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クロアチア紛争

クロアチア紛争は、1990年から1995年にかけてクロアチアのユーゴスラビアからの分離独立およびクロアチア人とセルビア人の民族対立をめぐる紛争である。

経緯

第二次世界大戦期、クロアチアではウスタシャによる非クロアチア人への虐殺が行われた。それに対して、ユーゴスラビア王国に忠誠を誓うセルビア人組織チェトニックが結成され、非セルビア人に対する抵抗運動が起こり、民族浄化の応報が繰り広げられた。

第二次世界大戦後、ヨシップ・ブロズ・チトーのカリスマ性によって、ユーゴスラビア連邦人民共和国は安定期を迎えた。しかし、この安定はチトーのカリスマ性による処が大きく、1980年のチトー死後はユーゴスラビア各地において各民族の民族主義が勃興する事になる。

1990年に民主化を迎えると、クロアチアではユーゴスラビア統一維持の動きを見せつつ、独立に向けた既成事実を作り出していく。そして5月13日に発生したサッカーのサポーター同士の衝突によって、クロアチア人の反セルビア感情が高まった。

1991年6月25日、クロアチアはスロベニアと共に連邦からの独立を宣言する。これによって、クロアチア紛争とスロベニア紛争?が勃発するが、スロベニア紛争は10日間で終結する。この違いは、クロアチアにはセルビアが無視できない程のセルビア人が当時暮らしていた事も要因となっている。地域によっては、民族が混在しており、隣人同士で殺し合いを行った場合もある。

その後、セルビアの支援によってクロアチア内ではクライナ・セルビア人共和国が設立される。しかし、後の嵐作戦によってクライナ・セルビアの首都は陥落し、老若男女含めセルビア人は多数の死者を出した。(セルビア側の発表では、女性や子どもを主体とする2600人ほどが虐殺されたとされている)。

紛争によって、15-20万人近くのセルビア人がこの地域から避難等によって排除され、ボスニアのセルビア勢力下を経由してセルビア共和国へと脱出した。

人口の変化

紛争期間を通して、人口は475万人から440万人へと減少した。セルビア人の人口も激減し、現在では圧倒的少数へと転落している。戦後、十数年が経過しているが今でも人口は変化せず、人口回復が進んでいないことがわかる。

2003年には1990年の経済水準に回復し、経済が少しずつ回復傾向にある。