倉野信次

背番号94 投手総合巡回コーチ

  • スレでの愛称は「クララ」
  • 三重県の生まれで、ブログやツイッターでそののんびりした口調が見られる。
  • 宇治山田高 - 青山学院大経由からダイエーに1997年ドラフト4巡目で入団(ちなみにこの年の1巡目は現鴎の井口)。2007年に引退し、球団職員を経験して2009年からコーチに。
  • 自身の現役時のMAX球速は144km/hほどであったが、コーチ就任以来なぜか150km/h台を出す投手を量産したり(一部では「魔改造」とも)と、少なくとも球速を伸ばすことに関して長けた能力を持っている様子。すごクララ。
  • 1997年にフレッシュオールスター(1997年当時の名称はジュニアオールスター)にてMVPを獲得。なお、クララ以降ホークス選手でMVPを獲得した選手はゼロである。やっぱりすごクララ。


選手時代


  • 常勝エースというポジションとは縁がなかったものの、谷間のスペシャリストと呼ばれ、特に2004年は先発・中継ぎとフル回転の活躍をした。プレーオフにも先発登板し、貴重な一勝をあげている。
  • 倉野と言えば、忘れてはならないのが勝ち投手の権利が得られる5回2アウトの場面で足をつった日の試合。まさかのマウンドで横になりマッサージを受けるという事態が起き、倉野が立ち上がり試合再開となった時は「クララが立ったー!!!」と住民大騒ぎだったとのこと。無事アウト1つをとり勝ち投手に。後にクララ本人は、当時を振り返って「だって、5回2死までいってあと1人で勝ち投手の権利やで!
誰がのこのこと代わるかいっ!って感じやね(笑)」とブログに記している。
  • 2007年感謝の集いでは、引退セレモニーで「プレーオフで登板した時に、(無失点で)投手交代の場面でお客さんが『ありがとう』と言ってくれたのが嬉しかった」と語っている。


コーチ時代


  • 2010年オフには、ばっさん&岩嵜の引率役で、初めてプエルトリコ・ウインターリーグに同行。公式から「カリブ海だより」(下記参照)として、日々の成長記録をのんびりした語り口で記す。ただ、向こうで髪がボンバー状態になり、太ったせいで、帰国した時に奥さん・娘さんに驚かれたとのこと。ウインターリーグ先で、元チームメイトのペドロ・バルデスと再会したらしい。
    • 向こうの知り合いが増えたこともあり、2013年WBCでもプエルトリコとの対決を望んでいた。
  • 2011年オフは、川原ギータムヨン(+途中参加の吉川)、2012年オフは二保カヤマン中原恵の引率役としてウインターリーグへ行くなど、すっかり武者修行担当に。2013年オフも岩嵜山田と共にドミニカへ旅立つこととなった。2014年オフには再び、笠原塚田坂田釜元大道というメンバーの引率役としてプエルトリコに旅立った。今のところウインターリーグ行きはこれが最後。
  • 2014年11月8日に3軍投手コーチから2軍投手コーチに担当が替わったことが報じられる。
  • 2016年シーズンからは魔改造っぷりを認められてか、ついに投手総合巡回コーチに。今後は一軍~三軍までの投手が続々と魔改造される…かもしれない。


エピソード


  • 大場の「オイサー!」誕生の鍵を握るお人。曰く、「現役の時に一番、後悔していることがある。お立ち台で面白いことを言えなかったことなんだよ」というクララの言葉を受け止めた末のパフォーマンスだったらしい。なお、クララ本人はそれに対して「もっと他にいい事いっぱい言っとるやろー」と呟いていた。
  • 2010年に行ったWLのプエルトリコでは、名簿がまさかの「Kurano-san」。紹介を受けた時も当然「サン・クラーノぉ!」である。そういう運命の星の下にいるのか、2013年時には今度はドミニカで「Kuraho-」と名簿に誤記された。



カリブ海だより

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2011 第1話 第2話 第3話 第4話 第5話 第6話 最終話 成績
2012 第1章 第2章 第3章 第4章 第5章 第6章 第7章 第8章 最終章

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最終更新:2016年08月19日 07:36