Nocturne


 夕暮れの屋敷に今日も美しいピアノの音色が響いていた。
伸びやかな旋律は時をゆったりと遅らせるように繊細な言の葉を紡いでいく。
物悲しいト短調、力強さと躍動。右手と左手の調和。ノクターン。


「だれ?」


 純金の間接照明に暖かな明かりが灯される。
少女の声に呼び止められて、奏者は演奏を収束させた。
唐草模様の極彩色の絨毯の上に象牙製のグランドピアノ。
奏者は、泥で汚れたシャツをぴっちりと太った体に張りつけた、身なりの汚い狼獣人。


「申し訳ありません、お嬢様……」


 召使として雇われた獣人の男は、おずおずと立ち上がり、申し訳なさそうに頭を下げた。
垢と埃にまみれた様な毛皮がみすぼらしい、醜い獣人。

「その、こんなに早く帰ってこられるとは……」
「演奏を、続けなさい」

 薄桃色のワンピースを着た幼い少女は、その体に似つかわしくない口調で言った。
獣人は、少女の目線を気にしながら、ゆっくりと再びピアノ椅子に腰を下ろした。
裸足の肉球がペダルにかかると、静かに曲が始まった。
太くて粗暴なはずの指が、白と黒の鍵盤を跳躍していく。
巨大な楽器から自然に音楽が流れ出だしているような、巧みな表現力だった。

 獣人は夢中で開かれた楽譜を目で追っていた。
美しい和声に酔いしれることもなく、必死に弾きこなしている。
あわただしく尻尾が左右に動き、肩が上下する。
なぜ、こんな獣人がピアノを弾くことができるのだろう。
なぜ、鍵盤を見もせずに演奏できるほどの腕があるのだろう。

「もういい、演奏をやめて」
「すいません」
「いますぐ、出て行って!」


 獣人は、慌てたように立ち上がり、そして部屋を駆け出していった。
ふたたび静寂の帳が下りると、柱時計の鐘が厳かに唸りだした。
少女は溜息をつき、窓を開け放った。
獣人の汚らわしい臭いを一刻も早く部屋から追い出したかった。
初夏の夜風が腰まである艶やかな黒髪をたなびかせる。庭の薔薇が香ると、少しずつ平常を取り戻していった。


 全ての謎が解けた。
最近、弾きもしないピアノを突然褒めてもらえるようになったこと。
欲しくもない楽譜を何度も買い与えてくれる父親。
そしてほどなく、上達が早い、もう弾けるようになったと捲くし立てる家族。
はじめは自分が二重人格で、自分の知らない人格が曲を弾いているのではないかと疑っていた。
恐ろしくて、部屋にいるのが怖くて、いつも夜遅くまで学校にいて、帰らないようにしていたのに。
それなのに、あいかわらずピアノの腕前を褒め続ける家族。
幽霊が、この部屋にいるのではないかと、ありえない事まで想定した。
ここまで精神的に私をを追い詰めた張本人が、あろうことか獣人だった。
あの獣人が、この部屋のピアノ奏者だった。


 本当にぞっとした。
帰ってくると、本当に自分の部屋からピアノの音が流れてくる。
この美しい音のせいで、私はピアノが弾けると嘘をついて見栄を張る羽目になったんだ。
恥ずかしい。ばかばかしい。
そんな思いをさせられて、獣人が憎らしい。


 ピアノの蓋を閉め、楽譜を棚に戻すと、兄が部屋に入ってきた。
あの獣人と仲良くする兄。
憎悪がふただび体中にみなぎってきた。

「ノックぐらいして! 勝手に入ってこないで!」
「ごめんよ。夕飯の支度ができたから降りておいでよ」
「しらない! 食べたくない」
「どうしちゃったの?」
「しらない、関係ない!」

 兄は黙り込んで、不可解な顔をしながら去っていった。
兄はあの汚らわしい獣人が好きで、いつも一緒に行動している。寝る時も一緒だ。
なぜ、兄はあんなに獣人が好きなんだろう。
奴隷の身分で、勝手に部屋に忍び込んで、ピアノを勝手に弾いていた下劣な獣人。
男が女の子の部屋にしのびこむことだけでも厭らしいのに。
虫唾が走る、怒りが体中の血液を沸騰させる。


 獣人が好きな兄が嫌いだ。
兄の心を奪った獣人が嫌いだ。
獣人の演奏に少しでも聞きほれた自分が、嫌いだ。


 このままでは、あの奴隷獣人に、なにもかもをメチャメチャにされてしまう。
兄が同性愛に倒錯し、あげく獣人擁護のレジスタンスにしたのも、全部全部あいつが悪い。
絶えられない。早く、なんとかしなければ。


少女は部屋を抜け出すと、厨房へ向かった。


~~~


 食卓には和食が並ぶ。
魚の香ばしい香りが食欲をそそる。

「父さん、アリサが変なんだ」
「降りてこないのか」
「最近、大して触りもしてないピアノを突然スラスラ弾くようになったし」
「あれは驚いた、ノクターンを弾きこなすんだから天才かもしれないな」

 父が笑った。
姉が家庭教師と共に食卓に着いた。
今夜の料理は二人が作ったものだ。
きらきらと白飯が盛られる。

 家庭教師、学者を目指す僕に数理物理学を教えてくれる姉の友人。
授業料を免除するかわりにこうやって夕飯を一緒にとっている。
髪がとてもきれいで清楚な先生。
それでいて、キックボクシングをやっていて、体のラインが強調されている。
女性に興味の無い僕ですら、少しだけドキドキする。

「妹さんはまだ練習してるの?」
「先生、呼んでも来ないんです」
「そうとう熱心なのね」
「でも、ピアノを弾いているところを見せてくれないんですよ」
「恥ずかしがり屋なのかしら」

 父が緑茶を淹れ始めた。

「いつもご苦労」
「いえいえ、ありがとうございます」
「父さん、アリサは?」
「あの年頃の女の子は難しいんだ、そっとしておけ」


~~~


 厨房の裏口から外へ出た。
そして木の陰でしゃがんでいる、大きな獣人に話しかけた。

「三太郎さん」
「お嬢様! 先ほどは、とんだ無礼を」
「いいえ、いいの」

 すっかり日が暮れ、真っ暗な裏庭は木の陰が不気味だった。
ここなら獣人がかくまわれていても、周辺の住宅からは見えない。
兄と獣人はいつも、この汚い小屋で語り明かしていた。
もしかしたら、ここは既に、愛の巣になっているかもしれない。

「お嬢様、どうされたのですか?」
「聞きたいことがあって」
「突然……なんでしょう?」

 私は小さく深呼吸した。

「三太郎さんは、私の兄のことが、好きなのですか?」

 我ながらストレートに聞いたものだ。
しかたない。煮えくり返るような思考が冷静さを欠いている。

「好き、というと?」
「三太郎さんは、兄と恋人の関係なのではないですか?」

 獣人は頭の後ろを掻きながら恥ずかしそうにしている。
気持ち悪い。

「恋人だなんて滅相も無い……私はただの奴隷です」
「男同士なのに、まして、人間と獣人の関係なのに好きなの?」
「坊ちゃまは倒錯者じゃありませんよ。家庭教師の先生に興味があるようですし」

 獣人が、すこしだけ悲しい表情をした。
嫉妬してるんだ。先生に。
やっぱり、お兄ちゃんを

「すきなのね?」
「好きです。とても誠実で心優しい」
「三太郎さんは、兄が、お兄ちゃんが好きなのね?」


「私から、お兄ちゃんを取ったんだ」
「え……?」

 獣人が青ざめていく。私は頭に血が上っていく。

「私に恥をかかせて、許せない」
「冗談は、やめて、下さい、その、刃物は……」
「なにもかも、めちゃめちゃに」
「やめてください、危ないっ!」
「殺すっ」


 少女の手には包丁が握られていた。
尾を股に挟んで、がたがたと足を震わせはじめた獣人。
怯える獣人に少女はゆっくり迫っていった。
そして、包丁を獣人に勢いよく突きたてた。
獣人は無我夢中で少女の攻撃を避ける。情けない声を出しながら壁づたいに逃げていく。
尻餅をつきながら後ずさり、情けない声を上げる獣人に、容赦なく刃を向け続ける少女。
壁に追い詰められた獣人は目を瞑った。少女の攻撃を防ごうと腕を振り上げた瞬間だった。

 少女の右手、包丁を持っている手を勢いよく弾かれた。
少女の手から包丁が転がり、血が滴った。
刃が左頬を掠り、切り傷ができていた。

「うわぁ……」

 獣人は完全に血の気が引いて、座り込んだ。

「痛い、痛い、」
「お嬢様、もうし、わけありません」
「獣人に、獣人に切られた」

 少女はその場でうずくまり、顔を抑えて金切り声を上げた。
獣人は壁にもたれかかり、座ったまま放心していた。
ほどなくして、少女の姉と父親が部屋に駆けつけた。


「これは」
「アリサ? 大丈夫かい?」
「獣人が人間に危害を……いますぐ通報するわ」


 少女はずっと金切り声を上げていた。
息を震わせ怯えながらうなだれた獣人は黙ったまま。

 豪邸ともなれば、通報して2分以内に保健所の職員が来る。
やがて数名の職員がなだれ込み、獣人は拘束されつれていかれた。
罪悪感にマヒした獣人の頭は、もうなにも考えていなかった。

 すぐに裏庭や獣人の部屋、もとい屋敷の令息の部屋は洗いざらい捜査された。
そして、保健所の位置や内部の見取り図、職員名簿などが次々と見つかった。

「あの、人の良さそうな獣人が、工作員だったとは……」
「信じられない」


 獣人は保健所の情報を集めていた、そういう流れになっていく。
顔を傷つけられた次女は、ショックで得意なピアノが弾けなくなった、そういう流れになっていく


 その後、獣人がどうなったのかは分からない。

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最終更新:2009年06月14日 02:18
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