アドリアーナ・ヴィスコンティ

ADRIANA VISCONTI
  • 所属 ロマーニャ空軍第54航空団第7航空群第76飛行隊
  • 階級 大尉
  • 身長 175cm
  • 誕生日 11月11日
  • 使い魔 カラカル
  • その他
    • 没落貴族ではあるが一時期はミラノの支配者一族だったヴィスコンティ家の出身(故郷はピサ)。
    • ロマーニャでも有数の名指揮官で、カリスマ性もあり勇敢。自らの技量も極めて高いが、やや独善的な性格。
      • 国を守りたいという意識が強く、その為に不合理な命令に従わず戦い続ける姿勢が上層部と衝突する一因。
    • 軍に志願して少尉任官後、最初は地上攻撃部隊に送られ、トブルク駐在の第50航空団第12航空群第159飛行隊に配属される。
      • 軍規違反を繰り返した為に辺境の部隊に左遷されたが、左遷先で地上攻撃用ユニットを使いネウロイを撃破するなど活躍し、原隊に復帰。
        • 同大尉が左遷された後、トブルクにはマルセイユ大尉が送られているが、原隊復帰前にマルセイユ大尉はトブルクから移動しており、二人が顔を合わせる事はなかった。
        • もし二人が同じ基地にいたら、大喧嘩をするか仲良くなるかどちらかだろうという冗談が当時現地ではよく言われていたという。
    • 卓越した操縦技量を買われ戦闘部隊である第76飛行隊へと転属、空中戦闘と写真偵察を主任務とした。
      • ここで撃墜数を伸ばして頭角を現し、優秀な指揮官として成長。
      • 反面、上層部に対して反抗的な態度や軍規違反も多く、ロマーニャの誇る赤ズボン隊に所属する事はなかった。
    • 第504統合戦闘航空団設立時にもメンバー候補に挙がらなかった為、ロマーニャ空軍上層部が第506統合戦闘航空団に推薦したのは、厄介払いという意味合いもあったと思われる。
  • 声優 山崎はるか
  • イメージモデル アドリアーノ・ヴィスコンティ (1915-1945)
    • 撃墜数 26
      • イタリア一位。
      • 様々な出版物で認知されている数字だが、彼自身は10機より多い数を主張した事はなかったとされる。
    • その他
      • カリスマ的な指揮統率力と有能かつ勇敢な操縦士としての実績により、ANRのシンボル的な存在となったエース。
      • トリポリの名門の家に生まれ、愛国心に溢れた家庭環境で育つ。
        • 父ガレアッツォが北アフリカの植民地化遠征隊に加わり、当地に留まっていた為。
      • 高等教育を終えると空軍士官学校に志願、卒業後に少尉任官し、トブルク駐在の地上攻撃部隊である第50航空団第12航空群第159飛行隊に配属。
      • 軍規上の問題を起こし植民地防衛第2航空群第23飛行隊に飛ばされたが、当地での功績により程なく原隊復帰を許され、青銅勲章を獲得。
      • 復帰後はイギリス軍機甲部隊を相手にBa.65を駆って出撃を重ねたが、ブレダの被弾の弱さから損害が大きく、第50航空団は1941年1月に解隊。
      • トレヴィーゾに基地を置く第54航空団第7航空群第76飛行隊に転属すると、C.200を駆り爆撃隊の護衛や空中偵察任務を数多く遂行。
      • パンテッレリーア島攻防戦の最中の1942年6月15日、C.202を駆り初撃墜を記録。枢軸軍降伏に至るまで北アフリカ戦線を戦い抜く。
      • アフリカ脱出後はグイドニアに新設された第310空中撮影戦闘飛行隊の指揮官となり、改造型のC.205Vで武装偵察任務に従事。
      • 休戦後の命令が送られて来なかったことから見捨てられたと感じANRに転身。初め第1戦闘飛行隊、次いで第I航空群「アッソ・ディ・バストーニ」全体の指揮を任され少佐に進級。
      • 1945年4月29日、第I航空軍の降伏交渉の為に赴いたミラノで副官ステファニーニ少尉と共にパルチザンに背後から狙撃され、殺害された。
  • 出典 第五〇一統合戦闘航空団全記録弐 第五集/ストライクウィッチーズ 劇場版 オフィシャルファンブック コンプリートファイル/『ノーブルウィッチーズ』

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最終更新:2021年04月29日 21:49
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