斉藤和巳

背番号66 投手兼リハビリ担当コーチ 右投右打

  • 色んな意味でレジェンドなお人で、今でも「エースと言えば和巳」と譲らない住民も多い。
  • 1995年にドラフト1位指名で南京都高校から入団。
  • ホークスファン内では、「吼えるピッチャー」「負けないエース」と言えばこの人。コンスタントに140km/h後半を計時する最速152km/hのストレートと多彩な変化球、140km/h台のフォークが武器。


入団後


  • 入団から三年ほどは肩関節を痛めるなど故障が多く、思うように活躍ができなかったものの、2003年には王監督に開幕投手に大大大抜擢されると、前年4勝からいきなり大飛躍。20勝3敗で沢村賞を受賞。
  • 2004年シーズンは規定投球回に達した投手ではプロ野球史上ワーストの防御率6.26を記録するも、味方の脅威の援護率(後述参照)もあり10勝7敗と二年連続二桁勝利をゲット。
  • 2005年は復活を遂げ、開幕投手こそ故障で和田に譲るも、プロ野球記録タイとなる開幕15連勝を達成。最終的に16勝1敗という圧巻の成績を残し、最高勝率に輝く。
  • 2006年は選手会長に就任。18勝5敗という成績で、投手5冠王、パリーグ史上初の2回目の沢村賞を獲得。6月9日の巨人戦では杉浦忠以来42年ぶり準完全試合を達成。打者27人を1安打に抑えた(内野安打を許した脇谷は牽制死)。特にこの年のCSでは鬼神のような投球を見せながら日ハムに敗れ、泣き崩れる場面が多くの鷹ファン、野球ファンの心に刻まれた。
  • 2007年シーズンも6勝3敗をあげるも、だましだまし使っていた肩の具合が悪化し、結局このシーズンを最後に一軍のマウンドから遠ざかり、長いリハビリ生活に入った。しかし本人は「プロとしては間違っていただろうが、この選択を後悔はしていない」と後に語っている。

主な獲得タイトル(2003-2007年)
最多勝:2回 (2003年、2006年)
最優秀防御率:2回 (2003年、2006年)
最多奪三振:1回 (2006年)
最高勝率:3回 (2003年、2005年、2006年) ※最優秀投手として表彰
投手五冠:1回 (2006年、プロ野球史上7人目)
表彰
最優秀投手:3回 (2003年、2005年、2006年)
沢村賞:2回 (2003年、2006年)
ベストナイン:2回 (2003年、2006年)
最優秀バッテリー賞:2回 (2003年、捕手:城島健司、2006年、捕手:的場直樹)
月間MVP:3回 (2003年6月、2005年8月、2006年8月)

援護率
2003年 援護率5.62
2004年 援護率6.73
2005年 援護率6.83
2006年 援護率4.85

  • リハビリ中は、一緒にリハビリを行っていた柳瀬らが感銘を受けるほど誰よりも真摯にリハビリを行うかたわら、ブロガーやリハビリコーチとしての才能を開花させていたが、2012年は春季キャンプに参加。夏には実戦復帰登板の可能性が示唆され、術後初めてバッティングピッチャーとして打者相手に投げるなど、野球chの注目を集めていた。
  • 2013年シーズンからは、同姓の斉藤学が3軍リハビリ担当兼ファーム巡回コーチを務めることとなったため、「3軍」「リハビリコーチ」「斉藤」が二人いるという何ともややこしい事態が発生した。
  • 「ひょっとして」が叶うなら、たった一球でも投げているところを見たい、泣く準備はできているというのがたかせんの総意であったが、師匠の小久保が引退した翌年である2013年7月、引退と退団を発表。プロ通算150試合に登板ながら、79勝23敗、防御率3.33、生涯勝率は7割と、「負けないエース」の呼び名にふさわしい圧倒的な数字を残してホークスを去ることとなった。
  • コーチとしての腕も確かなものであったため、その経験や技術をいつか多くの若鷹に届けてほしい。
    鷹のエースとしてチームを牽引してきた功績はこれからも鷹ファンのみならずすべてのプロ野球ファンの心に残り続けるであろう。18年間本当にお疲れ様でした。引退会見では「悔いが残っているというか、悔いしかない」とコメントし、ファンの涙を誘った。
  • 2013年9月28日には引退セレモニーを開催。試合前にはかつてのチームメイトでありゲスト・城島とバッテリーを組み、メモリアル始球式を行った。つまり、負けないエースが実質登板したこととなり、その甲斐もあってか試合も劇的なサヨナラ勝ちをおさめた。試合後にはファンにメッセージを伝え、大きな、大きな拍手に包まれた。さらに後日更新したブログでは「最高!!幸せや!!野球の神様ありがとうございました!」と綴っている。本当にありがとう。そして本当におつかれさまでした。

  • 2013年11月に、今後はTVQで野球解説者を務めることが決まる。「負けないエース」らしく、初解説試合ではチームを勝利へ導いた。



エピソード


  • 現鴎の的場とは同級生で、当時は城島が正捕手として地位を確立していたため「こんな時に入団するなんて運が悪いヤツ。でもこれも何かの縁や」と、自身の登板時には女房役に的場と決めていた。2006年2回目の最優秀バッテリー賞はその的場と。
  • 2003年以前から落合さんに著書で「二軍に物凄い選手がいる」と絶賛されたり、当時からレジェンドクラスだったダルビッシュに「来年は斉藤さんが復帰するから楽しみ」と言われたりしていた。しかしその来年どうなったかは(ry。未だに、この人の最盛期とダルの最盛期とではどちらがすごいかということで熱い議論がかわされるほどである。
    • 2012年にメジャー移籍を決めたダルビッシュが、会見でも名前を出している。
(NPB在籍7年間で一番印象に残っていることは?と訪ねられ)
ダル「自分が投げた試合ではないですが、06年のプレーオフ(対ソフトバンク)。斉藤和巳さんが投げていて、サヨナラの場面。9回裏の先頭打者のひちょり(森本)さんがフォアボールで出た場面、それはよく覚えています。
ベンチ裏の陰から見ていて、すごい声援で、斉藤さんが雰囲気に圧倒されて、確かストレートのフォアボールだった。

こんな大投手でもファンの声援には勝てないのかと思った。
そこからより強くファンのためにと思うようになった。
今でも声援のすべてを覚えています」
  • 小久保のことを大変尊敬しており、引退会見内では、小久保がHRを放ちプロ初勝利をした試合で、一緒にお立ち台に立てたことが一番思い出深いと述懐している。ちなみに小久保が今までで一番印象に残っているホームランは、巨人に移籍した後の交流戦で斉藤和巳から打った時とのこと。
    • 2012年5月22日には小久保2000本安打達成の瞬間を見届けようと、試合を現地で観戦する姿がテレビに映る。もちろん、久々の登場にたかせん民騒然。
    • 2000本安打達成はヤフドで行われたこともあり、しっかり観戦している姿が再度映った。
  • 一番印象に残っているシーズンは優勝した2003年。特に、日本シリーズで3連敗し福岡に戻って来た際、大勢のファンが待ち構えていると知り色々言われるのだろうと身構えていたところ、たくさんの激励の言葉を掛けてくれて鳥肌が立ったと語っている。
  • 2006年CSでマウンドに上がった際には
勝てば福岡に帰れる!福岡に帰れば、ホークスファンがいる!そうすれば、どうにかなる!そんな気持ちでマウンドに上がったから、
それが叶うんやったら、この体…この肩くらい、なんぼでも削ったる!
と強く思っていたと引退後に語っている。
  • 2011年オフには長谷川と同日に女性タレントと再婚したり、同期のが引退して戻って来る事態に。同期が再びそろってグラウンドに立つ姿が再び見られるかもしれない(雁ノ巣で)。
  • 元燕の石井弘寿とはリハビリ仲間で、彼の引退の報せに意志を継いで自分は諦めないと語っていた。
  • よくスレなどで使われている「コラコラコラコラ~ッ!(`o´)」の組み合わせを実際に本人が使ったことはない。
  • 同様に、「でも、それを含めて “俺”やから…!」ネタは、リハビリに向けて頑張っている自分を鼓舞だとかではなく、ブログ記事で漢字を間違えたことに対する弁解である。
  • コーチとしての才能はまだ未知数だが、新垣岩嵜らに投球アドバイスした話が散見されている。
  • 福岡出身のバンド・ビーグルクルーは、この人のブログ登場より知名度アップ。選手の何人かは彼らの歌を登場曲に使用している。
  • 自身の開いた飲み会に、呼んでもいないのになぜかばっさんが来たことがある。

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最終更新:2014年10月10日 23:24