国別キャラ - ロマーニャ公国

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&bold(){ストライクウィッチーズ世界のウィッチ一覧を作ろう!} -修正、追記、変更などの[[編集>編集ガイド]]はお気軽に。 -記述の体裁など細かいことは気が向いた人がやってくれるでしょう。 -&b(){2010年9月19日に[[ページの分割について提案>http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/anime/7207/1224953883/290-]]されました。編集人の方はご意見をお願いします。} &bold(){注意:各ウィッチの英字表記・誕生日はイメージモデル等からの推測も含まれます。} ---- #region(close,ロマーニャ公国) #contents #endregion ---- &aname(romagna) *ロマーニャ公国 イメージモデル [[イタリア王国>http://ja.wikipedia.org/wiki/イタリア王国]]/[[イタリア社会共和国>http://ja.wikipedia.org/wiki/イタリア社会共和国]] ---- &aname(romagna_air) **ロマーニャ空軍 イメージモデル [[イタリア王国空軍>http://en.wikipedia.org/wiki/Regia_Aeronautica]]/[[共戦国空軍>http://en.wikipedia.org/wiki/Italian_Co-Belligerent_Air_Force]]/[[共和国国民空軍(ANR)>http://en.wikipedia.org/wiki/Aeronautica_Nazionale_Repubblicana]] ***ジョヴァンナ・ボネ &strong(){GIOVANNA BONET} -所属 --ロマーニャ空軍[[モンテフスコ・ボネ補助飛行隊>http://it.wikipedia.org/wiki/Squadriglia_complementare_d'allarme_%E2%80%9CMontefusco-Bonet%E2%80%9D]] ---ロマーニャ防衛に当たっていたリベリオン325戦闘航空群の支援任務のための部隊。 ---名目上は支援だが実際は派遣に等しく、共に防衛を行なっていた。 -階級 大尉 -誕生日 7月24日 -使用機材 --[[ファロット G55>http://ja.wikipedia.org/wiki/G.55_%28%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%29]](MM91065号機) --ファロット G55S(MM91147号機) -イメージモデル [[ジョヴァンニ・ボネ>http://saladeguerra.blogspot.com/2010/01/giovanni-bonet.html]] (1914-1944) --撃墜数 8 --その他 ---イタリアと連合国の休戦後にANRのモンテフスコ補助飛行隊に参加。 ---1944年3月29日に[[フィアットG.55>http://ja.wikipedia.org/wiki/G.55_%28%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%29]]でB-17を1機落とした後にアメリカ第325戦闘航空群のエース、[[ハーシェル・グリーン>http://en.wikipedia.org/wiki/Herschel_Green]]に撃墜されて戦死。 -出典 第五〇一統合戦闘航空団全記録 第三集/第五〇一統合戦闘航空団全記録弐 第三集 //参考・http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_World_War_II_aces_from_Italy //http://it.wikipedia.org/wiki/Squadriglia_complementare_d%27allarme_%E2%80%9CMontefusco-Bonet%E2%80%9D //http://surfcity.kund.dalnet.se/italy_torresi.htm ***&aname(シルヴィ・カリエッロ,option=nolink){}[[シルヴィ・カリエッロ]] #include_cache(シルヴィ・カリエッロ) ***&aname(ジュゼッピーナ・チュインニ,option=nolink){}[[ジュゼッピーナ・チュインニ]] #include_cache(ジュゼッピーナ・チュインニ) ***&aname(マルチナ・クレスピ,option=nolink){}[[マルチナ・クレスピ]] #include_cache(マルチナ・クレスピ) ***&aname(フェデリカ・N・ドッリオ,option=nolink){}[[フェデリカ・N・ドッリオ]] #include_cache(フェデリカ・N・ドッリオ) ***ユーナ・ドラーゴ &strong(){UNA DRAGO} -所属 ロマーニャ空軍第150航空群第363飛行隊長 -階級 大尉 -誕生日 3月3日 -使用機材 --[[ファロット G55>http://ja.wikipedia.org/wiki/G.55_%28%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%29]](MM91077号機) --[[メッサーシャルフ Bf109G-2>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%88_Bf109]] -その他 --大戦初期はバルカン半島で、その後は北アフリカやシチリア島で船団護衛任務を行なった。 -イメージモデル [[ウーゴ・ドラーゴ>http://it.wikipedia.org/wiki/Ugo_Drago]] (1915-2007) --撃墜数 17 --その他 ---ローマ体育大学で学位を得、教職の後空軍に志願。 ---1939年に操縦資格を取得し、仮少尉として[[CR.42>http://ja.wikipedia.org/wiki/CR.42_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)]]装備の第150航空群第363飛行隊に配属されると、1942年6月には指揮官となり休戦までこの航空群に留まる。 ---ギリシャ軍との戦闘で初戦果を挙げるが、後に船団護衛と戦術支援任務のため北アフリカに配置変更、その後シチリアに移動し、イタリア王軍空軍部隊として初めて[[Bf109G>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%88_Bf109]]に機種転換。 ---[[イタリア王国>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%8E%8B%E5%9B%BD]]の[[降伏>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E8%AC%9B%E5%92%8C_(%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6)]]後は[[共和国>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD]]側に移り第II戦闘航空団に参加。第1(後に第4と改称)飛行隊長となり[[G.55>http://ja.wikipedia.org/wiki/G.55_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)]]・Bf109Gで個人撃墜11機を挙げ大尉に進級。ヨーロッパ戦終結時には[[マーリオ・ベッラガンビ>http://saladeguerra.blogspot.com/2008/06/mario-bellagambi.html]]大尉と並びANR(イタリア社会共和国国民空軍)最多撃墜エースとなった。 ---戦後はアルゼンチンに移住し飛行教官の職を得る。1953年帰国、[[アリタリア航空>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2-%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E8%88%AA%E7%A9%BA]]に入社し機長となった。 -出典 第五〇一統合戦闘航空団全記録弐 第三集 ***&aname(フランチェスカ・ルッキーニ,option=nolink){}[[フランチェスカ・ルッキーニ]] #include_cache(フランチェスカ・ルッキーニ) ***&aname(フェルナンディア・マルヴェッツィ,option=nolink){}[[フェルナンディア・マルヴェッツィ]] #include_cache(フェルナンディア・マルヴェッツィ) ***テレーザ・マルティノーリ &strong(){TERESA MARTINOLI} -所属 ロマーニャ空軍第4航空団第9航空群第73飛行隊 -階級 曹長 -誕生日 3月26日 -使用機材 --[[ファロット G55>http://ja.wikipedia.org/wiki/G.55_%28%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%29]](73-4号機) -その他 --ロマーニャ公国最強のエースウィッチ。 --優れた視力、射撃の腕、敵発見の能力を兼ね備える。 -イメージモデル [[テレシオ・マルティノーリ>http://surfcity.kund.dalnet.se/italy_martinoli.htm]] (1917-1944) --フルネーム テレシオ・ヴィットリオ・マルティノーリ --撃墜数 22 ---第二次世界大戦における撃墜数ではイタリア第一位。 --その他 ---グライダー操縦士のライセンスを取得し、動力機の訓練を受け操縦記章に進み資格を得るとイタリア軍の動員により空軍に徴兵され、ゲーディで飛行訓練を受け卒業して軍曹となる。 ---初め第53航空団第151航空群第366飛行隊、次いでシチリア島トラーパニの第157航空群第384飛行隊に転出し、開戦後は[[CR.42>http://ja.wikipedia.org/wiki/CR.42_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)]]を乗機としチュニス上空で初戦果を挙げる。 ---リビアへ転出し戦果を伸ばすが[[MC.200>http://ja.wikipedia.org/wiki/MC.200_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)]]への機種改変のため帰国、後[[MC.202>http://ja.wikipedia.org/wiki/MC.202_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)]]に改変すると劇的に戦果を伸ばす。 ---ロンメルの大攻勢に参加するため部隊をあげて北アフリカに戻り、連合軍相手にスコアを重ねるが、1943年になると本土防衛を命じられ[[MC.205V>http://ja.wikipedia.org/wiki/MC.205_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)]]を駆り戦う。この時の戦いで同僚のルッキーニとフェルッリは戦死。 ---[[イタリア王国>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%8E%8B%E5%9B%BD]]の[[降伏>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E8%AC%9B%E5%92%8C_(%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6)]]後は第4航空団の大多数の同僚共々[[共和国>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD]]側に参加するが、1944年8月25日、支給されたばかりの[[P-39>http://ja.wikipedia.org/wiki/P-39_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)]]への転換教育中に事故死。 ---[[ジューリオ・レイネル>http://surfcity.kund.dalnet.se/italy_reiner.htm]](撃墜数10。マルティノーリが第73飛行隊にいたときの隊長)は「彼の慎重で打ち解けない性格の背後には、視力抜群の戦闘機操縦士がいて、射撃の腕は名人芸だった。実際、敵の存在をかぎつけることにかけては、マルティノーリには第六感があるのかと思えたほどで、我々がまだ誰も気づかぬうちに、いつも彼は相手を見つけていた」とマルティノーリについて回想してる。 -出典 第五〇一統合戦闘航空団全記録 第三集 ***&aname(ルチアナ・マッツェイ,option=nolink){}[[ルチアナ・マッツェイ]] #include_cache(ルチアナ・マッツェイ) ***カルラ・ルースポリ &strong(){CARLA RUSPOLI} -フルネームはカルラ・マウリツィア・ジュゼッピーナ・エドガルダ・デイ・プリンチペッサ・ルースポリ(Carla Maurizia Giuseppina Edgarda dei Principessa Ruspoli)であると推測される。 -所属 --ロマーニャ空軍第4航空団第9航空群第73飛行隊長 --ロマーニャ空軍航空映画部 -階級 大尉 -誕生日 8月25日 -使用機材 --[[ファロット G55>http://ja.wikipedia.org/wiki/G.55_%28%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%29]](91-3号機) -その他 --ロマーニャ公国空軍映画部部長で、自ら飛行しての空撮もこなす。 ---ウィッチのお尻からのアングルが得意。迫力のある映像の為の構図だと新聞で主張している。 ---どこからともなく接近し決定的なショットを撮影する事から、加東少佐共々ステルス能力を持っているのではないかとさえ思われる事が多かった。(闇文twitter) ---その撮影フィルムは膨大な量にのぼり、うち幾つかは貴重なカラーフィルムが使用されている事から、ストライカーユニットのカラーリングからウィッチのズボンに至るまで詳細な資料となっている。(闇文twitter) ---カールスラントの宣伝省から、同国宣伝映画の撮影の為に第501統合戦闘航空団への出向を依頼される。(秘め歌コレクション 3) ---一連の『第五〇一統合戦闘航空団全記録』に掲載されている写真(アニメ本編画像)の大半はルースポリ大尉の撮影によるものとされている。 -イメージモデル カルロ・ルースポリ (1906-1947) --フルネーム カルロ・マウリツォ・ジュゼッペ・エドガルド・デイ・プリンチピ・ルースポリ ---一般には「カルロ・マウリツォ・ルースポリ・ディ・ポッジオ・スアーザ」という名前で知られる。 --撃墜数 10 --その他 ---古代から続く貴族の[[ルースポリ家>http://en.wikipedia.org/wiki/Ruspoli]]の一族で[[ポッジオ・スアーザ>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%83%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B6]]二代目領主の[[マリオ・ルースポリ>http://en.wikipedia.org/wiki/Mario_Ruspoli,_2nd_Prince_of_Poggio_Suasa]]の息子。 ---乗機の[[マッキMC.200>http://ja.wikipedia.org/wiki/MC.200_%28%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%29]]に映画撮影カメラを取り付け、ギリシャとロシアの両戦線で空戦をフィルムに収めた。これはもともと私的な記録が目的だったが、すぐに公的に実施する裁可が下りて、イタリア王立空軍内に航空映画部が設立されると共に彼はその部長に任命された。 ---[[第91飛行隊の指揮官>http://www.youtube.com/watch?v=ZiFgHdqo4wk&fmt=18]]として北アフリカで[[エル・アラメインの戦い>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84]]などイギリス空軍と戦う。 ---少佐に進級の後、空軍省勤務となりローマに帰還。法律の学位を持ち3ヶ国語に堪能だったため[[ネルソン>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3_(%E6%88%A6%E8%89%A6)]]艦上での[[バドリオ>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%AA]]元帥と[[アイゼンハワー>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%BBD%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%83%BC]]大将が会談した際、通訳を務める。 ---ドイツ軍占領下にあるローマに空からビラを撒く任務を成功させる。 -出典 第五〇一統合戦闘航空団全記録 第三集/秘め歌コレクション 3/『紅の魔女たち』 ***アウローラ・サンソン &strong(){AURORA SANSON} -所属 ロマーニャ空軍第II戦闘航空群第5飛行隊 --通称「赤い悪魔(ディアヴォロ・ロッソ)」。 --カールスラント軍と共同作戦を行なった。 -階級 准尉 -使用機材 --[[ファロット G55>http://ja.wikipedia.org/wiki/G.55_%28%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%29]](黄の5号機) ---カールスラント風の迷彩が施されており、Bf109Gと誤認される事もあった。 -イメージモデル アッティーリオ・サンソン --撃墜数 12 -出典 第五〇一統合戦闘航空団全記録弐 第三集 ***エンリーカ・タラントラ &strong(){ENRICA TARANTOLA} -所属 --ロマーニャ空軍第51航空団第20航空群第151飛行隊 --[[赤ズボン隊>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%84%E9%9A%8A]]〝パンタローニ・ロッシ〟 ---書類上はその他三軍から独立した指揮権があるロマーニャ公室直属精鋭部隊。 -階級 准尉 -誕生日 1月19日 -愛称 「バナナ」 -使用機材 --[[ファロット G55>http://ja.wikipedia.org/wiki/G.55_%28%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%29]](151-2号機) -その他 --実家が八百屋。 --「赤ズボン隊」の一員で、一時期ドッリオ少佐の僚機を務めていた。 --マルタ島防衛時に、後に第504統合戦闘航空団に招聘されたブリタニアのシェイド中尉と意気投合する。 -イメージモデル [[エンニオ・タラントラ>http://surfcity.kund.dalnet.se/italy_tarantola.htm]] (1915-2001) --愛称 「バナナ」 ---イタリア王立空軍に入る前は郷里[[コモ>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%A2]]のカヴール広場で果物売りだったことから。 --撃墜数 11 ---スペイン内戦における1機を含む。 --その他 ---機首に「Dai Banana!(それ行けバナナ!)」と書かれた[[マッキMC.202>http://ja.wikipedia.org/wiki/MC.202_%28%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%29]]で知られる。 ---果物売りの仕事に飽き、イタリア王立空軍に志願して戦闘機のパイロットに。 ---スペイン内戦に従軍し[[I-15>http://ja.wikipedia.org/wiki/I-15_%28%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%29]]を撃墜。 ---イタリアの第二次世界大戦参戦時には[[フィアットCR.32>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%88_CR.32]]装備の第155飛行隊に所属。 ---まもなく引き抜かれてジューゼッペイ・チェインニ率いるJu 87装備の急降下爆撃隊に転属。 ---駆逐艦[[ウォーターヘン>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%98%E3%83%B3_%28%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6%29]]に直撃弾を1発与える。このイタリア急降下爆撃隊とドイツ空軍による攻撃によりウォーターヘンは沈没。 ---その翌日、彼の乗るJu 87は海上で撃墜され救命筏で18時間漂流後に救助される。 ---この経験により急降下爆撃機のパイロットから戦闘機のパイロットに戻ることを決心。フィアット G.50装備の第155飛行隊に復帰。 ---第155飛行隊はマッキMC.202に機種改変。第151飛行隊においてはフリオ・ニクロ・ドッリオの僚機を務める。スピットファイア、P-40、P-38を撃墜するなど地中海の戦いで活躍。 ---イタリアの連合国への降伏後はANRのモンテフスコ・ボネ補助飛行隊に参加。 ---フィアットG.55から落下傘降下で脱出した際に重症を負い、治療中にヨーロッパにおける第二次世界大戦は終結。 ---戦後は定年まで空軍に勤務。 ---亡くなるまで彼を知るすべての人は彼を「バナナ」と呼んだ。 -出典 第五〇一統合戦闘航空団全記録 第三集/第五〇一統合戦闘航空団全記録弐 第一集/『アフリカの魔女 ケイズ・リポート』 ***ルイーサ・トルキオ &strong(){LUISA TORCHIO} -所属 ロマーニャ空軍独立第337飛行隊 -階級 中尉 -使用機材 --[[ファロット G55>http://ja.wikipedia.org/wiki/G.55_%28%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%29]](377-4号機) -その他 --ロマーニャ公国の数少ないナイトウィッチ。 -イメージモデル [[ルイージ・トルキオ>http://surfcity.kund.dalnet.se/italy_torchio.htm]] --撃墜数 5 --その他 ---夜間戦闘機型の[[フィアットCR.42>http://ja.wikipedia.org/wiki/CR.42_%28%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%29]]での戦果が1機ある。 -出典 第五〇一統合戦闘航空団全記録 第三集 ***&aname(アドリアーナ・ヴィスコンティ,option=nolink){}[[アドリアーナ・ヴィスコンティ]] #include_cache(アドリアーナ・ヴィスコンティ) ---- &aname(romagna_marina) **ロマーニャ海軍 イメージモデル [[イタリア王国海軍>http://en.wikipedia.org/wiki/R%C3%A8gia_Marina]] ***デ・ラ・ペンネ &strong(){DE LA PENNE} -所属 ロマーニャ海軍「デチマ・マス」部隊 -階級 中尉 -誕生日 2月11日 -その他 --『第五〇一統合戦闘航空団全記録弐 第二集』掲載写真の一部を撮影。 -イメージモデル [[ルイジ・ドゥランド・デ・ラ・ペンネ>http://en.wikipedia.org/wiki/Luigi_Durand_de_la_Penne]] (1914-1992) --その他 ---人間魚雷「マイアーレ」指揮官。 -出典 第五〇一統合戦闘航空団全記録弐 第二集 // 参考資料:http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_World_War_II_aces_from_Italy ----
&bold(){ストライクウィッチーズ世界のウィッチ一覧を作ろう!} -修正、追記、変更などの[[編集>編集ガイド]]はお気軽に。 -記述の体裁など細かいことは気が向いた人がやってくれるでしょう。 -&b(){2010年9月19日に[[ページの分割について提案>http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/anime/7207/1224953883/290-]]されました。編集人の方はご意見をお願いします。} &bold(){注意:各ウィッチの英字表記・誕生日はイメージモデル等からの推測も含まれます。} ---- #region(close,ロマーニャ公国) #contents #endregion ---- &aname(romagna) *ロマーニャ公国 イメージモデル [[イタリア王国>http://ja.wikipedia.org/wiki/イタリア王国]]/[[イタリア社会共和国>http://ja.wikipedia.org/wiki/イタリア社会共和国]] ---- &aname(romagna_air) **ロマーニャ空軍 イメージモデル [[イタリア王国空軍>http://en.wikipedia.org/wiki/Regia_Aeronautica]]/[[共戦国空軍>http://en.wikipedia.org/wiki/Italian_Co-Belligerent_Air_Force]]/[[共和国国民空軍(ANR)>http://en.wikipedia.org/wiki/Aeronautica_Nazionale_Repubblicana]] ***ジョヴァンナ・ボネ &strong(){GIOVANNA BONET} -所属 --ロマーニャ空軍[[モンテフスコ・ボネ補助飛行隊>http://it.wikipedia.org/wiki/Squadriglia_complementare_d'allarme_%E2%80%9CMontefusco-Bonet%E2%80%9D]] ---ロマーニャ防衛に当たっていたリベリオン325戦闘航空群の支援任務のための部隊。 ---名目上は支援だが実際は派遣に等しく、共に防衛を行なっていた。 -階級 大尉 -誕生日 7月24日 -使用機材 --[[ファロット G55>http://ja.wikipedia.org/wiki/G.55_%28%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%29]](MM91065号機) --ファロット G55S(MM91147号機) -イメージモデル [[ジョヴァンニ・ボネ>http://saladeguerra.blogspot.com/2010/01/giovanni-bonet.html]] (1914-1944) --撃墜数 8 --その他 ---イタリアと連合国の休戦後にANRのモンテフスコ補助飛行隊に参加。 ---1944年3月29日に[[フィアットG.55>http://ja.wikipedia.org/wiki/G.55_%28%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%29]]でB-17を1機落とした後にアメリカ第325戦闘航空群のエース、[[ハーシェル・グリーン>http://en.wikipedia.org/wiki/Herschel_Green]]に撃墜されて戦死。 -出典 第五〇一統合戦闘航空団全記録 第三集/第五〇一統合戦闘航空団全記録弐 第三集 //参考・http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_World_War_II_aces_from_Italy //http://it.wikipedia.org/wiki/Squadriglia_complementare_d%27allarme_%E2%80%9CMontefusco-Bonet%E2%80%9D //http://surfcity.kund.dalnet.se/italy_torresi.htm ***&aname(シルヴィ・カリエッロ,option=nolink){}[[シルヴィ・カリエッロ]] #include_cache(シルヴィ・カリエッロ) ***&aname(ジュゼッピーナ・チュインニ,option=nolink){}[[ジュゼッピーナ・チュインニ]] #include_cache(ジュゼッピーナ・チュインニ) ***&aname(マルチナ・クレスピ,option=nolink){}[[マルチナ・クレスピ]] #include_cache(マルチナ・クレスピ) ***&aname(フェデリカ・N・ドッリオ,option=nolink){}[[フェデリカ・N・ドッリオ]] #include_cache(フェデリカ・N・ドッリオ) ***ユーナ・ドラーゴ &strong(){UNA DRAGO} -所属 ロマーニャ空軍第150航空群第363飛行隊長 -階級 大尉 -誕生日 3月3日 -使用機材 --[[ファロット G55>http://ja.wikipedia.org/wiki/G.55_%28%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%29]](MM91077号機) --[[メッサーシャルフ Bf109G-2>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%88_Bf109]] -その他 --大戦初期はバルカン半島で、その後は北アフリカやシチリア島で船団護衛任務を行なった。 -イメージモデル [[ウーゴ・ドラーゴ>http://it.wikipedia.org/wiki/Ugo_Drago]] (1915-2007) --撃墜数 17 --その他 ---ローマ体育大学で学位を得、教職の後空軍に志願。 ---1939年に操縦資格を取得し、仮少尉として[[CR.42>http://ja.wikipedia.org/wiki/CR.42_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)]]装備の第150航空群第363飛行隊に配属されると、1942年6月には指揮官となり休戦までこの航空群に留まる。 ---ギリシャ軍との戦闘で初戦果を挙げるが、後に船団護衛と戦術支援任務のため北アフリカに配置変更、その後シチリアに移動し、イタリア王軍空軍部隊として初めて[[Bf109G>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%88_Bf109]]に機種転換。 ---[[イタリア王国>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%8E%8B%E5%9B%BD]]の[[降伏>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E8%AC%9B%E5%92%8C_(%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6)]]後は[[共和国>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD]]側に移り第II戦闘航空団に参加。第1(後に第4と改称)飛行隊長となり[[G.55>http://ja.wikipedia.org/wiki/G.55_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)]]・Bf109Gで個人撃墜11機を挙げ大尉に進級。ヨーロッパ戦終結時には[[マーリオ・ベッラガンビ>http://saladeguerra.blogspot.com/2008/06/mario-bellagambi.html]]大尉と並びANR(イタリア社会共和国国民空軍)最多撃墜エースとなった。 ---戦後はアルゼンチンに移住し飛行教官の職を得る。1953年帰国、[[アリタリア航空>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2-%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E8%88%AA%E7%A9%BA]]に入社し機長となった。 -出典 第五〇一統合戦闘航空団全記録弐 第三集 ***&aname(フランチェスカ・ルッキーニ,option=nolink){}[[フランチェスカ・ルッキーニ]] #include_cache(フランチェスカ・ルッキーニ) ***&aname(フェルナンディア・マルヴェッツィ,option=nolink){}[[フェルナンディア・マルヴェッツィ]] #include_cache(フェルナンディア・マルヴェッツィ) ***テレーザ・マルティノーリ &strong(){TERESA MARTINOLI} -所属 ロマーニャ空軍第4航空団第9航空群第73飛行隊 -階級 曹長 -誕生日 3月26日 -使用機材 --[[ファロット G55>http://ja.wikipedia.org/wiki/G.55_%28%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%29]](73-4号機) -その他 --ロマーニャ公国最強のエースウィッチ。 --優れた視力、射撃の腕、敵発見の能力を兼ね備える。 -イメージモデル [[テレシオ・マルティノーリ>http://surfcity.kund.dalnet.se/italy_martinoli.htm]] (1917-1944) --フルネーム テレシオ・ヴィットリオ・マルティノーリ --撃墜数 22 ---第二次世界大戦における撃墜数ではイタリア第一位。 --その他 ---グライダー操縦士のライセンスを取得し、動力機の訓練を受け操縦記章に進み資格を得るとイタリア軍の動員により空軍に徴兵され、ゲーディで飛行訓練を受け卒業して軍曹となる。 ---初め第53航空団第151航空群第366飛行隊、次いでシチリア島トラーパニの第157航空群第384飛行隊に転出し、開戦後は[[CR.42>http://ja.wikipedia.org/wiki/CR.42_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)]]を乗機としチュニス上空で初戦果を挙げる。 ---リビアへ転出し戦果を伸ばすが[[MC.200>http://ja.wikipedia.org/wiki/MC.200_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)]]への機種改変のため帰国、後[[MC.202>http://ja.wikipedia.org/wiki/MC.202_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)]]に改変すると劇的に戦果を伸ばす。 ---ロンメルの大攻勢に参加するため部隊をあげて北アフリカに戻り、連合軍相手にスコアを重ねるが、1943年になると本土防衛を命じられ[[MC.205V>http://ja.wikipedia.org/wiki/MC.205_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)]]を駆り戦う。この時の戦いで同僚のルッキーニとフェルッリは戦死。 ---[[イタリア王国>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%8E%8B%E5%9B%BD]]の[[降伏>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E8%AC%9B%E5%92%8C_(%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6)]]後は第4航空団の大多数の同僚共々[[共和国>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD]]側に参加するが、1944年8月25日、支給されたばかりの[[P-39>http://ja.wikipedia.org/wiki/P-39_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)]]への転換教育中に事故死。 ---[[ジューリオ・レイネル>http://surfcity.kund.dalnet.se/italy_reiner.htm]](撃墜数10。マルティノーリが第73飛行隊にいたときの隊長)は「彼の慎重で打ち解けない性格の背後には、視力抜群の戦闘機操縦士がいて、射撃の腕は名人芸だった。実際、敵の存在をかぎつけることにかけては、マルティノーリには第六感があるのかと思えたほどで、我々がまだ誰も気づかぬうちに、いつも彼は相手を見つけていた」とマルティノーリについて回想してる。 -出典 第五〇一統合戦闘航空団全記録 第三集 ***&aname(ルチアナ・マッツェイ,option=nolink){}[[ルチアナ・マッツェイ]] #include_cache(ルチアナ・マッツェイ) ***カルラ・ルースポリ &strong(){CARLA RUSPOLI} -フルネームはカルラ・マウリツィア・ジュゼッピーナ・エドガルダ・デイ・プリンチペッサ・ルースポリ(Carla Maurizia Giuseppina Edgarda dei Principessa Ruspoli)であると推測される。 -所属 --ロマーニャ空軍第4航空団第9航空群第73飛行隊長 --ロマーニャ空軍航空映画部 -階級 大尉 -誕生日 8月25日 -使用機材 --[[ファロット G55>http://ja.wikipedia.org/wiki/G.55_%28%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%29]](91-3号機) -その他 --ロマーニャ公国空軍映画部部長で、自ら飛行しての空撮もこなす。 ---ウィッチのお尻からのアングルが得意。迫力のある映像の為の構図だと新聞で主張している。 ---どこからともなく接近し決定的なショットを撮影する事から、加東少佐共々ステルス能力を持っているのではないかとさえ思われる事が多かった。(闇文twitter) ---その撮影フィルムは膨大な量にのぼり、うち幾つかは貴重なカラーフィルムが使用されている事から、ストライカーユニットのカラーリングからウィッチのズボンに至るまで詳細な資料となっている。(闇文twitter) ---カールスラントの宣伝省から、同国宣伝映画の撮影の為に第501統合戦闘航空団への出向を依頼される。(秘め歌コレクション 3) ---一連の『第五〇一統合戦闘航空団全記録』に掲載されている写真(アニメ本編画像)の大半はルースポリ大尉の撮影によるものとされている。 -イメージモデル カルロ・ルースポリ (1906-1947) --フルネーム カルロ・マウリツォ・ジュゼッペ・エドガルド・デイ・プリンチピ・ルースポリ ---一般には「カルロ・マウリツォ・ルースポリ・ディ・ポッジオ・スアーザ」という名前で知られる。 --撃墜数 10 --その他 ---古代から続く貴族の[[ルースポリ家>http://en.wikipedia.org/wiki/Ruspoli]]の一族で[[ポッジオ・スアーザ>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%83%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B6]]二代目領主の[[マリオ・ルースポリ>http://en.wikipedia.org/wiki/Mario_Ruspoli,_2nd_Prince_of_Poggio_Suasa]]の息子。 ---乗機の[[マッキMC.200>http://ja.wikipedia.org/wiki/MC.200_%28%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%29]]に映画撮影カメラを取り付け、ギリシャとロシアの両戦線で空戦をフィルムに収めた。これはもともと私的な記録が目的だったが、すぐに公的に実施する裁可が下りて、イタリア王立空軍内に航空映画部が設立されると共に彼はその部長に任命された。 ---[[第91飛行隊の指揮官>http://www.youtube.com/watch?v=ZiFgHdqo4wk&fmt=18]]として北アフリカで[[エル・アラメインの戦い>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84]]などイギリス空軍と戦う。 ---少佐に進級の後、空軍省勤務となりローマに帰還。法律の学位を持ち3ヶ国語に堪能だったため[[ネルソン>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3_(%E6%88%A6%E8%89%A6)]]艦上での[[バドリオ>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%AA]]元帥と[[アイゼンハワー>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%BBD%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%83%BC]]大将が会談した際、通訳を務める。 ---ドイツ軍占領下にあるローマに空からビラを撒く任務を成功させる。 -出典 第五〇一統合戦闘航空団全記録 第三集/秘め歌コレクション 3/『紅の魔女たち』 ***アウローラ・サンソン &strong(){AURORA SANSON} -所属 ロマーニャ空軍第II戦闘航空群第5飛行隊 --通称「赤い悪魔(ディアヴォロ・ロッソ)」。 --カールスラント軍と共同作戦を行なった。 -階級 准尉 -使用機材 --[[ファロット G55>http://ja.wikipedia.org/wiki/G.55_%28%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%29]](黄の5号機) ---カールスラント風の迷彩が施されており、Bf109Gと誤認される事もあった。 -イメージモデル アッティーリオ・サンソン --撃墜数 12 -出典 第五〇一統合戦闘航空団全記録弐 第三集 ***エンリーカ・タラントラ &strong(){ENRICA TARANTOLA} -所属 --ロマーニャ空軍第51航空団第20航空群第151飛行隊 --[[赤ズボン隊>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%84%E9%9A%8A]]〝パンタローニ・ロッシ〟 ---書類上はその他三軍から独立した指揮権があるロマーニャ公室直属精鋭部隊。 -階級 准尉 -誕生日 1月19日 -愛称 「バナナ」 -使用機材 --[[ファロット G55>http://ja.wikipedia.org/wiki/G.55_%28%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%29]](151-2号機) -その他 --実家が八百屋。 --「赤ズボン隊」の一員で、一時期ドッリオ少佐の僚機を務めていた。 --マルタ島防衛時に、後に第504統合戦闘航空団に招聘されたブリタニアのシェイド中尉と意気投合する。 -イメージモデル [[エンニオ・タラントラ>http://surfcity.kund.dalnet.se/italy_tarantola.htm]] (1915-2001) --愛称 「バナナ」 ---イタリア王立空軍に入る前は郷里[[コモ>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%A2]]のカヴール広場で果物売りだったことから。 --撃墜数 11 ---スペイン内戦における1機を含む。 --その他 ---機首に「Dai Banana!(それ行けバナナ!)」と書かれた[[マッキMC.202>http://ja.wikipedia.org/wiki/MC.202_%28%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%29]]で知られる。 ---果物売りの仕事に飽き、イタリア王立空軍に志願して戦闘機のパイロットに。 ---スペイン内戦に従軍し[[I-15>http://ja.wikipedia.org/wiki/I-15_%28%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%29]]を撃墜。 ---イタリアの第二次世界大戦参戦時には[[フィアットCR.32>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%88_CR.32]]装備の第155飛行隊に所属。 ---まもなく引き抜かれてジューゼッペイ・チェインニ率いるJu 87装備の急降下爆撃隊に転属。 ---駆逐艦[[ウォーターヘン>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%98%E3%83%B3_%28%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6%29]]に直撃弾を1発与える。このイタリア急降下爆撃隊とドイツ空軍による攻撃によりウォーターヘンは沈没。 ---その翌日、彼の乗るJu 87は海上で撃墜され救命筏で18時間漂流後に救助される。 ---この経験により急降下爆撃機のパイロットから戦闘機のパイロットに戻ることを決心。フィアット G.50装備の第155飛行隊に復帰。 ---第155飛行隊はマッキMC.202に機種改変。第151飛行隊においてはフリオ・ニクロ・ドッリオの僚機を務める。スピットファイア、P-40、P-38を撃墜するなど地中海の戦いで活躍。 ---イタリアの連合国への降伏後はANRのモンテフスコ・ボネ補助飛行隊に参加。 ---フィアットG.55から落下傘降下で脱出した際に重症を負い、治療中にヨーロッパにおける第二次世界大戦は終結。 ---戦後は定年まで空軍に勤務。 ---亡くなるまで彼を知るすべての人は彼を「バナナ」と呼んだ。 -出典 第五〇一統合戦闘航空団全記録 第三集/第五〇一統合戦闘航空団全記録弐 第一集/『アフリカの魔女 ケイズ・リポート』 ***ルイーサ・トルキオ &strong(){LUISA TORCHIO} -所属 ロマーニャ空軍独立第337飛行隊 -階級 中尉 -使用機材 --[[ファロット G55>http://ja.wikipedia.org/wiki/G.55_%28%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%29]](377-4号機) -その他 --ロマーニャ公国の数少ないナイトウィッチ。 -イメージモデル [[ルイージ・トルキオ>http://surfcity.kund.dalnet.se/italy_torchio.htm]] --撃墜数 5 --その他 ---夜間戦闘機型の[[フィアットCR.42>http://ja.wikipedia.org/wiki/CR.42_%28%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%29]]での戦果が1機ある。 -出典 第五〇一統合戦闘航空団全記録 第三集 ***&aname(アドリアーナ・ヴィスコンティ,option=nolink){}[[アドリアーナ・ヴィスコンティ]] #include_cache(アドリアーナ・ヴィスコンティ) ---- &aname(romagna_marina) **ロマーニャ海軍 イメージモデル [[イタリア王国海軍>http://en.wikipedia.org/wiki/R%C3%A8gia_Marina]] ***デ・ラ・ペンネ &strong(){DE LA PENNE} -所属 ロマーニャ海軍「デチマ・マス」部隊 -階級 中尉 -誕生日 2月11日 -その他 --『第五〇一統合戦闘航空団全記録弐 第二集』掲載写真の一部を撮影。 --&bold(){ウィッチとは明言されていない。} -イメージモデル [[ルイジ・ドゥランド・デ・ラ・ペンネ>http://en.wikipedia.org/wiki/Luigi_Durand_de_la_Penne]] (1914-1992) --その他 ---人間魚雷「マイアーレ」指揮官。 -出典 第五〇一統合戦闘航空団全記録弐 第二集 // 参考資料:http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_World_War_II_aces_from_Italy ----

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