当サイトの玄関口に掲げてある絵は、日本の木版風景画の泰斗・葛飾北斎(かつしか・ほくさい=西暦1760~1849年) の
世界的名作『冨嶽(ふがく)三十六景』シリーズの一、「神奈川沖波裏=なみうら」の一部です。

 この絵の見どころは、遠近法など西洋画の画法も採り入れ、計算し尽くされた構図。
現代の超高速度撮影で解明されるまでは、写真でさえ捉えられなかった波頭の形状を
超人的な観察眼で見事に見抜いた迫真の描写。余計な色彩を省いた簡潔な配色などで、
こうした要素の一つ一つが、強烈な迫力となって観る者に迫ります。

 さらに心打つのは、そのテーマです。大型の猪牙舟(ちょきぶね)に、今にも頭上からのしかかって来そうな大波。
死の恐怖に、目を固くつぶって船端にしがみつく船客たち。波間に翻弄され、それぞれ違った傾きで描かれた舟。
艫(とも=船尾)に乗っているはずの船頭や漕ぎ手の姿を描かずに隠しているところも、目では見えない
船客の恐怖と狼狽を、観る者に伝える巧みな技に思えます。そして、前景の狂瀾怒涛を、遠く泰然と見守る不動の冨嶽。

 この絵が描かれたのは、北斎の晩年に当たる1820~30年ころとみられていますが、
すでにロシア、イギリス、アメリカなどの武装船が、捕鯨船への水・食料・薪炭などの
供給基地や交易を求めて頻りに日本沿岸に現れ、中にはわが領土を侵して狼藉を働く例さえありました。
例えば、ロシア武装船による樺太・択捉・利尻の侵略=1806~07年。
英武装船の長崎港侵入とオランダ船襲撃・船員拉致=1808年「フェートン号事件」などです。

 徳川幕府は、鎖国政策を続けていた割には海防への熱意は薄く、択捉事件では松前奉行の下役が、
長崎の事件では長崎奉行が、防備の責任をとって自害しており、1825年には幕府が改めて、
虚しい「異国船打払令」を出してもいます。

 北斎の胸中には、これらの状況から感じ取った日本の将来への危機感があって、押し寄せる大波と、
それに抗する術もなく翻弄される猪牙舟、そして侵し難い尊厳を示す富士の遠景に、
泰平の夢を醒まされ「国難」を迎えた時代の気持ちを託したのかもしれません。

 この時代、国防の不備を論じ、その充実を提言するなどは幕政批判として禁じられ、
1787~91年に『海国兵談』を出版して海防を説いた論客・林子平(1738~93)は、
板木も著作も没収されて蟄居を命じられ、悶々のうちに歿しているくらいですから、
絵画もまた直截な表現は出来なかったはずです。勘ぐれば、船客の運命を担う船頭の姿が猪牙舟に描かれていないところに、
辛辣な批判が隠されたのでしょうか。

 翻って今日の日本も、古くて新しい「国難」に直面しています。それは、北斎没後数年にして、
砲火をもって日本民族に強要され、結局は受け入れざるを得なかった、当時の列強の
「唯物的で強慾任せの弱肉強食の生き方」の徹底的浸透を、今なお迫る外圧との闘いという「国難」です。

 もともと日本民族は、祖霊を崇め和を尊び、自然を敬い自然と人との調和を重んじて、
ものの哀れと惻隠の情、そして礼儀を弁え、金銀財宝より質素と心の豊かさを求め、
利己よりも公への奉仕を讃える人間集団として、しかも国家の危急に際しては決然立って、
命がけで祖国に殉ずる尚武の民として、独自の生き方を歩んできたのです。

 こにような 「日本民族古来の生き方」 は、世界の植民地化を進めていた
「唯物的で強慾任せの弱肉強食の生き方」 を採る勢力との対決に発展し、
先の大戦では、残念ながら衆寡敵せず、同胞だけでも三百余万の死を代償に、日本の敗戦に帰したわけです。
しかし、この大戦の結果として、アジアの植民地は全て解放され、
「民族の自主自決」が実現したことは、何人も否定出来ない歴史の事実です。

 ただ、戦後の日本をめぐり、勝者が敗者に押しつけた「不戦の憲法」につけ込んで勝者の側に立ち、
わが国固有の領土を不法に占拠したり、資源の略取に既成事実を構築したり、
果ては無辜の民を拉致するなどの不法をなす勢力が、挙げ句には核ミサイルまでを擬し、
軍事力の増強を進めて反日の侵略姿勢を構え、日本に新たな「国難」を突き付けているのが、わが国周辺の厳然たる現実です。

 このような事態に際会し、何よりもまず現実に忠実にあるがままを報じ、
諸論・諸説をあまねく紹介して国論を束ねてゆくことを本来の使命とすべきマスコミが、
ややもすれば非道な反日勢力に迎合し、彼らと連携しつつ日本の伝統的な生き方を破壊しようと
図ることは許すべからざることであり、そのような歪みを正すことを目的に作られたこのサイトにとって、
この玄関口の絵は、奥深い意味を持つものと言えます。
                            (2010年7月19日「海の日」に、本郷美則記)
最終更新:2010年07月22日 21:50