。
その後、尾張織田氏を告いだ織田信包を滅ぼし、美濃・尾張を攻略して
徳川氏・本願寺と同盟。その実力を買った足利義昭を将軍に擁立して
上洛を果たし、三好・松永らを滅ぼして室町幕府副将軍職兼美濃・尾張
両国守護職に就任。一族の明智光秀を政所執事、斎藤利三を侍所所司に任じ
幕府の実験を掌握した。ただしその政治は中世的権威を背景にしたものであり
近世への過渡的なものであると評価され、中世形仁君の典型と評される。
1577年急死。その死は領民から甚だ悲しまれ「天下嘆き悲しむことかぎりなし」と山科言経は日記に記している。
腹心・政所執事代竹中重治が殉死。家督は子・康龍が継いだが幼少のため
政治の権は岳父徳川家康に移り、それを不満とする明智光秀が挙兵して
関が原で争ったが、徳川家康の勝利に帰し、徳川幕府が1580年に成立した。
幕府成立後、斎藤康龍は伊勢３３万石に移封されたが、幕末まで「制外の
家」とされ特権を維持した。
なお、キリスト教に布教許可を与えるなど龍興は宗教には非常に寛容であり、
ルイスフロイスも「非常に有能で思慮深い人物」と高く評価している。
死の直前に洗礼を受け、現代の日本のキリスト教隆盛の基盤を築いた人物として
加藤一二三枢機卿が最近も斎藤龍興墓に参拝したことは記憶に新しい。
室は徳川家康女（亀姫）。

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斎藤龍興(1548-1583) 
義龍の子。左近太夫。1568年、道三を討った後も美濃国主として君臨した 
父が病死した（毒殺ともいわれる）のを契機に家督を継ぐ。 
その頃の斎藤家の版図は飛騨、近江の一部まで及んでいたが 
時折しも隣国の織田家と刃を交えていた最中であり、 
家督を継いだ龍興は動揺収まらぬ家中の掌握に奔走する。 
家中の一本化に成功した龍興は父の強兵政策から一転、 
武田家を初めとする周辺各国と誼を通じて織田家との戦いに専念する。 
家督継承から５年の間、濃尾国境でたびたび衝突した両者の戦いは 
主戦場の名前を取って「赤坂合戦」と呼ばれ、川中島合戦と並ぶ戦国名勝負に数えられている。 
ちなみに両者の勝負は、武田信玄の上洛作戦を機に打ち止めとなっている。 
徳川家を一蹴した信玄の上洛は、進路上に立ち塞がる龍興にとっても滅亡の危機だったが、 
尾張を攻略したところで信玄が急死。龍興は九死に一生を得る。 

その後、龍興は武田家内部の混乱に乗じて尾張、木曽、三河の一部を奪取。 
巧みに同盟・離反を繰り返して中部地方の覇者としての地盤を築いていく。 
その狡猾さは祖父の道三を凌ぐとも言われ、あの上杉謙信をして 
「蝮の血を絶やさぬ限り京には上れぬ」と言わしめるほどであった。 
1582年には近江に進出していた三好義継の勢力を駆逐し、 
龍興が京に上って覇権を唱えるのは時間の問題かと思われた。 
ところが上洛軍を起こす寸前の1583年、元三好家臣で近江攻略の立役者となった 
松永久秀親子が突如謀叛して、龍興のいた大垣城を急襲。 
不意を突かれた龍興は脱出を試みるが失敗、久秀の息子・久通に討たれた。享年35。 
謀叛に成功した久秀だったが、急を聞いて駆けつけた稲葉一鉄にあっさり敗北、首級を取られた。 
龍興死後の斎藤家は嫡子・道興が９歳と幼かったこともあって徐々に勢力を削られ、 
７年後、西国を制覇した毛利輝元の軍門に降ることで辛うじてその命脈を保った。 

なお、龍興は竹中半兵衛を重用していたが、若年時は侮って馬鹿にしていたという。 
半兵衛の実力に気づいた家督継承前の龍興が出奔してしまった彼に対し、 
その時の非礼を詫びるため何度も隠棲所に足繁く通って赦しを得たエピソードは、 
孔明の「三顧の礼」ならぬ「三顧の詫び」として今も伝えられている。 


＊斎藤道三
山崎庄五郎（1494～1565） 

戦国時代の豪商。号は道三。 
僧侶から荏胡麻油の行商人に転身、様々なパフォーマンスで人気を博したという。 
当時主流であった荏胡麻油に限界を感じ、苦労の末に菜種から多くの油を作り出す技術を開発。 
その後、様々な分野に着手し、戦国時代の商業を著しく発展させた。 

また、私財を投げ打って戦乱で国を追われた人々に生活の場と教育を提供するお救い小屋を作ったのは、 
僧侶としての経験と商人として各地の荒廃を見てきた彼の人間性の発露と言える。 
ここでは貴賎を問わず様々な人々が学問を学び、その中でも美濃を追われた 
土岐頼芸の子は庄五郎もその才を愛し、我が子のように慈しんだという。 
これが後に織田信忠の右腕として活躍した名宰相土岐頼龍である。 

仮に庄五郎が野心家であったとするならば、稀代の梟雄となったのではないかという珍説も近年見受けられるが、 
乱世にあって生涯を真っ当な商売に捧げたあの世の庄五郎が聞いたらさぞ苦笑する事であろう。 

＊佐久間信盛
佐久間信盛　1527-1586

織田家家臣の筆頭格で通称退き佐久間

信長に「退却戦をさせれば日ノ本では右衛門の右に出るもの無し」と言わせしめた

浅井長政の離反の際は秀吉と共に殿に志願
そのあまりに鮮やかな手際のよさから両軍の大将の浅井長政、朝倉景建は即座に戦意喪失させ
秀吉は感激の涙を流したという

三方ヶ原の戦いで徳川家康が武田信玄に敗れた際、が尾張方面に退却して討ち死にしていく一方
自身はあえて三河方面へ向かい、その結果ほとんど無傷で済んだ。

賤ヶ岳の戦いでは甥の盛政と共に柴田方に属し中川清秀を討ち取り、はやる盛政を諌めながら即座に退却
これは岐阜に向かっていた秀吉が即座に軍を返してくることを理解していた為と思われ
秀吉は心底悔しがったという。
秀吉勝家が和解した1586に病死
巷では暗殺説が出回った

政治51戦87智81

＊佐竹義重
佐竹義重・義宣

常陸統一を急ぎ、南方33館の当主達を
太田城に呼び寄せて暗殺を目論むが
未然に計画を察知した彼らによって返り討ちにされ
佐竹家を滅亡させた。

＊佐々成政
佐々成政（？～？）
　織田信長の家臣。越中富山城主となる。家臣の制止をきかず厳寒のアルプス山中に入り消息を絶つ。
彼の目的が何であったのかは現在に至るまで謎である。

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佐々成政（1536～1588） 
尾張国春日井郡に生まれる。5歳のとき、父に連れられてはじめて小牧山に登る。 
織田家に仕えて柴田勝家の与力となり、伊吹山・白山などに登頂。 
富山城主を務める傍ら、1584年に日本初の厳冬期の立山・北アルプス縦走という偉業を達成した。 
上高地の美しさや、黒百合をはじめとする立山の美しい動植物を紹介したのも成政である。 
1588年、阿蘇山の根子岳登頂中に滑落死。享年53。 
死後佐々神社に祀られ、登山家と高山植物研究家の守り神として知られている。 

＊島津義弘
島津義弘 
1535-1600 

薩摩の戦国大名で、勇猛であったが思慮に欠ける人物であった。 
１６００年の関ヶ原の戦いで、西軍について関ヶ原に布陣したものの、 
個人的な感情から兵を動かすことを止めてしまい、形勢を傍観している 
うちに周囲の西軍が悉く壊滅し、孤立。 
慌てふためいて北国街道沿いに逃亡中、小早川秀秋に討ち取られた。 
彼の死によって島津家は改易され、薩摩には小早川秀秋が封ぜられた。 
作家逝宮正一郎は、この武将の哀れな生涯を題材として「逃げろ義弘」 
という小説を書いている。 

＊ジュリアおたあ
珠璃亜比丘尼（?～1637） 
慶長～寛永期に活躍した吉利支丹比丘尼（修道女）。 
朝鮮生まれ。文禄年間に戦災孤児となり、小西行長に養われた。 
彼とその家族から日本語と薬草学、キリストの教えを学び、 
慶長６年、京都の南蛮尼寺（女子修道院）に入った。 
その動機は海外出身である引け目だったとされる。 
のちに長崎で新しく発足した南蛮尼寺を任され、薬用酒の製造を始める。 
朝鮮語をはじめとする各種外国語、および医術に通じた才媛であり、 
外国船で病人が出ると励まし、手当てしたという。 
寛永１４年、疫病により帰天。 

＊仙石秀久
仙石秀久（1552～1608） 
羽柴家臣　美濃の豪族の子として生まれる。 

元は斉藤氏に仕えていたが、美濃が信長に征服された後は信長の家臣、羽柴秀吉に仕官する。 
その後、秀吉が織田家で頭角を現すに従い、羽柴家中の先陣として各地で奮戦した。 

九州の役後、阿波讃岐淡路内に27万石を与えられた。又、瀬戸内の海運を統括する奉行も任されていた。 
この頃、堺に近い土地を押さえたことが影響し、内政家としての芽が育まれたといわれている。 

88年に佐々成政の後釜として肥後一国52万石を与えられる。 
これは九州の監視と共に朝鮮出兵を見据えた仕置きであった。 

九州仕置きでは急な国替えであり、いまだに不安が残る土地であったため、前年度から続く一揆の早期鎮圧と内政の充実が求められた。 
秀久はこの問題に対し、この地に土着していた阿蘇氏や断絶した大友の残党を家臣として迎えることで対処した。朝鮮の役で活躍する仙石十二名臣の半数もこの時に迎えられている。 


秀吉や前田利家といった豊臣家の支柱が死去した後は、歴戦の雄として大阪城の北東にある高槻城に詰め政務をとった。 

～～主な戦い～～ 
秀久は猪突猛進を旨としており、そのせいで九州の役では島津の釣り野伏せにまんまと引っかかってしまった。仙石軍は壊乱を極めたが、追走する島津軍を側面に伏せていた長宗我部、十河両軍が逆に奇襲することで反転し、逆襲に転じた。 
しかし、大友氏が動かなかったこともあり、兵力差をひっくり返すには至らず、互いに相手の将を討つまでにはいたらなかった。（この戦いのことで後に大友氏は難癖をつけられて秀吉に領地を没収された。） 

この時、四国勢が事前に相手の戦術を調べ上げ、その上で仙石勢が囮を引き受けたのか、はたまた、 
軍議が割れ、仙石勢が無謀に突っ込んだのかは記録に残っていない。     </description>
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