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ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争

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ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争

ユーゴスラビアから独立したボスニア・ヘルツェゴビナにおいて1992年~1995年まで続いた内戦。

概要


ユーゴスラビア解体の動きの中で、ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年に独立を宣言したが、独立時に約430万人の人口のうち、民族構成の33%を占めるセルビア人と、17%のクロアチア人・44%のボスニア人が対立し、4月から3年半以上にわたり戦争となった。

両者は全土で覇権を争って戦闘を繰り広げた結果、死者20万、難民・避難民200万が発生したほか、ボシュニャチの女性に対するレイプや強制出産などが行われ、第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の紛争となった。
勢力図の推移
注)緑=ボシュニャク人(ボシュニャチ)、青=クロアチア人、赤=セルビア人

歴史的背景


中世

15世紀後半になると、ボスニア・ヘルツェゴビナの全域がオスマン帝国支配下に組み込まれ、非キリスト教徒であった者がイスラムへ改宗した。また、現地のスラブ人、移住してきたイスラム教徒らによって、この地域はムスリム(イスラム教徒)の比率が高まった。

第二次世界大戦期

第二次世界大戦期には、この地域の大半がナチスの傀儡であるクロアチア独立国の支配下に組み込まれた。この支配下において、クロアチア人の民族主義組織ウスタシャによって、セルビア人は激しい迫害を受け、数十万人以上の人々が殺害された。また、これに対してセルビア人の民族主義者チェトニクによって、クロアチア人やボシュニャク人が大量に殺害された。この時代、フォチャを初めとする各地でウスタシャとチェトニクによる凄惨な民族浄化の応報が繰り広げられた。チェトニクはクロアチア人やボシュニャク人を徹底的に虐殺し、犠牲者はクロアチア人約20万7000人、ボシュニャク人約8万6000人とチェトニク側から公表されている。

紛争の背景

WW1後に誕生したユーゴスラビア王国は、当初からセルビア人によって国の中枢が牛耳られており、民族意識の強いクロアチア人の反発が絶えなかった。そこにウスタシャはつけこみ、反セルビア、打倒セルビアへとウスタシャは突き進んでいくことになる。こういった感情が、ユーゴ崩壊のクロアチア紛争、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争へと繋がっていく。チェトニクは大セルビア主義という、西部バルカンの大半はセルビア人の土地という認識を持っていた。この主義は、セルビア人とセルビア人の土地をひとつの国家に統一するという第一の目標があり、中にはセルビア人が少数であっても、セルビアの土地という認識があるものもあった。セルビア国家にとって、大セルビアは必要不可欠であり、セルビアの歴史的格言「統合のみがセルビア人を救う」を用い、正当性・必要性を訴えていた。第一次世界大戦ではこの主義が原因となり、国境外各方面でセルビア人たちが統一セルビアの建設の為に戦い、1990年代の紛争では統一されたセルビア維持のために戦った。ユーゴスラビアはWW2以降もセルビア人以外を軽視しており、それが各民族を刺激してしまった。現在においても、セルビアのセルビア急進党という右翼政党では、ボスニア・ヘルツェゴビナとクロアチアの大部分のみならず、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリーの一部をも含めた大セルビアを建設すべきという綱領を掲げている。この方針によって、クロアチアではユーゴ紛争時にクライナ・セルビア人共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナではスルプスカ共和国が建国された。(スルプスカ共和国は現在もボスニア・ヘルツェゴビナとの連邦制を採用し残っている)セルビア人からすれば、歴史的仇敵であるクロアチア人などの、敵対勢力の支配下を避けることで、これらの地域におけるセルビア人の権利を守る必要があった。

1970~80年代

1974年、ムスリム達は固有の民族としてのボスニア人としての扱いを求めており、憲法改定によってムスリム人の呼称で独自の民族とされた。長らく緊張の少ない状態が続いており、都市部では他民族混在が進んでいた。

1980年、指導者のヨシップ・ブロズ・チトーが死去する。チトーは社会主義国家でありながら、ある程度の言論の自由(体制批判)を許すなど、他の社会主義とは異なる政策を内外で実行していた。チトーは民族主義による排外思想は弾圧したものの、持ち前のカリスマ性によって他民族国家の体制を維持した。しかし、カリスマを失ったことにより、連邦内の体制は少しずつ崩壊する事になる。各民族において民族主義・分裂主義・他民族排除主義が勃興した。

1990年代

1990年、ソ連崩壊に伴って、共産党独裁が放棄され、多党制へと移ると、ボスニア・ヘルツェゴビナでは民族を代表する政党が議会を占めるようになった。

1991年にスロベニア・クロアチア・マケドニア共和国が相次いでユーゴスラビアから独立を宣言し、
クロアチアではクロアチア紛争が始まった。相次ぐ独立宣言や隣国での民族間紛争の勃発によって、
次第にボスニアでは各民族間の緊張や相互不信が広がるようになっていった。

セルビア正教徒中心のセルビア人たちは、ユーゴスラビアに留まることを望んでいたが、イスラム教徒中心のボシュニャク人やローマ・カトリック教徒主体のクロアチア人はユーゴスラビアからの独立を望んでいた。(この3つの民族は言語・文化の多くを共有する一方で、異なる宗教に属していた)