寺原隼人

背番号20 投手 右投右打

  • 2001年ドラフト1巡目指名を受け、宮崎県の日南学園よりホークスに入団。当時の背番号は「20」。
  • 日南学園時代はエースとして、井手(現DeNA)と共に甲子園に出場。当時の最速記録154km/hをマークするなど大活躍をする。
    • 弟がおり、2011年夏の選抜高校野球大会では井手弟と共に甲子園出場を決めている(共に出番はなし。ただし、寺原弟に関しては投球練習中に暴投をやらかしている様子が映っている)。
  • 打たせて取るピッチングが持ち味。球種はストレート、スライダー、フォーク、カーブなど。

  • 2002年シーズンはルーキーながらいきなり6勝、翌年は7勝をするも以降は勝利から遠ざかり、2006年オフにタムさんとトレードでDeNAに移籍。移籍先では自身初の2ケタ勝利を手にしたり、クローザーも任されたりと様々な経験を積む。が、2010年に心機一転「寺原早人」に登録名を変更するも早々戦線離脱。オフにはオリックスへのトレードとなった。オリックスでは4年ぶりの2ケタ勝利やシーズン3完封を果たすも、怪我に悩まされることとなる。
  • 2012年シーズンオフにFA宣言をして、古巣であるホークスへの復帰が決まった。背番号は「11」へ。このFAにより人的保障が発生し、当時ちょうど一緒にトレーニングを行っていた馬原がその対象となったことに、本人はもちろん住民の多くが衝撃で言葉を失った(もちろん寺原は悪くない)。馬原からは「気にするな」と言われたとのこと。
    • ちなみにその自主トレには他に、ホークスでは攝津、檻からも西や海田などが参加しており、そのあまりのタイミングの悪さに「どんな会話するんだよ」という声も飛んだ。

  • 2013年シーズンは、4月24日に登板するも3回持たず。息子が学校で友人から悪意はないものの「ダメだったね」とド畜生な声を掛けられ、悔しそうにしていたことに「しっかりしないといけない」と発奮。5月1日には8回1失点の好投で、ホークスでは06年7月16日以来となる2481日ぶりの勝利をあげた。しかし、その後は故障もあって負けが重なり悔しい一年となった。
  • 2014年からは背番号が「20」に戻るということで、背番号「11」の呪いから逃れ、好成績をおさめることができるか…?
  • 迎えた2014年4月16日の楽天戦で、7度目の正直で勝利すると、史上3人目の13球団勝利達成となった。それも右腕では史上初と、プロ野球記録に名前を刻むことに。
    • また、この記録の他の達成者は工藤公康と杉内だったこともあり、蓋を開けてみると全員ホークス関係者となった。
  • 右膝の出術後は、膝に負担のかからないフォームを模索したり、毎週膝にたまる水を抜き注射などをこなしつつ、先発・中継ぎで結果を残し8勝をマーク。途中チームを離れることはあったものの存在感を発揮した。


エピソード


  • 誕生日は10月9日で、チームメイトのギータと同じ。
  • 元チームメイトの有馬とは出身高校が同じ。
  • 延岡学園のエースだった神内は高校時代からのライバルで、互いを意識したコメントを昔からよく発言していた。
  • チキン南蛮が大好き。
  • ダイエー時代初勝利の時、大越・坊西に「高卒初勝利のやつはマウンドまでボールを取りに行くんだ」と騙され、マウンドまでダッシュしている。
  • 新垣がよく可愛がっており、寺原移籍の際にも「ショック」とコメントを寄せている。また、2013年シーズンから球団に復帰すると「何でお前、ここにいるんだよ」と早速いじられたようだ。
  • ホークスの釣り部の一人で、昔から城島や馬原とよく釣りに出かけている。
  • FAで人的保障が馬原に決まった際には、曰く「ショックだった。ヘコみました」そうだが、馬原に電話越しに激励してもらったり、馬原夫人に「気にしないで」と声をかけてもらったことで気を持ち直したそう。
  • 移籍後、内川から「ホークス生え抜きの俺が外様のお前をビシビシ鍛えてやるから覚えとけよ!!」と体を張ったメッセージのメールを送られるも、「内川さんも外様やろ!」とツッコミで返信。
  • 2012年の檻選手会プロデュースデーの企画「野球戦隊バファローズ」では、バイオレットストレートかなりノリノリで演じてみせる。

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最終更新:2015年11月08日 00:17