国別キャラ - ダキア


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+ダキア



ダキア

イメージモデル ルーマニア


ダキア空軍

イメージモデル ルーマニア空軍

コンスタンティア・カンタクジノ

CONSTANTIA CANTACUZINO
  • 所属 ダキア空軍第7戦闘航空群
  • 階級 予備大尉
  • 誕生日 11月11日
  • 使用機材
  • その他
    • 裕福な公爵家に生まれ、幼少時から様々なスポーツで優れた成績を収めた才媛。
      • 親戚の所持している飛行学校で飛行訓練を受け、僅か2週間で基本レベルの航空ウィッチ訓練を終了している。
    • より高度な飛行免許も取得し、自家用航空機と旧式のストライカーユニットを購入。曲技飛行に磨きをかけていた。
      • ネウロイ襲来直前の1939年にはダキア曲技飛行チャンピオンになっている程の腕前。
    • どんなユニットも扱えるという能力を持っており、戦場で手に入れたオラーシャ製やリベリオン製のユニットも、初使用であろうと問題なく使用する事ができる。
    • ネウロイ襲来に際し予備中尉として軍に招集され、ダキアの優秀なウィッチを集めた第53戦闘飛行隊に配属。
    • 防衛に従事し、配属後僅か1週間にして初撃墜。その後も撃墜数を伸ばし予備大尉に昇進するも、公爵家という家柄から後方任務に下げられてしまう。
    • ネウロイの攻勢は強まる一方だった為、前線勤務を申請し続けたところ上層部も根負けし、第7戦闘航空群に配属された。
    • ダキア陥落の際は首都ブカレストの防衛の任に就いており、最後まで民衆を避難させる為戦い続けた。
      • 多少の夜間視力があったと言われており、ドラム缶数本の灯の中で夜間出撃を続けた。
      • 多大な戦果を挙げていると思われるが、戦果を確認する人間がいなかった事と、必要以上に戦果を語らない本人の寡黙な性格から記録には残されていない。
    • ダキア陥落後はアルトラントに撤退、ゴロプ少佐率いる部隊と合流し戦闘を続け、「最も長い撤退戦」の末に第505統合戦闘航空団へ参加。
    • 第506統合戦闘航空団の設立に際し連合軍司令部より転属の要請があったが、第505統合戦闘航空団と同部隊の支援を行っている扶桑陸軍の猛反対もあり実現には至らなかった。
  • イメージモデル コンスタンティン・カンタクジノ (1905-1958)
    • 愛称 「ブズ(Bâzu)」
    • 撃墜数 43
    • その他
      • ARR方式勝利数におけるルーマニア軍トップエース。
      • ブカレストで裕福な公爵家であるカンタクジノ家に生まれ、少年の頃から様々なスポーツに才能を示し、国内外問わず多数のトロフィーを得た。
      • 27歳で親戚のイオアナ・カンタクジノが経営する私立の飛行学校に入り、講習僅か2週間で基本レベルの免許を取得。
      • その2年後に多発輸送機パイロットのライセンスを得てLARESに入社。
      • 同年に自家用機としてフリートF-10D複葉機を購入、続いてコードロン、フリート、ICAR、ビュッカー等を購入、長距離飛行と曲芸飛行の経験を得、曲技で1939年のルーマニア・チャンピオンに選ばれるまで上達。
      • ソ連との開戦を前に予備役中尉として招集され、ARRのエリート戦闘機部隊のひとつ第53戦闘飛行隊に配属。開戦後はハリケーンを駆り、初実戦から1週間も経たぬうちに初撃墜を記録、その後もスコアを伸ばす。
      • この戦いが終わるとLARESに復帰し主席パイロットに昇進、この間にBf109Eへの機種転換コースへの参加やMiG-3への試乗を行なう。
      • 実戦部隊復帰後はBf109Gに機種転換、第7戦闘航空群に配属され、順調にスコアを伸ばしシェルバネスクとトップ・エースの座を競う。
      • 1943年6月から7月にかけて行われたソ連襲撃機に対する28度に上る夜間迎撃で、夜戦についての正式な訓練は全く受けていないにもかかわらず、ドラム缶数本の灯火に照らされた飛行場から出撃し応戦。
      • ルーマニアにアメリカ陸軍航空隊が出現するようになると、首都防衛を任務とする第7戦闘航空群第57戦闘飛行隊に配属されこれを迎撃。
      • 1943年から1944年にかけて猩紅熱に倒れスコアを伸ばせなかったものの、シェルバネスクが戦死すると最終的にARRの勝利点ランクのトップとなった。
      • 1944年8月23日にクーデターが発生するとアメリカ人捕虜のジェイムズ・ガン3世中佐を伴い連合軍に接触する為イタリアのフォッジアに飛行。乗機のBf109GをP-51Bと交換してしまい、全く操縦法を教わっていないにも関わらず難なく操縦し翌日帰投。
      • 第7/9戦闘航空群司令に任命されて後は枢軸側のドイツ空軍と戦い、He111HFw190F等を撃墜。これによりルーマニアが交戦したソ連・アメリカ・ドイツの全ての空軍に対してエースとなった。
      • 戦後は商業パイロットに復帰、旧LARESから改名されたTARSに戻るが、共産主義政権下でルーマニア人パイロットが迫害された事から亡命。フランス、次いでスペインに移住し没。マドリードに埋葬された。
      • 貴族出身の予備士官で、飛行任務を軍人の義務というよりむしろスポーツと見なしていたカンタクジノは、正規士官であるシェルバネスクとは反りが合わなかったと言われる。
  • 出典 第五〇一統合戦闘航空団全記録弐 第四集/第五〇一統合戦闘航空団全記録弐 第五集


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