feat.Advent


 寒い。
 そう、思った。
 薄暗い部屋の中はどこもかしこも無表情な金属に覆われている。まるで全てを拒んでいるような、そんな圧迫感。嫌な感触だ。
 そこまで考えたところで腹部に鋭い痛みが目覚めた。腹を食い破られたかのような激痛が意識をあるべき覚醒状態に押し戻す。
「……アオイ、起きたか?」
 後ろから聞こえたおずおずとした声の主は見なくても分かっている。私の「弟」。クソ忌々しい獣人どものリーダー。
「分かってるなら聞くな」
「うん」
 声聞の声が暗闇に吸い込まれていく。なぜかそれに神経が逆撫でされて、私は憚ることなく舌打ちした。
「辛いか?」
「辛いに決まってるだろう。バカか?」
「そうだね。そうだ」
 頼みの防護服は脱がされており、今の私は薄布一枚だけで床に転がされている。手首と足首も丁寧に縛られていて、自分ではまず解けないだろう。おまけに腹の傷がじくじくと痛む。こんな状態の人間に辛いかと聞いてどうする。バカが。
 獣人の前で芋虫みたいに這うなんて屈辱だったが、しかたがない。なんとか体を捻って声聞の方を向く。暗い部屋の中、緑のカプセルをバックに浮かび上がる白い影がそこにあった。私の視線に気づいたのか、声聞はカプセルを指さして説明する。
「これが獣人培養装置。俺たちを産み出した装置だ」
「知らないはずがないだろう」
「……そうだったな」
 声聞はそう呟くと、座っていた椅子を立ってこちらに来た。
「何をする気だ?」
「傷の手当て。痛むなら鎮痛剤を塗る」
「いらん」
「でも、辛そうだ。血の匂いもする」
「いらんと言っているだろう! 獣人が私に触るな!」
 精一杯怒鳴ったつもりだったが、口から出た声はだいぶ弱々しかった。私の態度に何の反応も示すことなく、声聞はすとんと椅子に座る。それがまた癇に障る。この苛立ちを誰かにぶつけることもできず、私は縛られた手で思いきり床を殴った。
「少し、緩めようか」
「あ?」
「その縄。痛いか?」
「……そんなことをするぐらいだったら解け」
「そうしたら、アオイはどうする?」
「お前を殺してやる」
「なら、駄目だ。俺は約束を守らないと」
「約束?」
「そうだよ、約束。俺は約束を守らないといけないんだ」
 闇の中で聞こえる声聞の声は抑揚を欠いていた。不気味なまでによく似ている。こいつに殺されたフェンリルの声に。
「アオイ」
「……なんだ」
「アオイは、獣人が嫌い?」
「わざわざ聞くようなことか?」
「嫌い、なの?」
「そうだ」
「三太郎のことは、嫌いだった?」
「嫌いに決まってるだろう」
「それは、悲しいことだよ」
「……好きに思え」
 バカみたいな会話を繰り返しながら、私は嫌な空気をひしひしと感じていた。今のこいつは正常じゃない。同じ平淡さでも、フェンリルとこいつでは思いきり違う。何かがずれている。壊れているのかもしれない。いつの間にか嫌な汗で体がぐっしょりと濡れていた。
 そもそもなぜコイツは私を殺さないのか。保健所の職員としていくつもの集落を焼き払い、数え切れないほどの獣人を殺した。加えてあの雌、六道と言ったか。彼女を自分の手で殺す原因にもなった。公私共に恨みは十二分のはずだ。殺さない理由がない。
「……おい」
「何?」
「どうして、私を殺さない」
「光が欲しかったんだ」
「はぁ?」
 支離滅裂な回答。先程から胸を圧迫する何かがどんどん強くなってくる。こいつ、狂っているのかもしれない。
 そう考えると昔見た映像が頭の中に蘇ってきた。保健所の研修で見せられた、人間が獣人に殺される動画。
 腹を裂かれて内臓を引きずり出された女。首を捩じ切られた男。潰された目を押さえて泣き叫ぶ少女。
 どれもこれも無残な姿だった。戦意高揚のために上映されたそれらの映像が暗闇の中で現実味を帯びて迫ってくる。息苦しさを振り払おうと私は何度か息を大きく吸った。
「アオイ」
 落ち着いた声。それが逆に怖い。自分の名前を呼ばれるのがこんなにも怖いことだとは思いもしなかった。
「……どうした」
「聞きたいことがあるんだ。どうしても聞きたいことが」
「言ってみろ」
 ふつりとロウソクを吹き消すように嫌な気配が途切れる。
「人間の中に獣人を愛せる人、いるか?」
「……」
 そう問われて思い浮かんだのはある研究員だった。いつもフェンリルの周りをうろちょろしていた若い男。陰気臭い顔で何度も何度もフェンリルに話しかけていた。私が無駄だとせせら笑うと、そんなことはないと顔を真っ赤にして怒っていたものだ。彼は何を考えていたのだろう。いつも悲しげだった彼は。軽蔑すらしていたのに、今になって気になる。
「いる、と思う」
 自分は嘘をついたのかもしれない。本当のことを言ったのかもしれない。それでも、声聞にそう言ってやりたいと思う自分がいた。
「ありがとう、アオイ」
 声聞は穏やかな声でそう言うと椅子の上で膝を抱えてうつむいた。カプセルの明かりの影になって見えないが、泣いているのかもしれなかった。


 なんだろう、この感情は。この胸に湧き上がる何か。まさか自分は同情しているのだろうか。獣人に、それもよりにもよって一番憎んでいるはずの「弟」に。
 弱気になった自分を励まそうと吐いてみた唾はすぐそばに落ちた。もう言うべき悪態も思いつかない。必死になって胸の中に溜めてきたもの、どす黒い感情のマグマはきれいさっぱり消えてなくなっていた。
 それどころか。
「……頼みたい、ことがある」
 こんなことまで口にしていた。
「お前のレシピを見せてほしい」
「……?」
 顔を上げた声聞が不思議そうにこちらを見ている。獣人に何かを頼むなど考えがたいことだったが、今はそれが正しいことのように思える。マグマの下から噴き出した感情は私に留まることを許さない。もう彼を憎むことはできないと、そのとき悟った。
「頼む。見せてくれ」
 首を傾げた後、「弟」はこくんとうなずいた。


 暗闇の中、ディスプレイに大量の文字列が流れていく。声聞に椅子に座らされた私はそれをじっと見ていた。
 父が書いたレシピ。どうしてもその一つ一つが意味を持っているような気がしてしまう。気がつくと血色の瞳がじっと私を覗きこんでいた。
「声聞。これを書いたのは人間か?」
「そう聞いてる」
「私の、父なんだ」
 驚きに目を見開く傍らの彼に向かって私は続ける。
「つまりお前と私は姉弟ってことになる」
「……そう、なのか」
 スクロールさせる手を止め、声聞はじっと私を見つめている。狼顔では何を考えているのか分かりづらかったが、どうやら驚いているようだ。
「お前は新しい獣人なんだろう? どこを改良されたんだ?」
「より高い知能の付与と、服従遺伝子の消去」
「……」
 知っていた。他に考えられない。それしかない。それでもディスプレイが滲みだすのは止められない。レシピは人と獣の遺伝子を融合させる連結部に差し掛かったところだった。
ふとそこで何かがひっかかった。小さな違和感にチクリと刺されて私は声聞を止める。
「今のところ……そう、そこに戻ってくれ」
「どうした?」
「おかしい……こんなところ、改造しようがないはずなのに」
 人と獣の遺伝子を融合させる連結部のコードはそこまで長くない。戦争の原因になった服従遺伝子の部分の半分もないはずだ。なのにディスプレイに表示されているコードはそれより遥かに長い。前半部分は記憶の中にある通りだ。問題は後半部分。見たことのないコードだが、ところどころ似ている部分がある。人間なら誰もが知っているコード。全ての元凶であるコードに。
「これは……」
「アオイ? どうしたんだ?」
「新しい……服従遺伝子?」
「え」
 しん、と空気が固まった。私の言葉を理解したのか、声聞は耳を伏せて小さく呻く。
「そんな、嘘だ……」
「……間違いない。これは服従遺伝子だ。それもおそらく、改良された」
「嘘だ!」
 声聞は叫ぶとディスプレイを殴りつける。割れたガラスの破片が床に飛び散って冷ややかな響きをあげる。
「それじゃ、それじゃ、俺は皆に服従遺伝子を組み込んでいた? 獣人はまだ人間の支配から逃げられない?」
「……」
「そんな……じゃあ、何のために六道は……俺は……獣人は……ッ!」
 床に何度も拳を叩きつけながら声聞はがたがたと体を震えさせていた。まるで凍えきった子犬のよう。やがてその震えが収まっていき、止まる。声聞は天を仰ぐ。
「何のために生きてんだよォォォ―ッ!」
 天を衝く叫びが声聞の喉からほとばしった。


「CAST IN THE NAME OF GOD. YE NOT GUILTY」
 ドアが開く音と共に流れ込んできた声がいとも簡単にそれを止めた。聞き覚えがあるようでない、ないようである、涼やかな声。
 通路の明かりに照らされて立っているのは大きな影。見慣れた黒い毛皮だったが、鋼鉄の腕は片方なくなっている。
「この場合は神を人間と言い換えるべきかしらね。傲慢な試みではあるけれど」
 声は残った腕に抱きかかえられた誰かのものだった。
「さて、どう言おうかしら。はじめまして? ひさしぶり? どう思う、声聞」
「あ……あ……」
 人影を見つめて声聞はぺたんと座りこんでいる。胸が大きく上下している。
「そうね、おはようにしようかしら。おはよう、声聞」
「おはよう……縁覚」
 震える声聞の挨拶を受け、フェンリルの腕の中で、縁覚と呼ばれた獣人は嫣然と微笑んだ。




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最終更新:2009年07月05日 01:00
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