偉人を追加してみよう 日本人とその関係者
宗教者
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Himiko 卑弥呼(175?-248?)
邪馬台国の女王、とされる。「鬼道」を以て国を治めたとも、巫女として神事を司ったともされているが、詳細は知られていない。
「倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という」『魏志倭人伝』
-Jianzhen 鑑真(688-763)
南山律宗の継承者にして日本律宗の創設者。五度の渡航失敗を乗り越え、聖武上皇を始めとする日本人に初の授戒をもたらす。ちなみに彼を象った彫像は日本最古の肖像彫刻として知られている。
「是は法事のためなり、何ぞ身命を惜しまん。諸人去かずんば、我すなわち去かんのみ」
-Saicho 最澄(767-827)
天台宗の開祖。伝教大師と諡される。「一切衆生悉有仏性」、つまりありとあらゆるものが仏性を持つと主張した。空海同様、書に長けていた事でも知られる。
「径寸十枚是れ国宝に非ず、一隅を照らす、此れ則ち国宝なりと」『山家学生式』
-Abe no Seimei 安部晴明(921?-1005)
天文、呪術、占い等に通じた陰陽道の大家。花山天皇の命によって那智山の天狗を封じ、皇家や公家の信頼を勝ち取ったという。確実な著作として 『占事略决』がある。
「常に月将を以て占時に加え、日辰陰陽を視て以て四課を立つ」『占事略决』
-Honen 法然(1133-1212)
浄土宗の開祖。『選択本願念仏集』を著し、一般の凡夫にとっては専修念仏こそが真の仏行となると説いた。これは鎌倉新仏教が庶民を中心に広がった事と無関係ではない。
「弥陀の本願は専ら罪人の為なれば、罪人は罪人ながら名号を唱て往生す。是本願の不思議也」『選択本願念仏集』
-Shinran 親鸞(1173-1263)
浄土真宗の開祖。口唱念仏さえ否定する絶対他力に本願を見出した。彼の教えもまた庶民に広がり、後の本願寺の隆盛に繋がっていく。著作として『教行信証』、言行録として『歎異抄』など。
「これすなはち権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲、まさしく逆謗闡提を恵まんと欲す」『教行信証』総序
-Eisai 栄西(1141-1215)
日本臨済宗の開祖。鎌倉幕府の庇護を受け禅宗の普及に勤める。喫茶の習慣を日本に持ち込んだ人物でもある。
「大いなる心や。天の高さは極むべからず。而るに心は天の上に出ずる」『興禅護国論』
-Dougen 道元(1200-1253)
日本曹洞宗の開祖。只管打坐、即ち唯だ座禅に打ち込む事こそが最高の修行であるとした。浄土教を否定した事でも知られる。主著に『正法眼蔵』。
「眼横鼻直なることを認得して人に瞞ぜられず、乃ち空手にして郷に還る、所以に一毫の仏法無し」『永平広録』巻一
-Nichiren 日蓮(1222-1282)
日蓮宗の開祖。『法華経』を根本聖典とし、「南無妙法蓮華経」を唱える事で仏性を開けると説いた。他宗派を徹底的に攻撃した事でも知られる。
「上よりの迫害を受けるによつて真の信仰が顕はれる」『書簡集』
-Ikkyu 一休宗純(1394-1481)
破戒と風狂の禅僧。東山文化の代表者であり、アニメ「一休さん」のモチーフとなったことでも有名。『狂雲集』『骸骨』など。
「世の中は喰うて糞して寝て起きて、さてその後は死ぬるばかりぞ」
-Suzuki Daisetsu 鈴木大拙(1870-1976)
禅僧にして仏教学者。仏教、特に禅の思想を英訳し世界に紹介した。海外において禅が「Zen」と呼ばれているのは彼の働きに依るものが大きい。著作に『日本的霊性』『禅とは何か』『禅と日本文化』など。
「東洋の心は無心になる事。どこまでいっても無限で天地の分かれがない」「断片」より
計11人
芸能者
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Murasaki Shikibu 紫式部(978-1016)
中古三十六歌仙に数えられる歌人。世界最古の長編小説『源氏物語』の作者として有名。(*1)
「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな」『小倉百人一首』五十七番
-Sesshu 雪舟(1420-1506)
室町時代に活躍した水墨画家で、「画聖」とも呼ばれる。明で学んだ水墨画を独自のものとし、日本の水墨画を一変させるに至る。代表作として『天橋立図』『秋冬山水図』等。
「…ところが、鼠はいっこうに逃げようとしません。和尚さんがよくよく目を凝らすと、その鼠は小僧が涙で描いたものだと分かりました。感心した和尚さんは、以後、小僧が絵を描くことをとがめなくなったそうです」
-Matsuo Basho 松尾芭蕉(1644-1694)
「俳聖」とも呼ばれる俳諧師。弟子の河合曾良と共に日本各国を漫遊し、『おくのほそ道』を遺す。今日に知られる「俳句」を確立した人物である。
「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」『おくのほそ道』序文
-Hokusai 葛飾北斎(1760-1849)
江戸時代を代表する画家であり、浮世絵師の代表格。森羅万象を跨いで三万点を超える作品を制作。代表作として『富嶽三十六景』『北斎漫画』等。
「天我をして五年の命を保たしめば 真正の画工となるを得べし」遺言とされる言
-Miyazawa Kenji 宮沢賢治(1896-1933)
詩人、童話作家。故郷岩手の自然と共に有る中で独特な作品群を作り上げた。『風の又三郎』『銀河鉄道物語』『注文の多い料理店』等著作多数。
「僕もうあんな大きな闇の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしにいく。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう」『銀河鉄道の夜』 -
Mishima Yukio 三島由紀夫(1925-1970)
小説家、戯作家。『金閣寺』『仮面の告白』『豊饒の海』等、唯美的な作風を特徴とする。その壮烈な最期は世に強い衝撃を与えた。
「年をとることは滑稽だね、許せない」 小島千加子への言葉 -
Tezuka Osamu 手塚治虫(1929-1989)
「漫画の神様」であり、日本初のアニメ制作者。結局その生涯においては尽くしきれなかった無数のアイデアで、『ジャングル大帝』『鉄腕アトム』『ブラックジャック』『火の鳥』等、多数の名作を描いた。
「えーい、紙をまっくろけにぬりつぶしちゃえ。なんとかなるだろう。物語はここから始まるのだ」 -
Kurosawa Akira 黒澤明(1910-1998)
映画監督。妥協を許さぬ徹底的な演出にこだわり、『七人の侍』『生きる』『椿三十郎』等多数の名作を撮影。国内外の映画人に多大な影響を与えた。
「些細なことだといって、ひとつ妥協したら、将棋倒しにすべてがこわれてしまう」 計8人
科学者
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Seki Takakazu 関孝和(1642-1708)
江戸時代の和算家。和算を日本独自の科学に昇華させた最大の功労者である。いくつかの分野においては当時の西洋数学を先取りしていた事でも知られる。
「若い頃は割算の九九である八算も知らなかった。家来たちが『塵劫記』を読んでいると、これを少しの間貸してほしいと借りて、間もなく全部読み終えてしまい書いてあることを理解してしまった」
-Hanaoka Seishu 華岡青洲(1760-1835)
江戸時代の外科医。モートンに40年ほど先駆け、1804年に乳癌の切除手術を行い、世界で始めて麻酔手術の実例を残した。なお彼の考案した処方には今も使われているものもある。
「内外合一 活物窮理」
計2人
技術者
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Masamune 正宗(生没年不詳。14C頃)
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した、日本を代表する刀工。日本刀が切れ味と美しさを両立した武具となったのは彼の功績によるところが大きい。
「徒に殺気を帯び凄気を浮かべて剣の美を失うものは、悪剣妖刀と言って名刀とは言わぬものだ」後世の講談より
-Yagi Hidetsugu 八木秀次(1886-1976)
工学研究者、教育者、政治家として活躍。宇田新太郎と共に八木・宇田アンテナを開発した。ただし、戦前の日本軍はこの発明の意義を全く理解出来ていなかったのだが。(*2)
「必死でなくて必中であると云う兵器を生み出したいことは、我々予ての念願でありましたが 是が戦場に於て十分に活躍致しまする前に、戦局は必死必中のあの神風特攻隊の出動を俟たなければならなくなったことは、技術当局と致しまして洵に遺憾に堪へない、慚愧に堪へない」衆議院予算委員会にて
「実験は常に真っ当な結果をもたらしているものだ。こんなはずはないと考えるのは、人間の方が間違っているのだ」
-Shima Hideo 島秀雄(1901-1998) ※ 英語Wikiに記述が無いのでブリタニカより引用
鉄道技術者。戦前にはD51形蒸気機関車の開発に関与し、戦後は新幹線計画の中核として活躍。宇宙開発事業団の初代理事長も務めている。
「合理的メカニズムは、美しくなければならない。美しい機械は、性能もすばらしい」
「新幹線のためだけに開発された技術は何一つ無い」
「新幹線は事故を起こしません。そのように作りましたから」
-Honda Soichiro 本田宗一郎(1909-1991)
藤沢武夫と共に本田技研工業を世界的な大企業に育てた技術者。特に世界を「ホンダ」で塗りつぶした名車「スーパーカブ」の開発で有名。
「来年も最高のエンジンを作ってやるからな」初めてワールド・チャンピオンを獲得したアイルトン・セナへの言葉
-Ibuka Masaru 井深大(1908-1997)
盛田昭夫らと共にソニーを創設した技術者、経営者。トランジスタラジオやトリニトロンテレビ、ウォークマンといった革新的な製品を世に送り出した。
「常識と非常識がぶつかり合った時に、イノベーションが生まれることがあるんです」
「温故知新、という言葉があるが、井深さんは違った。未来を考え、見ることで、現在を、明日を知るひとだった」江崎玲於奈による弔辞
-Takayanagi Kenjiro 高柳健次郎(1899-1990)
日本ビクターの元技術最高顧問。電子式ブラウン管テレビ受像機、いわゆる「テレビ」を世界で始めて実用化した。
「一人の天才によって科学技術が進歩する時代は終わった」
計6人
商業関係者
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Ishida Mitsunari 石田三成(1560-1600)
豊臣五奉行が一人。秀吉の覇業を兵站、輜重の面において大いに支えた。太閤検地を立案、施行し、更にその過程で度量衡を統一した事でも名高い。なお武将としても勇猛で鳴らしていた。(*3)
「奉公人は主君より取る物を遣い合わせて残すべからず。残すは盗なり。遣い過して借銭するは愚人なり」
-Yamada Nagamasa 山田長政(1590-1630)
傭兵、貿易商。始めアユタヤの日本人傭兵として頭角を現し、その後日本町の総督を任される。全盛期においてはアユタヤの貿易を独占するに至ったという。
「大久保忠佐の駕籠担ぎであった山田長政はシャムに渡り、彼の地における仕置を致しております」『異国日記』より
-Iwasaki Yataro 岩崎弥太郎(1835-1885)
実業家。明治の動乱期に政商として暗躍、一代で三菱財閥を創立するに至る。加藤高明及び幣原喜重郎の岳父でもある。
「これからの日本は海運と貿易を興すことが第一です」
-Matsushita Konosuke 松下幸之助(1894-1989)
松下電器(現パナソニック)の創設者。「水道哲学」に則り裸一貫から世界規模の企業を作り上げた。政治家の育成に心血を注いだ事でも知られる。
「人に喜んで拍手して売ってもらうような品物を、また喜んで販売してもらうような販売制度の上に乗せまして、そして皆様に活動の喜びとでも申しますか、そういうものを多少なりとも味わっていただくということに致したい」熱海会談にて
-Toyoda Eiji 豊田英二(1913-)
トヨタ自動車五代目社長。大野耐一と共に「トヨタ生産方式」を確立し、トヨタを世界一の自動車企業に育て上げた。
「何かを決めるまでに時間がかかる。でも、決断したらとことんやる」 後継者である豊田章一郎、トヨタの社風を評して
-Yamauchi Hiroshi 山内溥(1921-)
任天堂三代目社長。一時の迷走を経た後に業種を玩具販売に絞り、任天堂を世界に類を見ない超優良企業に成長させた。愛称は「組長」。
「任天堂が市場を創り出すんですよ。調査する必要などどこにもないでしょう」
計6人
軍事関係者
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Hojo Tokimune 北条時宗(1251-1284)
鎌倉幕府第八代執権。若年にも関わらず元の侵攻を二度も退けた。特に弘安の役に関しては元寇防塁を築くなど磐石な防備を固めた事で知られる。
「十万の衆、還り得たる者は三人のみ」『元史』
「忽敦曰、『兵法小敵之堅、大敵之擒、策疲乏之兵、敵日滋之衆、非完計也、不若回軍』」元将ヒンドゥ(忽敦)、撤退に際しての言
-Oda Nobunaga 織田信長(1534-1582)
戦国大名。第六天魔王を自称。徹底した合理性と卓越した戦略眼を以て「天下布武」を推し進め、多くの敵を滅ぼす。が、天下統一を目前に横死。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり、ひとたび生を得て、滅せぬ者の有るべきか」『敦盛』、桶狭間にて
-Toyotomi Hideyoshi 豊臣秀吉(1537-1598)
織田家配下の戦国武将、後に関白。元は百姓であったがその機転を以て頭角を現し、信長の死後はその後継者となり、遂には天下統一を成し遂げた「戦国一の出世頭」である。
「戦は六、七分の勝ちを十分とする」
-Shimazu Yoshihiro 島津義弘(1535-1619)
戦国武将、大名。島津家第十六代当主義久の弟であり、戦国時代屈指の猛将。その豪勇で何度も島津家の危機を救い、朝鮮出兵の際は「鬼石曼子」と呼ばれる程の活躍を見せた。
「その猛勢の中に相かけよ」関ケ原にて、後に「島津の退き口」と呼ばれた敵中突破の下命
-Honda Tadakatsu 本多忠勝(1548-1610)
戦国武将。家康の旗揚げから付き随った忠臣。黒備えの軍を引き連れ五十七回もの合戦に臨み、かすり傷一つ負わなかったという。
「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」武田家近習、小杉左近の落歌
-Oyama Iwao 大山巌(1842-1916)
大日本帝国陸軍大将。薩英戦争から日露戦争に至る期間において活躍し、特に日露戦争では陸軍の総司令官を務めた。軍の近代化にも功績がある。
「児玉さん、今日もどこかでゆっさがごわすか」沙河にて、ロシア軍来襲に際し
-Togo Heihachiro 東郷平八郎(1848-1934)
大日本帝国海軍大将。日本海海戦で完璧な統率と斬新な戦術を以て海戦史上稀に見る一方的勝利を収め、日露戦争の趨勢を決めた。
「皇国の興廃この一戦に在り。各員一層奮励努力せよ」日本海海戦直前、秋山真之によって起草された訓示
-Kodama Gentaro 児玉源太郞(1852-1906)
大日本帝国陸軍大将。圧倒的な戦力、国力を持つロシアを相手に一歩も退かない戦略を展開し、日露戦争を勝利に導く。「ネットワーク中心の戦い」の先駆者とも呼ばれる。
「海軍はたとえ泳いででもロシアの軍艦にかじりつくだろう。陸軍としてはそれを期待しているだけでよろしい」
-Imamura Hitoshi 今村均(1886-1968)
大日本帝国陸軍大将。攻略したインドネシアでは後の独立に繋がる軍政を敷き、その後着任したラバウルも孤立の中終戦まで失陥させなかった。
「皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く無辜の住民を愛護すべし」『戦陣訓』其の三の七
計9人
諜報関係者
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Akashi Motojiro 明石元二郎(1864-1919)
大日本帝国陸軍大将、台湾総督。情報収集と平行して東欧の反露勢力を喚起し、ロシアの継戦意思を削いだと言われる。(*4)
「日露戦役戦勝の一原因もまた明石大佐ならざるか」『機密日露戦史』
-Shinjo Kenkichi 新庄健吉(1897-1941) ※ 英語版記事無し。どころか英文で彼について記したページも発見できず…
大日本帝国主計大佐、情報将校。非合法活動無しで公開されている情報のみからアメリカの工業力を調査し、↓のような分析をはじき出した。。
「日米両国の工業力の比率は、重工業において一対二〇。化学工業において一対三である。戦争がどのように進展するとしても、この差を縮めることが不可能とすれば、少なくとも、この比率は常時維持されなければならない」
-Kawashima Yoshiko 川島芳子(1907-1948)
清朝の皇女だが、日本で養育を受ける。田中隆吉と交際する中で諜報活動を行い、第一次上海事変を勃発させたと言われている。男装の麗人として活躍した事でも知られる。(*5)
「ボクはいま後世に残る国家的な大事業を計画しているんだ。川島芳子が蒋介石と手を握る。笹川良一と新しい政治団体を作った。松岡洋右や頭山満も協力してくれる。キミも入会したまえ」(*6)
計3人
合計45人
追加したい方がいればここにどうぞ
宗教者
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Rennyo 蓮如(1415-1499)
本願寺第八代教主。親鸞の教えを平易な言葉で説き広める事で、衰退の極みにあった本願寺を立て直した。後世における本願寺教団の興隆は彼無くして有り得なかっただろう。
「聖教をよくおぼえたりとも、他力の安心をしかと決定なくはいたづらごとなり。弥陀をたのむところにて往生決定と信じて、ふたごころなく臨終までとほり候はば往生すべきなり」『蓮如上人御一代聞書』
-Petro Kasui Kibe ペトロ・カスイ・岐部(1587-1639)
江戸時代初期の切支丹司祭、巡礼者、殉教者。日本人初のエルサレム巡礼者であり、更にローマ、リスボンにおいて司祭に叙されイエズス会員となっている。帰国後、最期まで転ばずに殉教。
「キベキベイトロ召捕参候 評定場江四度出申候ヘトモ御穿鑿キワマリ不申」『査妖余録』
-Uchimura Kanzo 内村鑑三(1861-1930)
キリスト教思想家、文学者。渡米した際にクエーカーの影響を受け、いわゆる無教会主義の提唱者、実践者となった。『代表的日本人』の著者でもある。
「真の愛は悪に対する憎悪を十分にふくむものである。仮面的の愛または浅き愛は、悪を憎むことを知らない。けれども深き真なる愛は、かくあることはできないのである」『ロマ書の研究』
芸能者
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Kanami 観阿弥(1333-1384)
息子世阿弥と共に能を大成した猿楽師。彼と世阿弥が足利義満の前で猿楽能を演じた事が後の観世一座の始まりとなる。『自然居士』『卒塔婆小町』『通小町』の原作者とされる。
「いやいや説法は百日千日聞こしめされても善悪の二つをわきまえんため、今の女は善人、商人は悪人、善悪の二道ここに極まりて候は如何に」『自然居士』
-Zeami 世阿弥(1363-1443)
同じく猿楽師。猿楽に「幽玄」を取り入れ現在における能の基礎を築いた人物であり、また『風姿花伝』等を記して父と自身の芸能論を体系化した事でも知られる。
「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」『風姿花伝』
-Ikenobo Senou 池坊専応(1482-1543)
戦国時代の僧、立花師。池坊専慶の開いた立花を更に突き詰め華に悟りを見出すまでに至った華道の大成者。彼の『専応口伝』は今も華道の古典として親しまれている。
「抑、是をもてあそぶ人、草木をみて心をのべ、春秋のあはれをおもひ、一旦の興をもよほすのみにあらず、飛花落葉のかぜの前にかかるさとりの種をうる事も侍らん」『大巻并座敷荘厳之図』
-Sen no Rikyu 千利休(1522-1591)
戦国時代から安土桃山時代にかけての茶人。極限まで無駄を省いた所にわびとさびを見出す「わび茶」の大成者である。現地では雑器扱いであった高麗茶碗を一級の茶器にした事でも有名(*7)。
「一期一会」
-Izumo no Okuni 出雲阿国(1572?-?)
歌舞伎の創始者とされる、安土桃山時代の女流芸能者。詳細は知れないが一世を風靡した存在だった事は確かだったようで、北野天満宮、京都御所、江戸城等で「かぶき踊り」を舞ったという。
「慶長八年四月条此頃、かふき躍と云う事有り、是は出雲神子女 名は国、但し好女に非ず 仕り出で、京都へ上る。縦ば異風なる男のまねをして、刀・脇指・衣装以下殊相異、彼男茶屋の女と戯る体有難したり。京中の上下賞翫する事斜めならず。伏見城へも参上し度々躍る。其後これを学ぶかふきの座いくらも有て諸国へ下る」『当代記』
-Okakura Kakuzo 岡倉天心(1863-1913)
美術家、美術史家、美術教育者。本名は岡倉覚三。東京美術学校や日本美術院の設立に深く関わり、日本の美術界に多大な貢献を残した。『茶の本』で世界に茶の湯を紹介した人物でもある。
「茶の湯は即興劇である。そこには無始と無終ばかりが流れている」『茶の本』
-Kawabata Yasunari 川端康成(1899-1972)
文学者。新感覚派の代表者であり、『伊豆の踊子』『雪国』等の作品で知られる。タゴールに次ぐアジアで二人目の、そして日本発のノーベル文学賞受賞者でもある。
「一輪の花は百輪の花よりもはなやかさを思わせるのです」
-Kitaooji Rosanjin 北大路 魯山人(1883-1959)
篆刻家、画家、陶芸家、書道家、漆芸家、料理家、美食家など様々な顔を持っていた。
美食家として名を馳せた魯山人は、フランス料理の外見偏重傾向に対しても厳しく、渡仏の際に訪れた著名な鴨料理店トゥール・ダルジャンで、「ソースが合わない」と味そのものを評価し、自ら持参したわさび醤油で食べたことさえあった(*8)。
「三度炊く 飯さえ硬し軟らかし 思うままにはならぬ世の中」
-Teshigahara Sofu 勅使河原蒼風(1900-1979)
華道草月流の創始者。それまでの華道を徹底的に破壊し、流木、鍋、更には戦火で焼け出された瓦礫でさえ活けてみせた「花のピカソ」である。
「若しこの世の中に、植物が一つもなかったとしたらどうだろう。どっちを見ても花はない。そういうとき私たちは、一体何を活けるだろう。私は、そこに石があったら石、若しくは土があったら、土を活けるだろう」
-Shirley Yamaguchi 李香蘭(1920-)
戦前より中国、日本ともに人気のあった国際的歌手、女優。日本を賞賛する映画に多数出演したことで、戦後漢奸(中国人でありながら日本の情報操作に協力=スパイ)として中華民国の裁判にかけられるが、純粋な日本人(山口淑子)であることが証明され無罪となる。
「過去を見つめることから逃げてはいけないんですね。どんなに苦しくても、そこからこそ未来へ学ぶものがあるのだと思います」
科学者、学者
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Wani 王仁(生没年不詳。応神天皇の治世下である3-4C頃?)
百済から渡来したとされる賢者。『古事記』や『日本書紀』、『続日本紀』において日本に漢字と儒教を伝えた人物だと伝承される。一説には楽浪王氏の末裔とも。
「なにはづに さくやこの花 ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな」 『古今和歌集』より、彼の作とされる仮名序
-Kitasato_Shibasaburo 北里柴三郎(1853-1931)
医学者、細菌学者。血清療法の発明やペスト菌の発見等の業績を上げるだけでなく、慶応義塾大学医学部や日本医師会を創設する等日本における医術の発展に多大な功績を残した。
「伝染病のことは西洋諸国、医学の開けるにかかわらず、その研究今なお幼稚なり」
-Minakata Kumagusu 南方熊楠 (1867-1941)
粘菌の研究で有名な生物学者で博物学者で民俗学者である。通称「歩く百科事典」。
70種の菌類と新しい属の粘菌を発見。柳田國男とともに比較人類学を研究。18種の言語を操ることができ、鎮守の森を守ることで生物の多様性を保護しようとしたエコロジストの先駆者。
英国の科学雑誌「ネイチャー」に論文が51回載り、1929年には昭和天皇に菌類の講義を行ったことでも知られる。
「世界に不要のものなし」(南方熊楠)
-Yukawa Hideki 湯川秀樹(1907-1981)
理論物理学者。論文「素粒子の相互作用について」で中間子の存在を予言、後に実証され日本人初のノーベル賞を受賞する。また、第二次世界大戦中は日本海軍の下で原子爆弾の研究に協力しているが、戦後は核廃絶運動に積極的に携わっている。
「未知の世界を探求する人々は地図を持たない旅行者である」
-Ito Kiyoshi 伊藤清(1915-2008)
数学者 確率微分方程式の生みの親。「伊藤のレンマ」「伊藤積分」「伊藤の公式」など、ランダムな運動の定式化により科学の幅広い分野に影響を与えた。
「確率解析における私の仕事は、純粋に数学的な研究でしたが、それが評価されての今回の受賞につきましては、ともに数学の研究に勤しんできた仲間たちとは勿論、私の想像を超えた領域にまで確率解析の成果を応用された方々とも、その名誉と喜びを分かち合いたいと思っております」
技術者
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Kuninaka no Kimimaro 国中公麻呂(?-774)
百済系渡来人の孫とされる仏師。いわゆる「奈良の大仏」と大仏殿建立の指揮を取った人物である。一説には鑑真の像を彫ったのも彼だと言われる。
「天平年中聖武皇帝弘願を発して盧舎那銅像を造る、其長五丈、当時鋳工敢て手を加ふる者なし、公麻呂頗る巧恩あリ、竟に其功を成し、労を以て遂に四位を授けられ、官は造東大寺次官兼但馬負外介に至る」『続日本紀』
-Hiraga Gennai 平賀源内 (1728-1780)
本草学(薬草の知識)者、蘭学者、医者、作家、画家である。 鉱山経営の指導、浮世絵の多色刷りの開発、物産会の興行、洋画の指導、など幅広く活躍。
竹とんぼの発明者ともされ、これがライト兄弟にも影響を与えていて、 「土曜丑の日」や歯磨き粉のCMソングも扱った江戸のダビンチ。
「京都三条糸屋の娘 姉は十八妹は十五 諸国大名弓矢で殺す 糸屋の娘は目で殺す 」
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Toyoda Sakichi 豊田佐吉(1867-1930)
実業家、発明家。当時においては抜群の性能と恐るべき安価さを誇った豊田式木製人力織機を発明、後にトヨタグループの母体となる豊田自動織機製作所を大いに発展させた。
「そこの障子戸を開けてみよ、外は広いぞ」
-Naito Tachu 内藤多仲(1886-1970)
建築構造技術者、学者。皮肉にも関東大震災によってその正しさが立証された耐震構造の生みの親である。戦後は東京タワーや二代目通天閣などの日本を代表するランドマークを手がけ、「塔博士」とも呼ばれた。
「積み重ね 積み重ねてもまた 積み重ね」
商業関係者
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Sakamoto Ryoma 坂本龍馬(1836-1867)
幕末の武士で革命家・実業家。薩長同盟及び大政奉還に大きな役割を果たす一方、日本初の株式会社「亀山社中(のち海援隊)」を設立、欧米からの武器輸入代行など現代の商社に近い活動をした。
「世に生を得るは事を成すにあり」
-Shibusawa Eiichi 渋沢栄一(1840-1931)
幕末期における幕臣であり、大蔵官僚、実業家。第一国立銀行、日本郵船、東京証券取引所など500を超える企業の設立に関わるが、本人は財閥を作らずその生涯において公共への奉仕に終始した。
「富を成す根源は何かといえば、仁義道徳、正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ」
-Sasakawa Ryoichi 笹川良一(1899-1995)
社会運動家、実業家。競艇の創始に大きく関わった実業家としても功を残している。だがそれ以上に、戦犯とその遺族の支援や、私財の殆どを費やす程の社会奉仕等で名高い「大衆右翼」であった。
「世界は一家、人類は皆兄弟」墓標より
諜報関係者
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Nakatomi no Kamatari 中臣鎌足(614-669)
飛鳥時代の政治家であり、藤原不比等の父。日本史上最も有名な暗殺事件である「乙巳の変」の計画者であり、実行者。その功績を以て藤原性を賜り、後の名家藤原氏の祖となった。
「生きては軍国に務無し」
-Doihara Kenji 土肥原賢二(1883-1948)
大日本帝国陸軍大将。謀略部門の元締めとして満州国建国及び華北分離工作で暗躍するも、戦後A級戦犯とみなされ処刑される。しかしその人物はいわゆる「謀略家」とは程遠いものであったらしい。
「謀略はテクニックでは無く、それはすべて『誠』の心で事にあたるべきである。小手先で相手を牛耳り、圧迫するのでは無く徹頭徹尾『誠』をもって赤心を人の腹中に置けば、結局は人と人とのつながりで、我が意は相手の心に響き、通じるものである」
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name 名前(生没年)
寸評。
「逸話、名言、後世の評価、史書の記述等々」