海外紳士元ネタ解説2 > 8話


第8話「翼をください」の元ネタ解説翻訳

このページは常に有志の翻訳を募集中です。翻訳の修正はお気軽にどうぞ
  • 原文(英文)には手を加えないこと
  • 訳文への補足説明、誤認の指摘、修正などは注釈にて行うこと


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目次

Kilroy was here

Kilroy was here is an American popular culture expression, often seen in graffiti.
Its origins are debated, but the phrase and the distinctive accompanying doodle—a bald-headed man (possibly with a few hairs) with a prominent phallic nose peeking over a wall with the fingers of each hand clutching the wall—is widely known among U.S. residents who lived during World War II.
In Britain, the graffiti is known as "Mr. Chad" or just "Chad", and the Australian equivalent to the phrase is "Foo was here".
"Foo was here" might date from World War I, and the character of Chad may have derived from a British cartoonist in 1938, possibly pre-dating "Kilroy was here".
A Quincy, Massachusetts shipyard inspector named J.J. Kilroy may have been the origin of the phrase "Kilroy was here" in WWII.
Etymologist Dave Wilton wrote that "Some time during the war, Chad and Kilroy met, and in the spirit of Allied unity merged, with the British drawing appearing over the American phrase."
"Foo was here" became popular amongst Australian schoolchildren of post-war generations.
Other names for the character include Smoe, Clem, Flywheel, Private Snoops, Overby, The Jeep, and Sapo.
Author Charles Panati says that in the US "the mischievous face and the phrase became a national joke...
The outrageousness of the graffiti was not so much what it said, but where it turned up."
The major Kilroy graffiti fad ended in the 1950s, but today people all over the world still scribble the character and "Kilroy was here" in schools, trains, and other similar public areas.
(アニメ二期の放送終了後、version3で追加されました。)

キルロイ参上
キルロイ参上は、アメリカの大衆文化の表現で、しばしば落書きの題材となっている。
起源には諸説あるものの、そのフレーズと、それに添えられた特徴的なイタズラ書き―― ハゲ頭の男(ときに僅かの毛があったりする)がご立派な陰茎みたいな鼻を塀越しに覗かせ、両手の指で壁をつかんでいる絵 ――は、第二次世界大戦中に合衆国の住民であった者には広く知れ渡っている。
英国では、この落書きは「ミスター・チャド」あるいは単に「チャド」として認知されている。オーストラリアでは同じような落書きに、「フー参上」というフレーズが加えられている。
「フー参上」は、第一次世界大戦にまで起源を辿れそうである。チャドというキャラクタは、英国の漫画家が遅くとも1938年に「キルロイ参上」と書いたのに端を発すると思われる。
マサチューセッツ州クインシーの造船所の検査官だった J.J. キルロイという名前の人物が、第二次世界大戦中の「キルロイ参上」なる文言のもとになっているようだ。
語源学者デイヴ・ウィルトンの著述によれば、「戦時中の或る時、チャドとキルロイが出会った。そして、連合軍の統一精神が現われとして、アメリカのフレーズに英国の絵柄が合体した」。
「フー参上」はオーストラリアの戦後世代の学童たちに広まった。
このキャラクターの別名には、スモー、クレム、フライホイール、私立探偵・詮索魔、お向こうさん、ザ・ジープ、野次馬がある。
作家チャールズ・パナティの弁によると、合衆国では「その茶目っ気のある顔つきとフレーズが、国民的なジョークにまでなった・・・・・・。
この落書きの文言のほうは大したことはないが、この落書きの風変わりなところは、そいつが現れる場所の意外性だ。」
キルロイ落書きの大流行は、1950年代に終了した。だが今日になっても、世界中の人々がこのキャラクタと「キルロイ参上」という文句を、学校に、電車に、そして その他の公共の場所に未だに落書きし続けているのだ。
(翻訳を修正してくれる有志求む)


(訳注1: 元になっている文章は、英語版Wikipedia・Kilroy was hereです。
日本語版Wikipedia・キルロイ参上 の説明はこちらです。)


Mitsubishi A6M Zero

The Mitsubishi Navy Type 0 Carrier Fighter (零式艦上戦闘機, rei-shiki-kanjou-sentouki), also designated as the 'Mitsubishi A6M Rei-sen' and 'Mitsubishi Navy 12-shi Carrier Fighter', was a long range fighter aircraft operated by the Imperial Japanese Navy Air Service (IJNAS) from 1940 to 1945.
The A6M was usually referred to by the Allies as the "Zero", from the 'Navy Type 0 Carrier Fighter’ designation.
The official Allied reporting codename was Zeke.
When it was introduced early in World War II, the Zero was the best carrier-based fighter in the world, combining excellent maneuverability and very long range.
In early combat operations, the Zero gained a legendary reputation as a "dogfighter", achieving the outstanding kill ratio of 12 to 1, but by 1942 a combination of new tactics and the introduction of better equipment enabled the Allied pilots to engage the Zero on more equal terms.
The Imperial Japanese Naval Air Service (IJNAS) also frequently used the type as a land-based fighter.
By 1943, inherent design weaknesses and the increasing lack of more powerful aircraft engines meant that the Zero became less effective against newer enemy fighters that possessed greater firepower, armor, and speed, and approached the Zero's maneuverability.
Although the Mitsubishi A6M was outdated by 1944, it was never totally supplanted by the newer Japanese aircraft types.
During the final years of the War in the Pacific, the Zero was used in kamikaze operations.
In the course of the war, more Zeros were built than any other Japanese aircraft.

This particular Zero comes from the IJN 3rd Fleet (第3艦隊 (日本海軍), Dai-san Kantai).
The sixth (and final) incarnation of the IJN 3rd Fleet was formed on 14 July 1942 immediately after the disastrous Battle of Midway as an aircraft carrier task force modeled after similar units in the United States Navy.
It was centered on the new aircraft carriers Shōkaku and Zuikaku.
It played an Important role during the Pyrrhic victory at the Battle of Santa Cruz, in which the American aircraft carrier Hornet was sunk, but at the cost of many of the best air crews in the Japanese Navy.
After March 1944, the IJN 3rd Fleet was effectively merged with the IJN 2nd Fleet, and suffered through the disastrous Battle of the Philippine Sea, losing all of its aircraft carriers, including the newly commissioned Taihō.
With the loss of the battleships Hyūga and Ise at the Battle off Cape Engaño, the IJN 3rd Fleet effectively ceased to exist.
It was officially disbanded on 15 December 1944.

三菱A6M零式艦上戦闘機
三菱海軍零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)は、「三菱A6M零戦(れいせん)」「三菱海軍十二試艦戦」とも呼称される。大日本帝國海軍航空本部IJNAS)が1940年から1945年まで運用した長距離戦闘機である。
A6Mは「海軍零式艦戦」という呼称から、連合軍では「ゼロ Zero」と呼ばれるのが常であった。
連合軍側の公式なコードネームは、Zeke(ジーク)だった。
本機が第二次世界大戦の初期段階で採用された頃、ゼロ*1は卓越した機動性と長大な航続距離を兼ね備えており、世界で最も優秀な艦載戦闘機だった。
戦闘作戦においてはじめのうちこそ、ゼロは撃墜比率12対1と圧倒的な戦果を挙げ、「格闘戦機」として伝説的な名声を得たが、1942年になると、新しい戦術と 性能の向上した新型機が組み合わさって、連合軍パイロットは対等な条件でゼロを照準に捉えることが可能になった。
大日本帝國海軍航空本部(IJNAS)は陸上戦闘機として本機を用いることもよくあった。
1943年には、設計そのものから来る弱点と、高出力の航空機エンジンの不足がたたって、ゼロは敵が繰り出す新機種の戦闘機に対して、もはや有効ではなくなってしまった。敵の新型戦闘機は、ゼロよりも火力に優り、防弾装甲も強固で、速度も上回っていたし、ゼロの機動性に肩を並べるようになっていた。
1944年の段階で、三菱A6Mは時代遅れになっていたにもかかわらず、日本はゼロを全面的に新型航空機に転換することをしなかったのだ。
太平洋戦争の最終年は、ゼロは神風作戦に使用されていた。
戦争中、日本の航空機の中でゼロは最も多く生産された。

この(訳注:第八話キャプチャ画像の)ゼロは、大日本帝国海軍(IJN)第3艦隊(日本海軍)の所属機である。
第3艦隊の6代目の(そしてそれが最後となった)編制は、1942年7月14日に新編された。それはミッドウェイ海戦で壊滅的打撃を受けた直後であった。第3艦隊はここに空母機動部隊として、合衆国海軍の同様の編制をモデルに設立されたのだ。
当時の編制は航空母艦・翔鶴瑞鶴を中核に据えていた。
南太平洋海戦ピュロスの勝利(訳注: 損害が大きく、得るものが少ない勝利)を収める上で、第三艦隊は大きな役割を果たした。同海戦で、アメリカの航空母艦ホーネットは沈没したが、その代償に日本海軍は飛行士の精鋭を多数うしなった。
1944年3月以降は、大日本帝國海軍 第3艦隊は、実際上は第2艦隊と聨合した。マリアナ沖海戦に大敗を喫し、新しく組み入れられた大鳳を含む、航空母艦をすべて失った。
エンガノ岬沖海戦で(訳注:10月25日)、戦艦・日向および伊勢を喪失して、大日本帝國海軍 第3艦隊は実質的に存在しなくなった。
公式には1944年12月15日に解隊された。
(翻訳を修正してくれる有志求む)


(訳注: 前半の文章の元となっているのは、Mitsubishi A6M Zero(Wikipedia(en))です。後半の第3艦隊の説明は、こちら(Wikipedia(en))が元になっています。
零式艦上戦闘機の日本語版Wikipediaの説明は、こちらです。同じく第3艦隊の説明はこちらです。)
(キャプチャ画像の機体に見られる垂直尾翼の331-は、最初の3が第3艦隊を、次の3が第3航空戦隊空母を、最後の1は1番艦を意味する。すなわち、第653海軍航空隊が分乗する千歳・千代田・瑞鳳*2のうち、331は所属が千歳であることを表示している(千代田332、瑞鳳333)。
同じく-171は、最初の数字は機種を表し、1が戦闘機(2は爆撃機、3は攻撃機)、次の数字7は第7中隊、最後の1は1番機を意味することが多いが、第653航空隊でもその方式が採用されていたか、実際に171番があったかどうかは不明。
第八話ではこの331-171の機体(胴体帯・青2本)のほか、331-128、331-179、331-143(いずれも胴体帯は青1本)の各機が確認できる。
参考:「軍事板常見問題&良レス回収機構」航空機、「マリアナ沖海戦」機番号について

千歳と千代田が戦艦・大和に随伴していたことが、闇文twitterで確認されました。
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yamibun
闇文
今回、当然大和には各地で護衛の機動部隊ウィッチがついていました。で、安全海域に突入したので、それらは分離したってのは、ミリな方は台詞から分かるよね。そして随伴の空母は千代田千歳
(2010/08/27 07:15)
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yamibun
闇文
ウィッチ搭載の翔鶴瑞鶴エンプラはエスコートが終了した段階で別作戦へ。当然ネウロイの行動圏内100Kmに近付いた段階で地上ウィッチのエスコートが入る、という段階ですが、それらを描くのは小説か2クールアニメじゃないと無理
(2010/08/27 23:19)
link
千歳、アドミラル・ヒッパー級重巡については、FAQ2期第八話も参照してください。


Aircraft carrier Chitose

Barely seen, but shown as one of the carriers launching Zeroes, Chitose (千歳) was a light aircraft carrier of the Imperial Japanese Navy during World War II.
It should not be confused with the earlier Japanese cruiser Chitose.
First laid down as a seaplane tender in 1934 at Kure Navy yard, the ship originally supported reconnaissance float planes Kawanishi E1K Type 94 "Alf", and the Nakajima E8N Type 95 "Dave".
Although it has been speculated that Chitose also carried Type A midget submarines, only her sister ship, the Chiyoda had that capability.
Chitose saw several naval actions, taking part in the Battle of Midway though seeing no combat there.
She was heavily damaged off Davao, Philippines on 4 January 1942.
She covered the Japanese landings in the East Indies and Gilbert Island in January 1942, and was damaged in the Eastern Solomons in August 1942.
As the Japanese became aware of the importance of carrier aviation, the Chitose was converted to a light carrier at Sasebo Navy Yard commencing 26 January 1943, and was recommissioned 1 November 1943 as CVL (24) and completed as carrier 1 January 1944, and assigned to CarDiv3.
Other carriers in the group included the Chiyoda, Shokaku, and Zuikaku.
(version2で最後の1行が加筆されています)

航空母艦・千歳
ゼロ戦の発艦している空母が、わずかに垣間見えているが、そのうちの一艦は千歳である。千歳は、第二次世界大戦中の大日本帝国海軍の軽空母である。
この千歳を、日本に本艦よりも以前に存在した巡洋艦・千歳と混同しないようにされたい。
最初は水上機母艦として1934年に呉海軍工廠で起工された。本艦はもともと川西航空機 E1K 九四式水上偵察機「アルフ Alf」と中島飛行機 E8N 九五式水上偵察機「デイヴ Dave」を運用していた。
千歳は特殊潜航艇甲標的 も搭載していたと推測されている。本艦の同型艦は千代田のみであるが、千代田は特殊潜航艇母艦の機能を有していた。
千歳は何度も海戦に参加し、ミッドウェイ海戦にも参加したものの*3、戦闘には参加しなかった。
本艦は1942年1月4日、フィリピンのダバオ沖で大破した。
本艦は1942年1月、東インド諸島ギルバート諸島の日本軍上陸を支援し、1942年8月、東ソロモン(訳注:第二次ソロモン海戦)で損傷を受けた。
日本軍は空母艦載機の重要性に気づいたため、千歳の軽空母への転換が佐世保海軍工廠で、1943年1月26日から開始された。千歳は1943年11月1日、軽空母(艦艇番号24)として再就役し、1944年1月1日 空母として完成、第3航空戦隊に配属された。
この空母群には千歳以外に、千代田、翔鶴、瑞鶴の空母がある。
(翻訳を修正してくれる有志求む)


(訳注: この項目の元となっているのは英語版Wikipedia・千歳です。日本語版の説明はこちらから。また、千歳が最初に水上機母艦として就役したこと、および甲標的母艦・軽空母への改装については、千歳型水上機母艦(Wikipedia(jp))の項目もご覧ください。
特殊潜航艇および甲標的のほか、蛟竜(Wikipedia(jp))も参照してください。)



Heavy cruiser Takao

Takao (高雄) was the first of four Takao-class heavy cruisers, designed to be an improvement over the previous Myōkō-class design.
The Myōkō had proved to be unstable and required modifications, which were incorporated into the Takao design.
The Takao-class ships were approved under the 1927 fiscal year budget as part of the Imperial Japanese Navy's strategy of the Decisive Battle, and forming the backbone of a multipurpose long-range strike force.
Takao was built by the Yokosuka Naval shipyards, and like her sister ships, was named after a mountain.

重巡洋艦・高雄
高雄は4隻*4建艦された高雄型重巡洋艦の一番艦。以前の妙高型重巡洋艦の問題点を改善するように設計されている。
妙高型の復原性に問題があったことから、高雄型は一部設計を変更している。

高雄型重巡洋艦は1927年・会計年度の昭和2年度艦艇補充計画*5の一環として承認され、多目的長距離打撃艦隊の根幹を成した。
高雄は横須賀海軍工廠で起工され、姉妹艦同様に山の名前にちなんだ命名がされた。
(翻訳を修正してくれる有志求む)


(訳注1: 元となっている説明は、Wikipedia(en)です。日本語版での高雄型重巡洋艦の説明はこちらです。
同型艦のWikipedia(jp)の説明は、愛宕(あたご)摩耶(まや)鳥海(ちょうかい)の各リンクから。)
(訳注2: 本項で取り上げられた高雄は京都府の高雄山に因んで命名されていた。英語版Wikipediaの重巡・高雄では、東京の高尾山や台湾の高雄市ではないことが明記されている。)

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yamibun
闇文
SW世界の高雄は魚雷発射管を降ろしているので、その部分にがされているのが、画面をよく見るとちょっとだけ見えます。3Dの人に無理を言って直して貰いました。
(2010/08/29 20:28)
link
(現実世界の高雄には、竣工時は 89式61cm連装魚雷水上発射管4基(計8門)、のち1942年の改装後は 92式1型61cm4連装魚雷水上発射管4基(計16門)が 次発装填装置付きで上甲板に装備されていました。魚雷発射管の装備位置は 艦橋のやや後ろから第3煙突(後ろのほうにある煙突)の間の横っ腹に、横長のスリットが3つ並んでいるところです(これら3つのうち、最前と一番後ろに発射管がそれぞれ1基ずつ設置され、左右の各舷に2基・合計4基ありました。中央の開口部は魚雷搬入口で、この部分に次発分の魚雷が置かれていました)。アニメのキャプチャ画像ではその3箇所に「蓋がされて」います。―― 幅500pixelの表示画像だと分かりにくいので、大きめの画像で確認してください(別タブで開きます)。―― 画像内・左下の実際の高雄の側面図と比較すると違いが分かると思います。
高雄型重巡洋艦の前型・妙高型の設計以来、重巡への魚雷兵装の必要性をめぐって、設計者の意見(不要論)と海軍軍令部の要求は異なりました。ましてストライク・ウィッチーズの世界では(人間の作った艦艇同士の戦いはさておき)、水に弱いネウロイとの戦闘において、水面下を攻撃する兵器として魚雷(魚形水雷)の出番はないのかもしれません。)



Admiral Hipper class cruiser

Designed along the lines of a treaty heavy cruiser, Germany, not a party to the Washington treaty, nonetheless gave little consideration to the treaty limit of 10,000 tons displacement.
The design for the Hipper-class began at 12,500 tons and increased steadily during development.
To some degree, the ships were a German response to the 8-inch (203 mm) gun French cruiser Algérie which was a counter to the Italian cruisers of the Mediterranean.
Several different gun calibers were considered for the Hipper design, but finally a battery of eight 8-inch (203 mm) guns was selected for the Hipper.
This gave them comparable firepower to a British County class cruiser, despite being considerably larger.
Troublesome propulsion limited cruising range to 5,000 nautical miles (9,000 km) at 15 knots (28 km/h) – far less than the original design goal of 6,500 nautical miles (12,000 km) at 17 knots (31 km/h).
After construction of Hipper and Blücher, the design was slightly enlarged, although major features remained similar.
Of this new design, only one of three begun was completed – the Prinz Eugen.

+ (4chanのスレにアップされたchartには載っていませんが、wikia.comには下記のコメントが付加されています。)
For those viewers who felt that the Neuroi was shaped like an atomic bomb, the Prinz Eugen would an especially appropriate choice.
Taken by the US Navy as war reparations, the now USS Prinz Eugen survived two nuclear tests with only minor damage.
However, by then it was too irraditated to undergo regular repairs to fix leaks in the hull, and was scuttled.
(version2で追加)

アドミラル・ヒッパー級巡洋艦
ドイツはワシントン海軍軍縮条約条約の加盟国ではなかった*6が、それにもかかわらず排水量10,000トンという条約の制限を少しばかり考慮して、条約型重巡洋艦の制限に沿って設計されたドイツの重巡洋艦である。
ヒッパー級の設計は排水量12,500トンから始められたが、開発を進めるうち増加の一途をたどった。
地中海のイタリア巡洋艦*7に対抗すべく、フランスは巡洋艦アルジェリー*8を建艦した。このアルジェリーには8インチ(203ミリ)砲が搭載されていたことに対して、ある意味でドイツ軍が反応した結果、本級が誕生したといえよう。
ヒッパー級の設計にあたって数種類の口径の異なる搭載砲が検討されたが、最終的に8インチ(203ミリ)砲・8門がヒッパーの備砲として選択された。
この兵装は、英国のカウンティ級巡洋艦の火力に匹敵する。ただし、ヒッパー級のほうが相当大きいことは別論である*9
推進機関に問題を抱えていたため、巡航距離は15ノット(時速28km)で5,000海里(9,000 km)に制限されてしまった。―― これは当初設計の17ノット(時速31km)で6,500浬(12,000 km)には遠く及ばなかった。
ヒッパーブリュッヒャーの建艦ののち、主要な特徴はほぼそのままとしつつ、本級の設計は(訳注: 艦体が)やや拡大された。
この新設計で起工された同型艦3隻のうち完成したのは、ただ1隻――プリンツ・オイゲンのみであった。

+ (付加部分の訳)
今回のネウロイが原子爆弾の形に似ていると感じた視聴者にとっては、プリンツ・オイゲンだと言ったほうがずっと相応しいのかも知れない。
戦後賠償として合衆国海軍に接収され、いまや米国艦艇となったプリンツ・オイゲンは2度の核実験に耐え抜き、小破にとどまった。
しかし艦体の浸水*10を止めるため 通常の修復を受けようにも、そのときには既に放射線に被曝しすぎていたので、自沈処分された*11

(訳注: ファットマンの説明はこちら(Wikipedia(jp))。4chanのスレッドでは最初、「飛行船だ」「dirigible」「Blimproiだ」というレスもありましたが、ファットマンだとのレスも続きました。)
(翻訳を修正してくれる有志求む)


(訳注1: この項目の元になっているのは英語版Wikipediaの説明です。日本語版の説明はこちらから。)
(訳注2: アドミラル・ヒッパー、ブリュッヒャー、プリンツ・オイゲン以外の同型艦に、ザイドリッツ(Seydlitz)、リュッツオウ(Lützow)があるが、前者は未完成のまま自沈処分され、後者は1939年1月に進水まではしたものの独ソ不可侵条約(1939年)により、1940年11月2日に未完成のままソ連に売却されたが結局、完成には至らなかった。)



Mitsubishi F1M

The Mitsubishi F1M (Allied reporting name "Pete") was a Japanese reconnaissance floatplane of World War II.
It was the last biplane type of the Imperial Japanese Navy, with 1,118 built between 1936 and 1944.
The Navy designation was "Type Zero Observation Seaplane" (零式水上観測機), not to be confused with the Type Zero Carrier Fighter or the type Zero Reconnaissance Seaplane.
The F1M was originally built as a catapult-launched reconnaissance float plane, specializing in gunnery spotting.
However the "Pete" took on a number of local roles including area-defense fighter, convoy escort, bomber, anti-submarine, maritime patrol, rescue and transport.
The type fought dogfights in the Aleutians, the Solomons and several other theaters.

三菱F1M零式水上観測機
三菱F1M(連合軍によるコードネームは"Pete")は二次世界大戦の日本の浮舟型*12水上偵察機。
これは、大日本帝国海軍で採用された最後の複葉機であり、1936年から1944年にかけて1,118機が生産された。
零式艦上戦闘機零式水上偵察機と混同しないように、海軍の命名は、「零式水上観測機」とされた。
F1Mはもともと(訳注:戦艦などから)カタパルトで発進する浮舟型水上偵察機として、弾着観測を専門に設計された。
しかし "ピート" は、離島地域における防空戦闘、船団護衛、爆撃、対潜水艦、海上哨戒、救助、輸送などの地味な役割を数多くこなした。
アリューシャン列島ソロモン諸島、また他のいくつかの戦域ではドッグファイトも行っている*13
(翻訳を修正してくれる有志求む)


(訳注: 元となっている説明は、英語版Wikipediaの"Mitsubishi F1M・ゼロ観"です。日本語版の説明はこちらから。)
(水面に離着陸できる水上機(英語でseaplaneというが、海上だけに限らず湖などでもよい)には、本機のようにフロート(浮舟)をもつ浮舟型水上機・フロート水上機(floatplane)と、胴体下部が船の船底のような形になっている飛行艇flying boat)がある。アニメ第2期の一話にも登場し、海外紳士元ネタ解説2期一話でも解説されている川西航空機H8K二式大艇は飛行艇である。同じく2期一話の解説にも出てくる紫電改の原型となったのは水上戦闘機・強風で、こちらは浮舟型水上機である。
この零式水上観測機(俗称:ゼロ観)のほか、強風や、零式小型水上偵察機、また本項でも触れられた零式水上偵察機は、いずれも浮舟型水上機である(後二者の零式小型水上偵察機(俗称「金魚」)・零式水上偵察機は 大きなフロートが2つの双浮舟式だが、その他は主浮舟が1つの単浮舟式で俗に一本ゲタなどという)。
大日本帝国海軍は水上機をさまざまな局面で活用していた。たとえば1942年9月、潜水艦から発進した零式小型水上偵察機はオレゴン州を空爆し、米本土空襲を果たした。
このほかにも旧日本海軍では、今回 上の別項で取り上げられている三菱零式艦上戦闘機の 11型をベースに中島飛行機が水上機化した二式水上戦闘機:二式水戦(単浮舟式)や、潜水艦から発艦する水上攻撃機・愛知航空機M6A1晴嵐(せいらん)(投棄可能な双浮舟式)を採用しており、他の諸国にくらべても、水上機に関して豊富な機種と機数を誇った。
重巡高雄の第3煙突と後部砲塔の間に大きなデリック(クレーン)があるが、これも水上機を運用するための設備である。)



Kyūshū J7W1 Shinden

The Kyūshū J7W1 Shinden (震電, "Magnificent Lightning") fighter was a World War II Japanese propeller-driven aircraft prototype that was built in a canard design.
The wings were attached to the tail section and stabilizers were on the front.
The propeller was also in the rear, in a pusher configuration.
It was expected to be a highly maneuverable interceptor, but only two were finished before the end of war.
Plans were also drawn up for a jet-powered version (J7W2 Shinden Kai), but this never left the drawing board.
The J designation was used by land based fighters of the Imperial Japanese Navy and the W is tor Watanabe designed (though the factory changed its name in 1943 to Kyūshū.)
The J7W was developed for the Imperial Japanese Navy as a short-range interceptor in a specific response to the B-29 Superfortress raids on the Japanese homeland.
For this type of mission, the J7W was armed with 4 forward-firing 30mm cannons in the nose.
It was to be operated from land bases.

九州飛行機J7W1震電
九州飛行機 J7W1 震電 (「偉大なる稲妻」の意)は、プロペラ駆動と前翼式のデザインが採用された第二次世界大戦中の日本の試作戦闘機。
主翼が機体後部に、バランスをとるための小翼*14が機体前部にあり、推進式のプロペラが機体尾部に設置されていた。
高機動の迎撃戦闘機として期待されたが、二機の試作機が製作された時点で終戦を迎えた。
また J7W2 震電改 として ジェット化構想も存在したが、これは決して計画の域を脱することはなかった。
形式名の J は大日本帝国海軍の陸上戦闘機を、 W は渡邊鉄工所 (1943年に九州飛行機に改名) が設計したことを意味する。

J7Wは日本の本土を空襲するB-29 Superfortress (超 空の要塞) の迎撃を目的として開発された短距離迎撃機であり、そのために機首に30mm砲4門を機軸方向に*15装備していた。
また運用は陸上の基地によって行われる。
(翻訳を修正してくれる有志求む)


(訳注1: 元となっている説明は、英語版Wikipediaの震電(en)です。日本語版の説明はこちらから。
前翼式、あるいはエンテ型の説明はこちら(Wikipedia(jp))です。)
(訳注2: 本項の説明では「機動性の高い highly maneuverable」迎撃機となるはずであったかのように説明されているが、もともと震電は高高度迎撃機 high-altitude interceptorとして開発が始められていた。対重爆撃機の邀撃任務を果たすための設計であったから、戦闘機同士での格闘戦に特化した基本設計ではなかった。


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最終更新:2010年10月10日 22:59
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ヘルプ / FAQ もご覧ください。

*1 連合軍側の呼称Zeroの訳として、ゼロ戦とせずに敢えて「ゼロ」としておきます。

*2 1941年には若本徹子のモデル・岩本徹三 氏が乗り組んでいた。

*3 空母への改装前。改装作業は後述のとおり1943年1月26日から8月1日まで。

*4 他の同型艦は、愛宕・摩耶・鳥海。

*5 英語では直接的に「大日本帝國海軍 決戦戦略」と表現される。

*6 ワシントン条約に準拠した英独海軍協定を1935年にイギリスと締結していた。だが本艦の排水量は英独海軍協定の制限も超過していた[重巡洋艦は排水量10,000tの制限であった]。

*7 本作品にも登場しているザラ級重巡洋艦。海外紳士元ネタ解説2期第二話も参照してください。

*8 ワシントン海軍軍縮条約の制限に従った巡洋艦。

*9 カウンティ級: 基準排水量10,400トン・全長179.8m。 ヒッパー級: 基準排水量14,050トン[公称は10,000トンで かなり鯖を読んでいた]・全長202.8m。

*10 二度の実験後の搬送中に座礁した。

*11 その後、スクリューだけがドイツに帰還した。

*12 フロート付き。俗にゲタとも言われる。

*13 高い格闘性能を持ち、いくつもの撃墜記録があるが、あくまで複葉複座の水上機としての善戦であった。

*14 stabilizer: 航空機では安定板のこと。この部分での説明では、水平安定板のことを指している。

*15 夜間戦闘機・月光のような斜銃とは異なり、通常通り飛行機の進行方向と同じ向きに装備する。迎撃機という機種ではあるが、本機が"forward-firing"であることに触れられている。