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第8話「君を忘れない」の元ネタ解説翻訳

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目次

Operation Dynamo // Kdf-Wagen


The Dunkirk evacuation, codenamed Operation Dynamo by the British, was the
evacuation of Allied soldiers from the beaches and harbour of Dunkirk, France,
between May 26 and June 4, 1940, when British and French troops were cut off by the
German army during the Battle of Dunkirk in the Second World War.

On the first day only 7000 men were evacuated but by the ninth day, 338,226 soldiers
were rescued by a hastily assembled fleet of 860 boats. Many of the troops were able
to embark from the harbour's protective mole onto 42 British destroyers and other
large ships, while others had to wade from the beaches toward the ships, waiting for
hours to board, shoulder deep in water. Others were ferried from the beaches to the
larger ships, and thousands were carried back to England, by the famous "little ships
of Dunkirk", a flotilla of around 700 merchant marine boats, fishing boats, pleasure
craft and RNLI lifeboats whose civilian crews were called into service for the
emergency.

Operation Dynamo took its name from the dynamo room in the naval headquarters
below Dover Castle. It was in this room that British Vice Admiral Bertram Ramsay
planned the operation and briefed Winston Churchill as it was underway.


Initially called the Porsche 60 by Ferdinand Porsche, it was officially named the KdF-
Wagen when the project was launched. The name refers to Kraft durch Freude
(Strength Through Joy), the official leisure organization in the Third Reich. It was later
known as the Type 1, but became more commonly known as the Beetle after WWII.

Prototypes appeared from 1931 onwards; the first prototypes were produced by
Zlindapp in Nurnberg, Germany, the Porsche Type 12. Next prototype series (Porsche
Typ 32) was built in 1933 by NSU, another motorcycle company.

The factory had only produced a handful of cars by the time war started in 1939.
Consequently, the first volume-produced versions of the car's chassis were military
vehicles, the Kubelwagen Typ 82 and the amphibious Schwimmwagen Typ 166.

The car was designed to be as simple as possible mechanically, so that there was
less to go wrong; the aircooled 985 cc 25 horsepower (19 kW) motors proved
especially effective in actions of the German Afrika Korps in Africa's desert heat. This
was due to the built-in oil-cooler, and the superior performance of the flat-4 engine
configuration. The innovative suspension design used compact torsion bars instead
of coil or leaf springs.

ダイナモ作戦


ダンケルク撤退は英国の実施した作戦で、ダイナモ作戦という作戦名が与えられた。第二次世界大戦中、英国大陸派遣軍とフランス軍はダンケルクの戦いでドイツ陸軍に追い詰められて、連合軍の兵士たちが、1940年5月4日から同年7月26日にかけて、フランスのダンケルクの海岸や港から撤退した作戦である。
作戦発動の初日には、7,000名の人員しか撤退できなかったが、860隻の艦船が急遽かき集められ、にわか作りの船団ながらも、9日目には338,226名もの兵士が救出された。
軍人の多くは、港の防波堤から42隻の駆逐艦や大型艦に乗り込むことができた。しかし、それ以外の者たちは、何時間も待ち続けた挙句、海の中を肩まで海水につかって、海浜から船まで自力でたどりつかねばならない羽目になった。またそのほかにも、海浜から渡し船で大型艦船に乗り込んでイギリスに戻った者もあった。さらに、民間の船員が臨時徴用され、小型貨物船、漁船、レジャー・ボートや、王立救命艇国民協会 [RNLI: Royal National Lifeboat Institution]が700艘もの船団を組んだ、あの有名な「ダンケルクの小船たち」に乗って、何千人もの人員がイギリス本国に帰還することができた。
ダイナモ作戦の名称は、発電機[dynamo]のあるドーバー城の地下に海軍指揮所が置かれており、その一室(dynamo room)にちなんだものである。その部屋で、英国海軍中将バートラム・ラムゼイが作戦を立案し、そしてウィンストン・チャーチルに作戦の進捗情況の概要を説明した。


(翻訳を修正してくれる有志求む)


歓喜力行団の車
(フォルクスヴァーゲン・ビートル/フォルクスヴァーゲン・タイプ1)
Kraft durch Freude

当初、フェルディナント・ポルシェはポルシェ60と命名していたが、国民車計画が本格的にスタートした段階で、公式名称としてKdf-Wagenの名が与えられた。この名称のもととなったのは、Kraft durch Freude(歓喜力行団[訳注: Freude(歓喜・喜び)、Kraft(力・動力)])という団体であり、それは喜びによって発揮される力を意味した。この団体は、第三帝国[訳注: Reichは国土・領域を意味し、帝国の意味はない]のもとで官製的に組織された公的な親睦団体である。
第二次世界大戦が終結した後にタイプ1として名を改めたが、一般的にはビートル(カブト虫)の愛称で親しまれている。
この自動車のプロトタイプは1931年に誕生し、発展を続けた。最初の原型は、ツェンダップ社がドイツのニュルンベルクで作ったポルシェ・タイプ12であった。その次に試作されたシリーズ(ポルシェ・タイプ32)は、1933年にNSUというオートバイ・メーカーの手によるものであった。
1939年の開戦時までに、この自動車が生産された台数は、ごくわずかにすぎなかった。
その結果、この自動車の車台を利用して最初に量産された型式は、軍用車輌のキューベルヴァーゲン82型および水陸両用車シュヴィムヴァーゲン166型となった。
Kdf-Wagenという自動車の機構は、できるかぎりシンプルに設計されていたから、故障も少なかった。排気量985ccで出力25馬力(19キロワット)の発動機は、とりわけ灼熱のアフリカ砂漠で戦うドイツアフリカ軍団の戦闘において、大いに真価を発揮した。それが可能であったのも、組み込み式のオイル・クーラーに負うところが大きい。そればかりか、水平対向4気筒エンジンの配置が、優れた性能を引き出している。革新的な形式のサスペンションは、コイル・スプリング[つる巻きばね]やリーフ・スプリング[板ばね]に替えて、コンパクトなトーションバー[ねじりばね]を採用した設計となっている。

(写真内の文字「Volkswagenwerk社で製造した最初のKdf-Wagen」)


(翻訳を修正してくれる有志求む)


Walther PPK


The Walther PPK, the Polizeipistole Kriminalmodell (Police Pistol Detective Model),
indicating it was more concealable than the original PP and hence better suited to
plainclothes or undercover work. It is a smaller version of the PP (Polizeipistole) with
a shorter grip and barrel and lesser magazine capacity. Sometimes, the name
Polizeipistole Kurz (Short Police Pistol) is given, but this incorrect.

The PP was released in 1929 and the PPK in 1931; both popular with European police
and civilian shooters, for being reliable and concealable. During World War ll they
were issued to the German military and police, the Luftwaffe, and Nazi Party officials:
Adolf Hitler killed himself with his PPK in the Fuhrerbunker in Berlin.

The PP and the PPK were among the world's first, successful double action semi-
automatic pistols that were widely copied, but still made by Walther.

ワルサーPPK

ワルサーPPKは先行して発売されたワルサーPPの小型版「Polizei Pistole Kriminalmodell(探偵、私服警官用モデル)」である。
中型拳銃であったPPよりも小型という点を生かし、私服警察官や潜入捜査官によって使用された。
オリジナルのPPよりもグリップやバレルが短く、装弾数も少ないことから「Polizei Pistole Kurz(警察用短銃身モデル)」とも呼ばれるが、これは誤りである。
PPは1929年に、PPKは1931年に発売され、その信頼性と安定性の高さから、ヨーロッパでは警察のみならず民間でも広く使用されている。
第二次世界大戦の間はドイツの軍、警察、ナチ党の制式拳銃とされ、ベルリンのフューラーブンカーでヒトラーが自殺に用いたのもPPKである。

PPとPPKは世界で初めて成功した、ダブルアクションによるセミオートマティックピストルであり、
その機構が広くコピーされ、今日においてもワルサー社で製造が続けられている。
(翻訳を修正してくれる有志募集!)




Minna singing "Lili Marleen"


Lili Marleen is a famous German love song which became very popular on both sides
during World War II.

This love song, telling the story of a young woman waiting for her lover to return from
the battlefield, began as a poem written by Hans Leip during World War I. The soldier-
poet's words found their way to Berlin's decadent cabaret scene in the 1930s, where
they were set to music by one of Hitler's favored composers Lale Andersen.

The earliest English language recording of the song was probably Anne Shelton's, but
a number of cover versions followed.

ミーナの歌「リリー・マルレーン」
リリー・マルレーンはドイツのラブソングで、第二次世界大戦中のヨーロッパ・アフリカ戦線において枢軸・連合の両陣営で広く聞かれた曲である。
戦争に行った恋人の帰りを待つ若い女性の物語を描いたこのラブソングは、ドイツの詩人ハンス・ライプが、第一次世界大戦に従軍した際に書いた詩が元になっている。
その詩には1930年代、ベルリンのキャバレーで曲がつけられ、ヒトラーお気に入りの音楽家の一人であるララ・アンデルセンによってレコーディングされた。
最初に英語で歌ったリリー・マルレーンを録音したのはアン・シェルトンによるものと思われ、また数多のカバー・バージョンがその訳に従って録音されている。

※訳注:
当時、偶然にもアンデルセンが知己を得ていた複数の音楽家によって、同時多発的にこの詩を元にした作曲が試みられていた。完成した作品群の中から、アンデルセンがこの曲を選んだと言う。
また、アンデルセンがヒトラーのお気に入りゆえに歌手に選ばれたという説は事実ではない。現実にはレコーディング当時のアンデルセンは大部屋女優崩れの無名歌手でしかなく、最初のレコードは全国で六十枚程度しか売れなかった。その後、幾つもの偶然が重なりこの曲がブレイクしたのは第二次世界大戦中であり、その時アンデルセンは既に芸能人を廃業していた。
突如注目を浴びる事になったアンデルセンだったが、彼女が歌手を志していた頃とは世間の状況が変わってしまっていた。絶頂期は短期間であり、夫がユダヤ人であった事が発端となり、最後はゲシュタポの罠に嵌って失脚。政府により、彼女の歌ったリリー・マルレーンのマスター音源は廃棄された。
国外脱出計画が露見して逮捕された彼女の命を救ったのは、皮肉にも敵国の放送局であるBBCが流した「リリー・マルレーンのアンデルセン、収容所で死去」と言うデマ報道であった。BBCのニュースが間違っている事を証明する為に、政府はアンデルセンを生かしておかねばならなくなったのだ。

(翻訳を修正してくれる有志募集!)


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最終更新:2011年01月11日 03:46
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