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ボスニア・ヘルツェゴビナ

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ボスニア・ヘルツェゴビナ


ボスニア・ヘルツェゴビナは、東ヨーロッパの国家であり、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦スルプスカ共和国の構成体。首都はサラエヴォ。バルカン半島の北西に位置する共和国。クロアチア、セルビア、モンテネグロと国境を接する。ユーゴスラビアからの独立時、独立の可否や国のあり方をめぐってボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人がそれぞれ民族ごとに分かれてボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で戦った。

民族構成はボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人の三民族によって構成されている。連邦内にはボスニア・ヘルツェゴビナ連邦及びスルプスカ共和国の二つの構成国家と、ブルチコ行政区によって構成されている。国は1990年に民主化されたユーゴスラビア連邦人民共和国から、ユーゴスラビア紛争によって独立した。

人口

2009年、推定4613414人
ボシュニャク人 - 48%
セルビア人 - 37%
クロアチア人 - 14%

1991年時の国勢調査では、4377033人が暮らしていた。
ボシュニャク人 % セルビア人 % クロアチア人 % ユーゴスラビア人 % 外国人 %
1991年 1,902,956人 43% 1,366,104人 31% 760,852人 17% 242,682人 6% 104,439 2%

1990年代には、人口の大幅な移動が発生している。1991年以降は紛争の混乱もあり、正確な人口統計は未だ調査されていない。しかし、2011年に戦後の人口統計調査が完了する予定となっている。

歴史

簡易まとめ。詳細は簡易まとめ以下に記載する。
ボスニアは古代にはローマ帝国との争いがあり、併合された後にはビザンツ帝国とハンガリー王国との争いの中心地となる。その後、ボスニア王国の支配下に組み込まれるが、15世紀にはオスマン帝国の支配下になり、オスマン帝国衰退後はオーストリア・ハンガリー帝国とロシア帝国の争いの中心地となる。1908年には、オスマン帝国からオーストリア・ハンガリー帝国の支配地域となる。これが各民族の民族意識を大きく刺激し、1914年にサラエボ事件が発生し第一次世界大戦の要因となった。第二次世界大戦では、ナチスドイツの傀儡国家であるクロアチア独立国の支配下に組み込まれ、クロアチア人の民族組織ウスタシャや、セルビア人の民族組織チェトニックらによって、民族浄化の応報が繰り広げられることになる。第二次世界大戦後は、ユーゴスラビア連邦人民共和国の構成国となり、指導者チトーの活躍によって比較的平穏な時代を送る。しかし、彼の死後ユーゴスラビアは混乱をきたし、後のユーゴスラビア紛争ではボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の舞台となり、ボシュニャク・セルビア・クロアチアの三民族による民族浄化の応報が再び繰り広げられることになる。戦後、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦としてユーゴスラビア連邦より独立するが、現在でも国連部隊が監視を行っており、民族間の対立は消えていない。
{→有史以来、国家間の争いの場となり、それが各民族の民族主義の勃興に繋がった。それらが重なり、現在に至る民族紛争へと繋がってきている。

詳細まとめ

古代

ボスニアには新石器時代より人類が居住し始め、インドヨーロッパ語族のイリリア人が暮らしていた。しかし、紀元前229年よりローマ帝国との戦争が始まり、ローマ帝国に併合された。それ以降、ローマ帝国に対して先住民であるイリリア人が幾度となく反乱を起こし、反ローマ帝国運動のコミュニティであるイリュリクムは、イリリアの大反乱として知られるパンノニアの反乱を起こした。ローマ帝国時代は、世界中からラテン語を話す入植者が移住し、ローマ兵士の現地での居住も奨励した。

6世紀になると、スラブ人が定住し始め、ローマカトリックと正教会による激しい布教合戦が繰り広げられた。その後、この地域はビザンツ帝国やハンガリー王国といった地域紛争によって政治的に混乱を極めていたが、12世紀に入るとボスニア王国の支配下に組み込まれることになった。

ボスニア王国では当初、先住民族のキリスト教諸派により、ローマカトリックが異端として迫害を受けていた。それは、原始キリスト教が社会的弱者の地下教会から始まった運動であり、権力に組み込まれたローマカトリックを拒否していたという経緯もあった。しかし、ハンガリー王国の圧力によって、国王はローマカトリックの許可について自国のキリスト教指導者たちと会議を開き、1203年にローマカトリックの布教を認めるに至った。翌年に国王が死去すると、ハンガリー王国はボスニアへ侵入を開始するが、1254年まで争いを続けた結果、失敗に終わった。

中世

15世紀後半までにはボスニア・ヘルツェゴビナの全域がオスマン帝国の支配下に入る。正統派のキリスト教勢力から弾圧を受けていたボゴミル教徒たちの多くはこのときイスラムに改宗した。またこのほかにもイスラム教に改宗した現地のスラヴ人、トルコなどから移り住んでボスニア・ヘルツェゴビナに定着したイスラム教徒などによって、この地方ではムスリムの人口比率が高まった。サラエヴォはオスマン帝国のボスニア州の中心となり、宮殿が築かれ、帝国の州知事たちによってオスマン風の都市建設が進められた。多くの住民がイスラム教を受容していたことや、その戦略的重要性のために、ボスニア・ヘルツェゴビナでは他のバルカン諸国に例がないほど文化のトルコ化が進行した。16世紀から17世紀にかけて、オスマン帝国がハプスブルク帝国、及びヴェネチア共和国と戦争を行った際に、ボスニアは重要な前哨基地としての役目を果たしている。

近代

19世紀後半、オスマン帝国の衰退に伴い、バルカン半島はオーストリア・ハンガリー帝国とロシア帝国の勢力争いの場となる。1875年にボスニア蜂起が起きると、この反乱を口火として露土戦争が起こった。戦後、ロシアの南下政策にオーストリアとイギリスが反対したことにより1878年に開かれたベルリン会議によって、オーストリアはボスニア、ヘルツェゴビナ、サンジャクのオスマン帝国主権下の施政権を獲得する。オーストリアは1908年、ボスニア、ヘルツェゴビナ両地域を併合した。このことがセルビアの大セルビア主義や、汎スラブ主義を刺激し、第一次世界大戦の一因となる。第一次世界大戦後、サン=ジェルマン条約 によりオーストリア・ハンガリー帝国は解体され、セルビアの南スラブ連合構想に基づいてセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国が建国されると、ボスニア、ヘルツェゴビナはその一部となった。

第二次世界大戦期

第二次世界大戦時、ボスニア・ヘルツェゴビナの大部分は、ナチス・ドイツの傀儡ファシスト国家であるクロアチア独立国の支配下に置かれた。クロアチア独立国の支配下では、クロアチア人の民族主義組織ウスタシャによって、セルビア人はユダヤ人、ロマ、反体制派などとともに激しい迫害を受け、数万から数十万人が各地で殺害されるか、強制収容所に送られて殺害された。また、これに対抗したセルビア人の民族主義者チェトニクによって、クロアチア人やボシュニャク人が大量に殺害された。この時代、フォチャをはじめとする各地で、ウスタシャとチェトニクによる凄惨な民族浄化の応報が繰り広げられた。これらの民族主義者や、ナチス・ドイツ、ファシスト・イタリア等に対して、多民族混成の抵抗組織としてパルチザンが結成され、ボスニア各地で戦いを繰り広げた。パルチザンによるユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)の第1回の会合はビハチで、第2回の会合はヤイツェで行われた。

社会主義時代

ユーゴスラビア連邦人民共和国が成立すると、1946年にボスニアおよびヘルツェゴビナ地方には、ユーゴスラビア連邦の構成共和国の一つとしてボスニア・ヘルツェゴビナ人民共和国が誕生した。戦後、共産主義国家として誕生したユーゴスラビア連邦では、クロアチアやセルビアなどが民族ごとの国家として誕生したが、多民族による混住が進んでいたボスニアでは特定民族の国家をつくることはできず、地域的な共和国としてボスニア・ヘルツェゴビナが置かれた。ユーゴスラビアがソビエト連邦と決別してからは、ユーゴスラビア独自の自主管理社会主義が導入され、経済活動や政治的権利はより下位の単位に移管されていった。

ボスニア・ヘルツェゴビナのボシュニャク人たちは、多くの場面でセルビア人、クロアチア人、あるいはトルコ人と名乗っていたが、固有の民族「ボスニア人」としての扱いを求めていた。1974年にユーゴスラビア連邦の憲法が改定された際、ボスニアのムスリムは「ムスリム人」の呼称で独自の民族とされた。これは、連邦の中央政府の意向によって、ボスニア・ヘルツェゴビナを多民族混住の純粋に地理的な単位とみなす上で、ムスリム(ボシュニャク人)のみが「ボスニア」の呼称を使用することに対する懸念によるものである。

長らく民族間の緊張の少ない状態が続き、都市部では多民族の混住、民族間の結婚なども進んだ。また、いわゆる東側諸国とは一線を画したユーゴスラビア独自の路線によって、言論や文化的活動に関して他の共産主義諸国よりもはるかに多くの自由が認められていた。体制批判的な映画も製作され、またサラエヴォはユーゴスラビアのロック・ポップスの一大拠点となった。また、1984年にはサラエボオリンピックが開催された。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争期

紛争終了後

デイトン合意によってボスニア・ヘルツェゴビナは、ボシュニャク人(ムスリム人)とクロアチア人主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人主体のスルプスカ共和国(セルビア人共和国)という2つの構成体から成る連合国家となった。民生面を上級代表事務所(OHR)、軍事面をNATO中心の多国籍部隊(平和安定化部隊、 SFOR)が担当し、停戦の監視と和平の履行を進めた。また、紛争中の戦争犯罪者の逮捕と起訴、民族浄化によって移住を強いられた人々の帰還支援や民族間の和解に向けた取り組みが続けられているが、住民の強い抵抗によって帰還は遅々として進んでいない。選挙では民族主義政党が勝利し、民族間対立によって政治が行き詰まり、国外から派遣されるボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表の強権発動によって政治的困難を打破せざるを得ない事態もたびたび起こっている。

2004年6月のNATO首脳会合で、各国首脳はボスニアの治安改善を考慮し、SFORの展開を2004年末で終了させることで合意した。2004年12月からはEUの部隊である欧州連合部隊 アルテア(EUFOR Althea)がボスニアの治安を維持する目的で展開している。EUFOR Altheaは順次部隊を縮小しており、当初7,000名であった兵力は2008年時点では約2,200名となっている。

宗教

ボシュニャク人の多くはイスラム教、クロアチア人の多くはローマ・カトリック、セルビア人の多くは正教会である。

言語

言語は、公用語がボスニア語、クロアチア語、セルビア語である。それぞれボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人の言語とされるが、これらの言語は19世紀から20世紀末にかけてセルビア・クロアチア語と呼ばれ、同一視されていた。多民族が混住するボスニア・ヘルツェゴビナでは、実際には、民族ごとに言語が異なることはなく、住民は民族の別に関わらず地域ごとの方言を話している。自らの話す言語に対する呼称の違いは、ほとんどの場合話者の民族自認に基づいている。セルビア語はキリル文字、クロアチア語とボスニア語はラテン文字を用いる。

文化

ボスニア・ヘルツェゴビナ2つの世界遺産が登録されている。モスタルにあるスタリ・モスト(古い橋)の周辺と、ヴィシェグラードのソコルル・メフメト・パシャ橋で、ともにボスニア・ヘルツェゴビナの代表的なオスマン建築である。建築では4つの文化圏からの支配期における影響が現れている。

料理では、多くのスパイスと大量の水を使用した料理が一般的である。料理に使用される典型的な材料としてはトマト 、ジャガイモ 、タマネギ 、ニンニク 、唐辛子 、キュウリ 、ニンジン 、キャベツ 、マッシュルーム 、ほうれん草 、ズッキーニ 、豆、梅 、牛乳 、パプリカ、クリームがある。ボスニアの料理は、西洋と東洋両方の影響を受けており、オスマン帝国やオーストリア、ギリシャといった地中海の料理が融合している。肉料理では、牛肉と羊が使用されており、バーク、ドルマ、サルマ、ピラフ、グーラッシュなどがある。

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