feat.Advent(passion)#3


 あえいでいた。こわかった。かなしかった。
 それがいた。
 それはふわふわしていて、おかしかった。
 たりなかった。むなしかった。とられちゃったみたいだった。
 それははじめてだった。
 ふれた。ぼやけていた。
 かなしいみたいだった。
 よく、にていた。


 フェンリルを退けた声聞はいったん第六区域に戻ることにした。残してきた六道や獣人たちのことも心配なのもあったが、何よりも手持ちの武装を使い切ってしまったのが大きい。今敵に見つかってしまったらそれこそひとたまりもないだろう。かじかんだ指先をポケットの中に入れると、丸く硬い球体の感触がある。随分過酷な扱いだったと思うが、割れてもいないし、中身も凍っていない。単体ではほとんど意味を為さないとは言え、まだ残っているというのはありがたかった。
「急がないとな……」
 長時間冷気に晒された体からは体温がかなり奪われている。先程吹雪が止んだのはありがたかったが、それは同時に敵に発見されやすくなったということでもある。どちらにしろ急ぐしかないのだ、と声聞はひたすらに足を動かした。


 センサーが警告を発したとき既にアオイはライフルを構えていた。雪原の向こうで動いている白い物体。間違いなく標的だ。
 致命傷を与えない箇所をバイザーが計測しロックオンする。脚。少し上方に角度を修正したい欲求を覚えつつも、アオイは正確に照準を合わせ、引き金を引いた。


「あぐッ!」
 何が起こったのか理解する間もなく声聞の脚が弾けた。撒き散らされた血と肉が雪に赤い牡丹模様を描く。地面に転がった声聞の目に映ったのはこちらにゆっくりと近づいてくる黒い人間の姿だった。
 神経を直接ドリルで掘り返されているような激痛を声聞は荒い息だけで凌いだ。銃で撃たれたらしい脚はもう使い物にならない。這って逃げようかとも思ったが、それが無為なのは幼子にも理解できる。牙を噛みしめ、声聞は向こうに見える狙撃者を睨みつけた。

 銃をおろし、アオイは悠々と声聞に近寄った。見たところ相手は手に何も持っていない。拳銃ぐらいは持っているかもしれなかったが、そんなオモチャは防護服相手にクソの役にも立たないのは先程の戦闘で証明されている。
「生きてるか、クサレインポ野郎」
 痛みに耐えているらしい体を蹴りつけると小さな呻き声が漏れる。それでも悲鳴にならないのはたいしたものだ。傷はそこまで大きくないものの、なかなか出血量が多い。このまま放っておいては死ぬだろう。アオイは動脈を外さなかったセンサーに悪態をつくと止血作業に取り掛かった。
 腰のパックから止血剤と包帯を取り出し手早く処置にかかる。人間ならば経験があったが、獣人相手にこんなことをするのは初めてだ。毛皮に邪魔されて傷口を探り当てられず、アオイは舌打ちした。
「どう、して……?」
 息も絶え絶えといった様子なのに声聞はアオイに問いかける。アオイはそれを無視して止血剤を塗り、毛皮の上から包帯を巻く。作業が完了したところでアオイはようやく声を出した。
「お前はこれから研究所に送られる。何されるかは学者連中の心次第だが、愉快なのだけは保障してやる。この世じゃ味わえないハッピーライフだ、期待しておけ」
「実験材料、か」
「分かってるじゃないか。犬なんだから尻尾でも振って喜びな。ブッ飛んだご主人様にかわいがってもらえるんだから」
「……俺は、狼だよ」
 憮然とした調子で言い返す声聞がおかしくて、アオイは手加減して腹を蹴りつけた。
「それが人間様に対する態度か!」
 咳きこむ声聞の頭を踏みつけ、こめかみに銃を押しつける。体力を使い果たした声聞は弱々しくもがくが、それだけだった。傷ついた弱者が圧倒的な暴力の前でできることなどたかが知れている。アオイは声聞が動かなくなったのを確認して足だけを退ける。体を力なく大地に横たえながらも声聞はじっとアオイの顔を見ていた。
「なんだその目は! 何か言いたいことでもあるのか!」
「……」
 罵声に答えることなく声聞の目は閉じられる。雪上車に運ぶためにアオイは彼を抱えあげた。両腕が塞がれて無防備な状態になったが、まさか獣人たちも人質の意味を理解できないほどバカではあるまい。周囲に動体反応のないことを確認してからアオイは雪上車に向かって歩き出した。
 鍛えているとは言え、アオイの腕に獣人の雄は少々重い。今更ながらフェンリルがいないことがひどく悔やまれる。奴がいれば自分が汚らわしい獣人に触れることもなかったし、雪上車にもすぐに戻れるのに。
 そう考えると、この白子にフェンリルの通信機能を破壊されたのは痛い。雪上車に着いたら「お仕置き」をしてやろう。ナイフは先日の出来事のせいで少々切れ味が悪いが、足の一本や二本切り落とすことぐらい簡単だ。むしろ長引く分好都合と言えるかもしれない。
 ああ、こいつの悲鳴を聞きたい。
 そう思ってアオイが荷物を見ると、いつのまにか意識を取り戻していたらしい声聞と目が合った。ヘルメット越しに紅の視線に射抜かれてアオイはたじろぐ。
「三太郎は、死んだよ」
「……何?」
 歌うように呟くと、声聞は今度ははっきりと繰り返した。三太郎は、死んだ。
「お前が奴を殺したのか?」
「殺した。殺したよ」
「ふぅん」
 妄想か、事実か。うわ言のように「殺した」と繰り返す彼を放り投げてやりたいのをぐっと堪えて足を進める。ここで負の感情を発散してしまっては後のお楽しみが半減してしまう。苛立ちも憤りも怒りも微かな違和感も全て胸の中の瓶に詰めて腐らせて歪ませて濁らせて、時期が来たら一気に爆発させる。そこまでしてやっと、身を焼かれるような歓喜がアオイを満たしてくれるのだから。
「なぁ」
「なんだ」
 声はもう問いかけというより独り言に近かいものだったが、高性能なヘルメットの集音機能はちゃんと拾ってアオイに伝えた。
「……頼みたい、ことがある」
「なに?」
 どこかで聞いたような科白だったが、それがどこかは思い出せなかった。
「名前、教えてくれないか」


 ああ、そういうことか。
 この世界は。
 だから、私は。
 だから、君は。
 ありがとう。
 来て。


「はぁ?」
 予想外の言葉にアオイは思わず間抜けな声で聞き返していた。以前も同じようなことがあった気がするが、よく覚えていない。獣人の思考は遅すぎて人間には理解できない、ということか。それとも自分が何を言っているのかすらも分かっていないのか。焦点がぼやけている彼の瞳を見る限り、どうやら後者のほうが正しそうだ。
「名前……」
「アオイ。アオイだ」
「アオイ……俺は、声聞だ」
「はいはい、いい名前でございますね。あれか? 自分を殺した相手の名前を知りたいとか、そういうことか?」
「……そんなところさ」
 声聞は薄く笑うと、ごく自然な様子で何かを放り投げる。綺麗な放物線を描いて雪上に着地したそれはアオイが使い慣れた兵器であり、いつも腰につけていた武装だった。
 ――手榴弾。
 咄嗟にアオイが跳んだ直後、風船が膨らむように爆風が巻き起こる。炎はアオイと声聞を貪欲に呑み込み、焼いた。


 そして私は私を知った。
 天が上にも天が下にも我独りのみ尊し。
 天上天下唯我独尊。
 それが、私。


 やられた。
 朦朧とした声も、唐突で意味不明な会話も、全て自分の腰から手榴弾を奪って起爆させるためのカモフラージュ。
「獣風情が、浅知恵を……ッ!」
 それに気付かなかった自分にも、奸智を巡らせた声聞にも腹が立つ。よろよろと立ちあがりながらアオイは呪詛を吐いた。爆心地を中心としてきれいに広がった爆風が雪を焼き、その下の黒い大地をも抉っている。火炎の直撃を受けたにも関わらず、防護服はアオイの体を熱から守っていた。もっともセンサー系統は耐えられなかったらしく、視界モニタを除いて全てがダウンしている。
 アオイが図らずとも盾になったからか、声聞は大きく吹き飛ばされてはいるものの生きている。まるで使い古されたボロ雑巾のように転がる彼を血走った眼で睨みつけ、アオイは咆哮した。
「ころぉぉしぃてやぁぁぁるうぅぅぅ!」
 憎悪が、怒りが、言葉を野獣の咆哮に貶める。
 持っていたライフルは溶けて使い物にならないが、そんなものは必要ない。あんなに弱った獲物一人、この手で縊り殺してやる。殴り殺してやる。蹴り殺してやる。殺してやる殺してやる。絶対に、絶対に殺して償わせてやる。
 最早任務などというものはアオイの思考から消え失せていた。ただ目の前にいるアイツを、父の作品を、殺す。殺してこの世からなくして、否定して、消し去る。
「く……っふふふぅ……くひっ……」
 衝撃から回復しきっていない体を無理矢理駆って一歩を踏み出す。一歩、一歩、また一歩。
 後少し。後少しで届く。こいつの命に。殺してやる。絶対に殺して……
「疾ッ!」
 横合いから飛び込んできた黄金の風がアオイを突き飛ばし、声聞を庇うように立つ。
 風は、名を六道といった。

 量を加減されていたとはいえ、麻酔の効果は絶大だった。眠りから醒めても待っているのは頭痛と吐き気、だるい体。六道はそれを幾本かの薬剤を打つことで無理矢理克服した。麻酔で鈍麻した神経を瞬時に覚醒させる薬物など、尋常なものであるはずがない。確実に後遺症をもたらすだろうが、そんなことを言っている余裕はない。
 声聞が、死んでしまう。
 それが今の六道を突き動かす全てだった。
「させるかあぁーッ!」
 飛び出してきたから武装はただ一つ、高速徹甲弾を装弾したアサルトライフルのみ。それも体当たりしたはずみで自分からかなり離れたところに転がってしまっている。回収する余裕はないと判断した時点で六道は人間に飛びかかっていた。一刻も早く、人間を声聞から遠ざけなければならない。それは動物の母親によく似た思考である。
 一気に踏み込み、顔面に正拳。ブロック塀にヒビを入れるその拳を特殊強化ガラスのバイザーは簡単に弾き返す。生じた隙を狙って下から蹴りが伸びてくる。てっきり妙なスーツを着ているから遅いものだと思っていたが、そんなことはなかった。速い。避けられないと判断した体が勝手に衝撃を吸収する態勢に入る。
「ふっ!」
 身体能力において人間に遥かに勝る獣人に対抗するため、スーツの各所に人工筋肉が仕込まれている。それがアオイの蹴りに反応して増幅し、六道への重い一撃となる。
「く!」
 咄嗟に腕で受けた六道だったが、その予想外の威力に押されて吹き飛ばされる。受け身を取って勢いを殺しすぐさま構えに入る。これまでにない強敵。首筋の毛が逆立ち、低い唸りが漏れる。
「やるじゃない。でも……ここで止めてあげるわ。観念なさい」
「何を偉そうに……獣は獣らしく、人間様の足元にはいつくばってキャンキャン鳴いてりゃいいんだよ! それを!」
 飛びかかってくる黒い影とがっきと組み合い、六道は全身で押し返す。押された分だけ足の下に雪の溝ができる。人類科学技術の結晶たるスーツの出力は、鍛え抜かれた獣人の筋力を圧倒的に上回っていた。それでも、絶対に負けられない。
「く……このっ……」
 このままでは押し負けると判断した六道は咄嗟に体を右にずらして足払いをかける。アオイはそれを予期していたかのように足を地面に突き立て、六道の体を軽々と投げ飛ばした。再度、六道は地面に転ぶことになる。
 あまりにも、重い。この一撃も、奴の守りも。スーツを打ち破るにはこの爪と牙は弱すぎる。このままでは勝てない。ライフルで奴の頭にでも風穴を開けられればいいのだが、生憎と位置が悪い。自分がライフルを手に取る前に敵は声聞のところに辿り着くことができる。そんなリスクを見逃すほど六道は愚かではない。アオイもそれを理解した上で巧みに間合いを牽制していた。

 このときほど六道は自分の生まれを呪ったことはなかった。新世代の獣人に比べて知能が劣る自分。それは戦闘教官として彼らを訓練しているときに実感していたが、だからといって悩んだことはなかった。自分は実践の中で培ってきた経験を彼らに伝え、肉体を鍛えればよかったのだから。
 しかし今は違う。この今、頼れるのは自分の頭脳と肉体だけだ。見たかぎり声聞の傷は深い。こうしている間にも声聞の周りの雪は赤黒く染まっていく。守るべき命が流れ去っていく。なのに自分は何も考えつけない。打開策が開けない。それがたまらなく悔しい。
 そこまで考えたところで六道ははたと気付いた。あまり無理をさせたくないが、ここには最適の人材がいるではないか。作戦を考えるのにこれ以上は望めないとまで言えるような獣人が。
「声聞! 生きてるならワンとかキャンとか言いなさい!」
「……きゅーん」
 返事がかなり情けないのには目を瞑った。
「何か考えて! どうすればいいのか言いなさい!」
「俺は、怪我人というか、ちょっと死にそうなんだが」
「このままだと死ぬわよバカ! いいからさっさと何か作戦考えなさい!」
 ごぼごぼと咳き込んだのはおそらく笑い声だろう。それだけ元気ならまだ多少なりと余裕があるということだ。
 少しは安心した分、それに被さった人間の嘲笑はひどく不愉快だった。
「やっぱり獣はどこまで行っても獣だな。いいか、お前ら獣人は結局のところ誰かに命令してもらわないと生きていけないんだよ。何を勘違いしたのかそこのクソッタレなガキをリーダーに祭り上げただけで、やってることは変わらない、だろう? だったらおとなしく人間様に従えばいいんだよ!」
「そのニンゲンサマにいいことを教えてあげる。犬だって飼い主を見限ることはあるのよ? 少しばかり手を噛まれたからって殺そうとするような主人ならなおさらね」
「知った風な口を利く!」
 言うが早いかアオイは六道に向かって猪突する。対する六道はその振り上げられた右腕を捕えて引き倒す。打撃が無効ならば、せめて関節を。そう考えての攻撃だった。無理な方向に腕を曲げられてアオイは呻くが、また吼える。
「おらぁっ!」
「きゃっ」
 三度、六道は飛ばされる。なんとか受け身は取ったものの、殺しきれない衝撃が体にダメージが蓄積していることを教えてくれる。
 ――強すぎる。
 あんな無理な体勢から片腕で獣人一人を投げ飛ばすなど、明らかに人間の限界を超えている。硬質なスーツ、洗練された体術、躊躇ない行動。どれを取っても勝てる要素が見当たらない。どうすればいいのか分からない。勝てない。あまりにも、圧倒的だ。目の前が真っ暗になっていく。その暗闇のどこにも光が見出せない。六道の心をじわじわと黒い液体が満たしていく。絶望。
「……六道」
 足元からの弱々しい声。いつの間にか近くに這い寄っていた声聞が差し出した物を六道は恐る恐る受け取った。
「これは?」
「あいつの……ヘルメットにぶつけるんだ。もしかしたら、なんとかなるかも……」
「頼りないわね?」
「……頼むよ、六道。頑張って」
 託されたプラスチック製の球体は声聞の血を浴びて生温かい。それを握りしめ、六道は大きく深呼吸した。冷たい大気が肺を満たし、思考が一気にクリアになる。
 やるか。やれるか。やるしかないのか。
 ――やってみせる。
 高らかに吼え、六道は絶望を纏った黒い影に突進した。



 二匹の獣人のどちらにもロクな武装が残っていないのは承知していた。肉弾戦においても、このスーツの守りを打ち破ることはほぼできない。だからアオイは迫る六道を避けようとせず、代わりにその腹に渾身の一撃を叩きこんだ。
「ガッ!」
 吐きだされた吐瀉物が勢いよくアオイのバイザーにかかる。スーツ越しに伝わってくる感触からして骨を数本、もしかしたら内臓も破壊できたかもしれない。
 空いた手で六道の首を掴み、アオイはもう一度拳を振り上げる。と、同じように六道の腕が持ち上げられ、アオイのヘルメットに何かを叩きつけた。
「あ!?」
 視界が目障りな蛍光色一色に塗りつぶされてアオイはうろたえる。その隙に六道は自分を捕えていた手をひきはがして離脱していった。
 いくら擦っても液体は取れず、アオイの視界は回復しない。
「貴様ら、何をしたッ!」
 ピンク色の暗闇の中、アオイは怒りを爆発させた。


 カラーボール、というものがある。金融機関、店舗等の防犯の為に作られた防犯装備である。染料と特殊塗料の液体が封入されており、対象物または対象者にぶつけると衝撃で外装が割れ、内容液が対象に付着する。これにより、強盗犯等を識別するのである。染料は洗剤などで落ちてしまうが、特殊塗料は簡単には消えない。
 人間の町を襲撃した部下が持ってきたそれを声聞はずっと取っておいた。特に目的があったわけではない。なんとなく形が気に入ったから、というそれだけの理由でピンクの液体を湛えたプラスチック製の球体は声聞の秘密基地にしまいこまれ、忘れられていた。
 それを声聞が持ち出し、六道に託し、アオイにぶつけられた。
 製造された目的通り、カラーボール内の液体は一度付いたら生半なことでは取れないようになっている。バイザーを塗りつぶされ、センサーが破壊されたこの状況において、アオイに残された知覚は聴覚だけとなった。
 彼女は考える。この状況を打開する手段はただ一つしかない。
 ヘルメットを、脱ぐ。
 そうすれば視覚、聴覚が共に回復する。戦える。しかしそれは諸刃の剣。無防備な頭を晒してしまえば自分がやられる確率はグンと高くなる。アオイは舌打ちし、思考を巡らせた。退くべきか、攻めるべきか。それが問題だ。
 そんな煩悶も声聞の一声が聞こえた瞬間に掻き消えた。

「六道、逃げるぞ!」

 逃げる。
 あいつが。
 お父さんを奪ったあいつが。
 冗談じゃない。殺して償わせる。絶対に、絶対にそうしなければいけないのだ。でないと、私は――


 ヘルメットを脱ぐと視界がはっきりした。六道が声聞を支え、こちらに背を向けて歩いている。ライフルを杖にしている。あれではすぐに使えないだろう。隙だらけだ。簡単だ。ちょっと近づいて、首を絞めてやればいい。そうしよう。そうしよう。そうしよう!
 相手はまだこちらに気づいていない。雪の上だから足音を忍ばせる必要すらない。そうしよう。一気に近づいて、殺す。そうしよう。そうしようそうしようそうしよう。
走る。近づく。飛びかかる。狙いはただ一人、憎き「兄弟」。
 ああ、なのに。
 この手に捕らえたのは雌の方だった。


「六道ッ!」
 迂闊だった。視界を奪えばもう大丈夫だと慢心していた。まさか、ヘルメットを脱ぐリスクを冒してまで襲ってくるなんて。
 六道を右手で押さえ、人間――アオイというらしい――は憤怒の形相で俺を見る。とっさにライフルを構えたが、六道を人質に取られては撃てる筈もない。
「おいケモノ! 声聞とかいったな?」
「彼女を離せ!」
「ああいいとも。ただし条件がある」
「……」
「今すぐ脳味噌ブチまけろ。その手にあるライフルを使えば簡単だろう? バカすぎて使い方も分からないか?」
「声聞! ダメよ絶対にダメッ!」
「黙ってな!」
 アオイに殴られて六道が悲鳴を上げる。俺よりマシだと笑っていたが、実際はかなり辛いに違いない。あれだけ殴られ、投げ飛ばされたのだから。
どうすればいい。確かにライフルはある。この傷ではまともに撃てるかどうか怪しいものだが、撃てば確実にトドメをさせる。だが、六道がいる。人質を避けて敵だけを撃つなんて小器用な真似は俺にはとてもできない。
 考えろ。どうすればいい。考えろ考えろ考えろ。考えろ!
「ギャゥッ!」
 痛々しい悲鳴。見ると、アオイが六道の指をぽきりと折ったところだった。
「早くしないと愛しい相手のおててが使い物にならなくなるぞ?」
「お、お前っ……!」
 怒りで喉が詰まって息ができない。今までこんなに誰かを憎んだことがあっただろうか。ない。アオイの顔を見てそれは更に増幅された。笑っている、この女。
「よくもこんな真似を、楽しそうにできるもんだな……!」
「お褒めいただいて光栄だ。ほら、どうするんだ? また折っちゃうぞ? それが嫌だったら言われたことをちゃんとやるべきじゃないか?」
「う……」
 どうしようも――ないのか。このままでは六道が殺されてしまう。黒光りするライフルが俺に選択を迫る。アオイは既に六道の指に手をかけている。

「声聞さま、このまま撃ってください」

 そんな中、六道の声は妙に優しく聞こえた。

「そんな、六道!」
「大丈夫ですよ。そのライフルに入ってるの高速徹甲弾ですから。戦車だって大丈夫です」
「そういうことじゃないだろ六道! このまま撃つなんて、そんなこと、俺は……」
「できます。いいえ、できなくちゃいけないんです。私が何のためにあなたを訓練してきたと思ってるんですか?」
「あんたは俺に自分を殺させるために訓練してたってのか? 違うだろ!」
 ぽきん。
 会話を嫌な音が遮る。六道の指をへし折って、アオイがまたにたりと笑った。
「どうした? 続けてもらって構わんぞ」
「外道ッ!」
「心外だな。こうやって獣同士のコミュニケーションに付き合ってやってるんだ、感謝されて当然じゃないか?」
 アオイはへらへらと笑いながら次の指に手をかける。なす術もない俺の前で六道の指がもう一本折られた。
「アッ……ガゥッ……」
「ろく、ど……」
 涙で視界が滲む。もうこれ以上彼女が傷つけられるのを見ていられない。首を絞められ、何本も指をへし折られ、戦いでボロボロになった体。そんな状態だというのに、あろうことか彼女は俺を怒鳴りつけた。
「こんの優柔不断!」
「……」
「私はあなたのために言ってるんじゃないの。自分のために言ってるの。私は人間に作られて生まれたわ。それは自分で決めてない。でもね、私はそれからずっと選択してきたの。人間と戦うのも、あなたを世話したのも、全部自分で決めて、自分のためにやったの。私を撃てっていうのも自分のため。分かったら早く撃ちなさい!」
「できないよ……」
 頭では理解しているのだ。獣人全体のことを考えれば、六道の言う通りにするのが一番いいに決まっている。だからと言って、はいそうですかとできるほど俺は心を捨てきれるわけではない。六道を、あの六道をこの手で殺すなんて。
 ぽきん。
 また、折られた。
「ねえ、声聞。私が仔供が産めないのは知ってるわね? そういうところ、人間にちょっと憧れてたの。自分の子供が産めるっていいなぁって。羨ましいなぁって。戦闘教官なんてやってたのは、たぶんそのせいね」
 ぽきん。
 遂に右手の指が全部折られてしまった。なのに六道は話すのを止めない。もうやめてくれと言いたかったが、舌がもつれて動かない。
「だから戦闘教官を降ろされたときは許せなかったわ。本当に嫌だった。兵士はお前の仔供じゃないって言われたみたいで。だからあなたにも八つ当たりなんかして」
 ばきん。
 今度は、左手の指が五本同時に折られてしまった。それなのに六道は悲鳴一つ上げることなく喋り続ける。
「でもね、あなたを育てている内に感じたのよ。ああ、これが母親のやることなんだなって。私は今母親をやってるんだって。それが真似事だと分かっていても、嬉しかったのよ」
「……六道」
「だからね声聞。もし……もし私を母親と思ってくれるなら、撃って。撃って、約束を守って」

 しばらくの沈黙。声聞も、アオイも、六道も。誰も言葉を発さない。ややあって、声聞が血を吐くような声を絞り出した。
「狡いな……そんなこと言われたら、やるしかないじゃないか」
「それがあなたのいいところよ。元気でね、声聞」




 どこまでも白が支配する雪原。
 その中に三つの影が立っている。

 一つは人間の女。一つの影を腕に捕え、毒々しい罵声を撒き散らしている。
 一つは獣人の雌。人間に囚われて、それでも優しげな微笑を浮かべている。
 一つは獣人の雄。鉄の武器を構え、泣いている。

 やがて銃声が鳴り響き、二つの影を吹き飛ばす。
 立っている影は一つになった。

 声にならない。




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最終更新:2009年07月05日 00:59
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