feat.Advent(passion)#2



吹き荒れる吹雪が陽を隠す。薄闇が蟠る雪原の中、雪に足を取られて声聞は何度も何度も転んだ。それでもまた立ち上がって走り出す。もうどこを走っているのかも分からない。ただひたすらに逃げなければいけないことだけは分かっていた。
 一寸先でも定かではないこの天気の中ならともかく、雪が晴れたら声聞が生き延びられる可能性はゼロだ。だからそれまでにあの二人から距離を稼いでおかなければならない。頼みの綱であった奇襲が失敗した今、声聞にできることはほとんど残っていない。
 ――死にたくない。
 獣と人、二種の祖先から受け継いだ中でもっとも単純な本能だけに突き動かされて声聞は走った。
 しかしそれも、眼前に巨大な黒い影が現れたことで中断される。
「うぁっ!」
 情けない悲鳴をあげ、頭を抱えて声聞は横に飛ぶ。その後に来たのは硬い地面の衝撃ではなく浮遊感だった。しまったと思う間もなく体は落下を始め、最初の予想を遥かに超える衝撃がやってくる。崖から落ちた、と認識したところで声聞の意識は動きを止めた。


 アオイはそろそろ限界に達しかけていた。獣人、それもたった一体を相手にここまでてこずらされるとは。いっそのこと撃ち殺してやりたい気分だったが、そんなことをしたらどんな処分が下るか知れたものではない。
 八つ当たりする相手もおらず、煙草も吸えず。
 苛立たしさを振り払うようにアオイはバイザーの雪を拭い前を向いた。これが最後だと思えば我慢できる。こんな機会を与えてくれた神には感謝しなくてはならないかもしれない。それから、あのクソッタレな上司にも。
「……ああ、そうだ」
 アイツを捕まえて雪上車まで運んだら、手か足を貰おう。尻尾でもいい。ちょっとぐらい痛めつけたって構いはしない。なにせ五本もあるのだ、一本や二本「姉」にくれたっていいだろう。我ながら実にいいことを思いついた、とアオイは小さく鼻歌を歌いながら探索を再開した。


「……う」
 声聞が気絶していたのは時間にして四、五分といったところだろうか。崖がそこまで高くなかったのと、地面に雪が積もっていたのが幸いしたらしい。どうやら冬将軍は声聞を気に入ってくれているようだ。体には怪我一つなく、ポケットの中の秘密兵器も潰れていない。
「生きてた……」
 あまりの出来事に声聞の口からは呼吸音のように掠れた笑い声が漏れる。崖の上に登ったときその笑いは更に大きくなった。
 吹雪の中で影と見えたのはただの大きな岩だった。それが荒い視界の中で声聞の恐怖心を察してあの黒い獣のように現れたのだ。
「岩に殺されかけましたなんて笑えないだろ、ああもうっ!」
 声聞に軽く殴られた岩はその白い化粧を剥がされ、不満気に黒々とした肌を見せている。なんとなくいけないものを見たような気がして岩を見上げた声聞は、不意に自分がここを知っていることに気づいた。
 昔、よく六道と訓練した場所。自分が銃の的として撃ったのはこの岩ではなかったか。慌てて雪を剥がすと確かに弾痕らしきものが見て取れる。記憶の中の地図を引っ張り出して考える声聞の頭の中では新たな作戦が組みあがり始めていた。前提条件ですら成功する確率が三分の一という危うい作戦だが、どうせ勝ち目のない戦いだ。かすかに見えた勝機にすがってもいいだろう。
 付近に黒い影が見えないことを確認すると、声聞は急いで崖を下り始めた。


 最新技術で作られたとは言え、さすがのフェンリルもそろそろ苦しくなっていた。零下における長時間活動のせいで銃器は凍ってしまって作動不良を起こしているし、生体パーツもところどころ機能しなくなってきている。三太郎という名があった頃から使っている目玉をぎょろりと動かし、フェンリルはいったん停止した。
『索敵パターン再設定。動体反応配分増加。聴覚カット。第一第二活性抑制プラント作動。索敵再開』
 パン。
 AIが調整を終えてフェンリルが動き出そうとしたところで小さな破裂音が耳に届く。すぐさま脳内に仕込まれたコンピュータはそれが銃声だと結論した。 人間に組み込まれたプログラムに従いフェンリルはそちらに向かって走り出す。一瞬アオイのことを考えたが、無線が破壊された今ではどうすることもできなかった。


 来た。
 薄れてきた氷のカーテンの向こうに見える歪な姿を見て声聞はそう呟いていた。三分の一の賭け、すなわちアレが来るか、人間が来るか、その両方か。それに勝ったのはいいものの、この慄きはどうしようもない。遠くからでもはっきりとあの目が自分を見つめているのが分かる。怖い。怖い。殺される。死にたくない。
 どうして叫びださないのか自分でも不思議に思いながら声聞はショットガンを構えた。敵をおびき寄せるために撃った一発はその役目を果たしてくれたらしい。不確かなことで弾を一発消費するのは躊躇われたし、随分勇気が要った。戦場で生死を分けるのはえてして一発の弾や一寸の差、欠片ほどの冷静さ。そして運なのだ。
 声聞が立っている所は開けた平地の中程であり、木や岩などの遮蔽物は一切ない。まるで人間のスケートリンクのように広々と平らなそこは、誰かを追い詰めるには絶好の場所だった。理由があるとは言え、こんなところを選んだのは自殺行為と言っていい。
「……ふ」
 軽く息を吐き、呼吸を整えてトリガーに指をかける。まだ射程外だが、そう時間もないだろう。こうしている間にもあの化け物は信じがたい速度で迫ってきている。
 勝負は一瞬。それしかない。必殺の一撃を決められなければそれで終わり、あの銀の腕に全てを奪われてしまう。こちらの得物はもうショットガンしか残っていない。面の制圧力はあるものの、点の貫通力には乏しい代物だ。映像から判断してこちらの方が有効だろうと持ってきたものだが、いざ使うとなるとやはり不安が残る。とにかく射程が短いのだ。
 頭の中に浮かび上がる余計なことを振り払い、声聞はただただ目の前の敵を見据えた。
 落ち着け。怯えるな。懼れるな。今はただ、信じるのだ。
 自分を。
 自分の作戦を。
 自分を駆り立てるこのわけの分からない衝動、体の一番深い部分から聞こえてくるこの囁きを。


 フェンリルは最初に発見されたときの半分にまでその距離を縮めていた。声聞が銃口を向けると素早く軌道を変更し、また迫ってくる。想像以上のスピードに圧倒されつつも、声聞はショットガンを構えてトリガーを引いた。
「疾ッ!」
 轟音とともに飛び出した銃弾は大地に幾つもの穴を穿つが、その目標である相手に届くことはない。躊躇うことなく突き進んでくる敵に向かって声聞はもう一度発砲した。
 有効距離には少し遠いそれをフェンリルは難なく回避して声聞を睨む。自分が壊した機械の眼と生の眼、どちらも虚なそれの視線を受けて声聞は僅かに怯んだが、それを振り払うように再び装弾を行う。こちらの射程距離内に入ったことを知ったのか、怪物は動きを止めてじっと様子を窺っている。
 声聞の防寒具の下を汗が伝った。ショットガンの中でもポンプアクションを必要とするタイプは速射性に劣る。装弾の度にスライドさせて排莢する必要がある以上、一度撃った後に接近されると弱いのだ。おそらく、相手もそれを知っているから待っている。
「っ!」
 それでも声聞は撃った。至近距離から放たれた銃弾をフェンリルはその腕で防御するが、兆弾を体に受けて大きく吼える。その隙に声聞は再度発砲した。
 黒い銃口から吐き出された弾丸は大地に直撃し雪を舞い散らせる。それも、見当違いの方向で。焦る声聞がもう一度排莢する前にフェンリルは声聞に飛びかかった。
「ひ!」
 自分の何倍もの質量を持つ相手に組み伏せられて声聞は悲鳴をあげるが、ショットガンを構えることは忘れない。生体部分の腹部に硬い鉄を押しつけられ、フェンリルは獲物から体を離す。
「わあぁっ!」
 地面を転がってフェンリルから離れ、声聞は出鱈目に撃ちまくる。狙いすら定めていないその攻撃はフェンリルの周りの地面を傷つけたが一発として命中しない。やがて軽い金属音と共にショットガンはあっけなく弾切れを起こした。
「あ……っう……」
 用をなさなくなったショットガンを震える手で握り締め、声聞は後ずさる。そんな彼を確保しようとしてフェンリルは足を踏み出そうとして。

 止まった。

「……?」
 足元から、弾痕から広がる、ヒビ。氷のキャンバスの上で音もなく這い回り、その勢力を広げていく。
「小さい頃、ここでよく遊んだ」
 ショットガンを放り投げる音と重なっても、声聞の言葉はよく聞こえた。
「夏はボートを浮かべて魚釣りをしたんだ。あまり釣れなかったけどな」
「?」
「冬は氷が張ってつるつるだった。転ぶと痛いのは分かってるんだが、それでも滑るのが面白くてよく遊んだ」
「ガ? グ?」
 状況も声聞の言葉も理解できず、フェンリルは混乱した頭でただ立っていた。槍で破壊された部位がノイズを発しコンピュータの動作を遅らせる。さっきまで怯えきった小鳥のようだった声聞は不気味なほど落ち着き払っていた。
「でも、冬に魚釣りしたくなったときがあった。あまりにも氷が分厚いものだから、少し叩いたぐらいじゃびくともしない。仕方ないから銃を持ち出して撃って割ったんだが、そこで落ちてな。六道が来てくれなかったら、溺死か凍死していただろう」
「あ……?」
 フェンリルの頭の中に曖昧な記憶が蘇る。
 この第六区域は自分の故郷だ。この辺りのことは知っているし、声聞が言っていることは自分もやった覚えがある。ああ、ここは――
「ここはいいところだ。お前も知ってるだろう、三太郎。この――池は」
 弾痕と弾痕の間を細い線が伸び、繋がる。ヒビは大きく広がり、いまやフェンリルを囲んで大きく広がっていた。それが声聞が言い終わるのを待っていたかのように大きく裂け、落ちる。声聞によって何発も銃弾を受けた氷がサイボーグの体重を支えきれなくなったのだ。
 逃げる間もなく池が口を開き、フェンリルを飲み込む。後には何一つ残らなかった。

 水飛沫を被らないように気をつけながら、声聞は嫌な気持ちに囚われていた。
 敵は明らかに自分の演技に騙されていた。それはつまり、まだ少しだけでも心が残っているということ。できることなら、そんな相手を殺したくはなかった。
「……く」
 ショットガンを拾い上げると、声聞はもう一人の敵を求めて歩き出した。
 戦って相手を殺さずに済むのは、自分が圧倒的に強いときだけだ。声聞はそこまで強くない。彼が勝ったのは単なる偶然の積み重ね、俗に言う奇跡のおかげ。一つでも間違ったら死んでいたのは確実に声聞の方だ。

 だから声聞は謝らなかった。謝らずに、ただ戦うことにした。




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最終更新:2009年07月05日 00:58
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