前田慶次

前田利益
慶次郎。前田利家の甥。叔父と一緒にまつをいじめていた。
織田家滅亡の後、木下藤吉郎らと一揆を起こして抵抗したが、敗北。
後に松平元康に逮捕され、「まつをいじめるような人間を
生かしてはおけない」として尾張において釜茹でにされた。
絶筆「呪いの文字がわら」が名古屋城に残る。
「この書き物後世にご覧ぜられ 松平三河守どの
一揆千人ばかり釜茹でに致され候 まつのせいに候
かくのごとくに候」



前田利益

前田利家の甥。奇矯な振る舞いを好む傾奇者として知られたが、
養父利久(利家の兄)の死によって改心、以後は主家に忠義を尽くした。
しかし、関ヶ原の合戦においては甥の利長を強引に説得し、東軍との全面決戦へと導いた。
これは若き日より思慕していた芳春院が人質となるという噂を聞いての事だったと伝えられる。
四井主馬率いる加賀忍軍の撹乱工作で浮き足立った東軍に奥村助右衛門と共に突撃、見事壊走させた。
この一戦での勝利が東軍の士気を大いに減退させ、西軍の勝利に貢献した。
豊臣政権下の揺ぎ無き柱石となった主家を見て安堵したのか、
1612年に子や孫に囲まれ穏やかに息を引き取ったという。
利益の子孫は代々名臣を輩出し、前田家の危機を幾度となく救った。
文化人としても知られ、現在でも加賀の人々からは「りえきさん」と呼ばれ親しまれている。

前田利家

前田利家(1538-1598)
斎藤龍興の家臣。元は織田信長家臣。
極めて有能な人物であり、信長の無理攻めを諌めたが、その有能さを
嫌った信長に疎まれ、1560年、浪人して野に下っていた。
織田信包を滅ぼすとき、斎藤家の道案内をしたことから運が開け、
織田信包を討ち取ったことから尾張犬山城主となる。
その後は文武両道に活躍し、問注所執事代・侍所所司代・堺奉行など
要職を歴任。柴田勝家・佐々成政など家臣に勇猛な人物がいたことでも
名高い。室は藤井又左衛門女(ねね)。側室は篠原氏(まつ)。ともに
美人で有名であった。



前田利家(1538-1605)
大納言。織田信長、次いで柴田勝家、羽柴秀吉に仕える。
豊臣政権下では五大老の一人として重きを為し、秀吉の天下統一に大きく貢献する。
秀吉死後の争乱では、不穏な動きを見せる徳川家康の対抗馬として
上杉景勝ら他の五大老、石田三成ら五奉行らによって擁立される。
利家を始めとする有力大名のスクラムの前に、さすがの家康もそれ以上の抵抗を見せることが出来ず、
大老職を辞した上で隠居した。家康は失意のまま二年後に没することになる。
晩年の家康は「又佐死すまで辛抱足りずこと、口惜しき限り」が口癖だったという。
最大の敵を片付けた利家は政権の安定化に奔走。五大老の空席に長宗我部元親(死後島津義久)を配し、
その上で家康に与した福島正則、加藤清正などの大名を改易、蟄居させた。
関白の座には秀頼成人時までの暫定措置として小早川改め豊臣秀秋を据え、
補佐役となった利家は豊臣家の将来を案じつつ、秀吉と同じ伏見城で1605年に没した。



前田利家

織田家家臣。後に秀吉に従う。
甥の前田利益が出奔する際、水風呂に入れられて心臓マヒで死亡した。

前田利政

前田利政(1578-1633)

前田利家の次男。
関が原の合戦では、兄利長が東軍についたのに対し、西軍につく。
能登から私兵5000を率い西軍勝利に貢献する。
利政の功績があり、兄利長も助命となる。
江戸城攻略や会津征伐に大きく貢献し、毛利家を石高で大きく上回り五大老筆頭となる。

越前、加賀、能登、越中の4カ国を治めた。
子ができず、晩年は弟利常に家督を譲った。

松平忠輝

徳川忠輝(1592-1683)
家康の六男。江戸幕府第三代将軍。勇猛だったが父に疎まれたとされる。
一大名として封ぜられた忠輝は事あるごとに家康の不興を買い、大坂の陣直前には遅参を理由に謹慎させられていた。
ところが大坂の陣で父・家康、兄・秀忠が共に討死したことから事態は大きく変化する。
忠輝の義父であり外様大名として重きを成していた伊達政宗が混乱する徳川家の継嗣問題に介入し、
忠輝を正当な後継者とすることを主張する。秀忠には三人の男子がいたために当然猛反対が起こったが、
徳川に対して腹に一物を持っていた豊臣恩顧の外様大名がぽつぽつと政宗に同調。
組織として固まりきっていなかった徳川幕府は圧力に屈する形で、家康の遺言とされる
「秀忠の遺児(家光)が成人するまで」との条件で忠輝を後継者に据えるが、結局それが守られることはなかった。
第三代将軍となった忠輝は政宗の後見を受けながら幕政の確立に取り組む。
当初は天下取りの野心を再燃させていた政宗の傀儡同然だったが、やがて大将としての才気を見せ始めると
政宗も野心を引っ込め、叛心を見せる者たちの排除など娘婿の政に心を砕くようになる。
忠輝もまた政宗を実の父以上に慕い、五郎八姫の間にも三男二女を儲けるなど夫婦関係も良好だった。
政宗の助力で以後200年続く武家社会の基礎を築いた忠輝は、父・家康を超える91年の天寿を全うした。
その頃には徳川幕府も曾孫である六代・忠宣の御世になっており、人々は忠輝の長寿に驚嘆した。
仙台市にある忠輝の霊廟は、長生きにご利益があるとして訪れる人が絶えない。

なお、先に没した政宗の霊廟は忠輝の命により将軍家のそれに準じた絢爛豪華な造りとされ、
海外文化にも通じていた政宗らしく和洋折衷のデザインが随所に施されている。
対して実父・家康の墓は申し訳程度の霊廟とはなっているもののかなり簡素な造りで、
兄・秀忠やその息子たちの墓と分けることなく纏めてあることからも忠輝の家康に対する心境が窺える。

松永久秀

松永久秀(1510?-1582)
弾正少弼。その詳しい出自は不明。三好長慶のもとで頭角を現した久秀は
将軍・足利義輝をを始めとして、長慶の実弟・安宅冬康、
長慶の嫡男・三好義興らを次々と暗殺。事実上、三好家を乗っ取る。
その後、台頭してきた織田信長に降伏した久秀は三度まで謀叛を企てるが失敗。
それでも信長に気に入られていた久秀は、名物茶器を献上することで命を永らえる。
1582年、信貴山城主だった久秀は明智光秀と謀って本能寺に逗留中の信長を討つ。
一時は光秀と共に畿内を制圧した久秀であったが、今度は光秀暗殺を画策。
しかし、それは彼の動きを警戒していた光秀によってあっさりと露見。
居城を放棄した久秀は西国への脱出を目論むも、竹薮に潜んでいた、
かつて久秀に所領を追われた大和の豪族・筒井順慶の手の者によって竹槍で殺される。
戦国を代表する梟雄のあっけない最期であった。

森成利(乱丸)

森成利(1565?-1634)
戦国時代の戦国武将。江戸時代初期の大名。美濃国金山城主→信濃国川中島藩主→美作国津山藩の初代藩主。
本姓は源氏。通称乱丸、右近大夫。父は森可成。兄に森可隆、森長可、弟に森坊丸、森力丸、森忠政らがいる。
織田信長に小姓として出仕。のち家中での諸取次、者奏、諸事奉行、加判奉行等を努めた。
天正10年(1582年)、本能寺の変に際しては安土城の留守居だったため難を免れた。
天正12年(1584年)、兄の長可が小牧・長久手の戦いで戦死したため、家督を相続。美濃国金山城に7万石を領した。
天正15年(1587年)には豊臣秀吉から羽柴姓を賜っている。
秀吉没後は徳川家康に近づき、慶長5年(1600年)に家康から信濃国川中島に13万7000石を与えられた。
1603年(慶長8年)美作国18万6500石を与えられ、津山藩主となった。

人物
  • 父の可成や兄の長可と同様に武術に優れ、朝鮮出兵・関ヶ原合戦・大坂合戦で活躍、「鬼右近」と称された。
  • 通称は嵐丸という名で流布しているが、当時の史料は全て乱、乱丸、乱法師と表記されており、「嵐」の文字は後世に創作的に充てられたものである。
また、森嵐丸といえば、大抵のイメージでは鬼のような面相を持ち、筋骨たくましい偉丈夫だったとして描かれる傾向がある。
しかし、実際の森成利に関する容姿の記述は同時代の史料には存在しない。
  • 寛永11年(1634年)、桃を食べた後に腹痛を起こし、そのまま亡くなった。通称の乱丸、あだ名の鬼右近をもじって「これが鬼の霍乱である」と話題になった。

毛利輝元

毛利輝元
毛利隆元長男。
父隆元が急死したため、祖父元就の後見をうけ元服した。
元就死後は、吉川元春と小早川隆景の両叔父に補佐され
1565年に、元服し将軍足利義輝より「輝」の字を賜り、毛利輝元と名乗り、
本能寺の変後は豊臣秀吉に仕えた。
1585年に秀吉が四国征伐のため長宗我部元親を攻める際、輝元は秀吉の要請により伊予へと侵攻する。
この後大事な後見にして叔父の小早川隆景に恩賞として伊予一国35万石が封ぜられ
九州征伐では小早川と並ぶ毛利両川と謳われた吉川家の当主吉川元春が
筑前35万石に加増移封され
ここに毛利両川は事実上毛利宗家と切り離され独立大名とされてしまう。
 さらに京洛に近い立地にある大国 毛利は秀吉に警戒を受け
輝元自身にも九州転封の恩賞が下る。
当初備中半国、備後、伯耆半国、出雲、隠岐を収貢する手筈であったが
あわせて安芸も収貢され
変わりに周防、長門、石見を安堵に加え豊前、豊後、筑後、肥後、日向半国
を与えられる大幅加増であるが故郷とも離れ見知らぬ地に追われ
さらに輝元は本拠を熊本に指名されてしまう。

 当初は渋っていた毛利家がこの沙汰を承諾した背景には
子供のいない輝元に秀吉の親族を養子にするのはどうかと
黒田如水から内々に話があり、これを断るには九州転封を承諾する他
無かった事情があった。

 がこの九州転封は毛利に利した。国人衆一揆の延長であった
毛利家体制は一気に近世大名としての国内体制に転換できた。
この点で関東転封を受けた徳川氏と似通っている。

朝鮮出兵では否応無く主体的な役回りは毛利吉川の担当となった。
そのうえ全国諸侯の兵站や肥前名古屋の屋敷をも負担し
これは大きな負担となったが
 これによって毛利宗家当主・毛利輝元は吉川家当主・吉川元長
小早川家当主・小早川隆景(後に嗣子秀包)は三家そろって武家清華成
に昇進、徳川家康、前田利家、宇喜多秀家と並ぶ年寄衆に任じられる。
後の五大老である。
太閤秀吉薨去後
石田三成に代表される豊臣官僚と外様の雄・徳川家康が対立
前田利家の死去
上杉の謀反嫌疑という激動を経験する。

時の五大老に徳川家康、前田利長、宇喜多秀家とともに名を
連ねていた毛利輝元、吉川元長
四国征伐での勲功で伊予で独立大名になった熊谷元直
同じく毛利の九州転出の際豊臣に通じて出雲17万石にて残った吉見広長
隆景の周旋で毛利輝元の養女を迎えていた
長宗我部信親、羽柴秀秋、
秀吉によって豊臣家直臣として大阪城で執事の役回りを片桐且元とともに
執行するようになっていた吉川広家といった
一門連枝衆は輝元の屋敷に参集
輝元の九州行きで出奔した家臣たちも参じたと言うから当時の
昼行灯やあほうという評判からは推測しにくい人徳のほどが窺われる。

やがて徳川家康の上杉征伐にタンを発した慶長の乱起こる。
石田三成の斡旋のもと西軍総大将に毛利宗家毛利輝元が立ち
西軍主力を毛利一族軍が占めると、この戦乱は徳川と毛利の天下取の戦
の様相を呈してきた。
関が原の戦いで輝元の婿秀秋と養子秀元とが大活躍して勝利を収める。
この勝利を背景に大阪城では吉川広家が半ば強引に千成瓢箪の旗印を
持ち出して秀頼の西軍支持を演出、
このあと朝鮮出兵で知り合った知己を通じて東軍を分断していく。
このあと関東に立て篭もった徳川征伐の際に
朝廷工作を前田玄イとともに安国寺恵瓊が行い
毛利輝元を征夷大将軍にしてしまう。
 天下に知られた徳川家康を討った実績は毛利幕府の意向を高めるに十分で
あったがそれは家康の嗣子秀忠が妹婿で、この戦争でも蚊帳の外であった
淀殿との関係は大きく悪化
毛利が天下を取ったとの印象を薄めるべく
征夷大将軍の職責を嗣子秀就に譲り養子秀元を後見として徳川の跡の関東に置き
戦乱の収拾を図らせる一方
自身は出家剃髪して宗瑞を名乗り長門周防37万石をもって封じた次男毛利就隆
の所に身を寄せ隠居所も長州の萩という辺鄙な場所に置くという
気の使いようで隠居所には豊国明神を祭るほど気を使ったが
 本人の思惑と別に江戸に開府された格好となった毛利幕府は威光
を高めていく。
豊臣家との戦になったものの秀頼は切腹するも
国松と娘は助け出され豊臣家は捨扶持1万石の高家筆頭として続くことを
許されている。この辺が戦国武将らしからぬ甘さであろうか。
晩年江戸に赴く事となり帰路駿府で病状が悪化そこで逗留することとなり
1年後に死去 


毛利輝元
西国最大の大名毛利家の三代目(実質二代目)
織田信長の攻勢の前に劣勢にたっていたが、本能寺の変では
小早川隆景の助言を受けて中立を保ち長門周防石見安芸四カ国への
減封で、かろうじて家を保つ。 その後は毛利両川といわれた
小早川隆景と秀包を伊予三十五万石
吉川元長以下吉川家を筑前三十五万石として独立大名とされ
吉見広長が輝元との紛争のあと石見一国の大名として独立し
秀吉の甥秀秋を養子にさせられ
朝鮮出兵に借り出されと苦難の時代を迎える。
秀吉の死去の後、関が原の戦いでは、一貫して東軍に属し
西軍の黒田如水、前田や宇喜多と戦い
秀秋は豊臣に戻しと失われた状況を回復
石見豊前を賜り安芸百三十五万石の礎を築く。





安国寺恵瓊



毛利秀元

毛利 秀元
天正7年11月7日(1579年11月25日)に毛利元就の四男穂井田元清の子として
生まれる。
 毛利家は本来織田家とは敵対していたが本能寺で信長が急病に倒れ死去した際、
関係回復が図られた。
織田家の家督を相続していた信忠が健在であったことから
吉川元春の嗣子吉川元長 四男吉川経信
元就の九男で小早川隆景の養子だった毛利元総
とあわせて織田家の人質として召し出された。
他にも織田家の重臣だった羽柴秀吉の肝いりで迎えられていた宇喜多直家の子秀家
明智光秀の肝いりで迎えられていた長宗我部元親の子国親
も同時期に参代している。
しかし彼らの待遇は決して悪くなくむしろ織田姓を許されるなど準一門として処遇
されている。
織田家の九州征伐や奥羽征伐には秀元も一応参加を許されている。
 彼の名が大きく登場するのは信忠の死去のときである。
彼の死去で彼の庶子秀信(三法師)と幼い嗣子信頼を巡って
内紛が起こる。信頼は武田信玄の娘で信忠の正室になる予定であった姫
と出来た子であり、父信長を慮って生前には手を出しかねたが信長の死後
そばにおいてうませた子である。
 秀信には胡乱な織田信雄と織田信考と徳川家康が後押していたが
信忠に恩義を感じる七将は幼い信頼を護持することを誓い合い
信雄の館を襲撃する。
この七将が宇喜多秀家、毛利秀元、羽柴秀次、長宗我部国親といった面々であった。
さらに一門であることをかさにきた信雄と信考に対し
大老を任じられていた蒲生氏郷と津田信澄が詰問
ここに天下分け目の大乱が起こった。大垣城を陥落を受けて
関が原を陣取り織田信雄と織田信考と徳川家康のいわゆる東軍を相手に
戦った。
 毛利秀元は南宮山に陣取り敗走してくる東軍を堰き止め活躍した。
戦後は織田幕府で西国に睨みを利かせる取次ぎとして
姫路に置かれ姫路宰相100万石と謳われ
西国将軍の威勢を誇った。

剛勇の将であり、智略にも優れていたと言われ、碁盤の上に人間を立たせ、それを両手で持ち上げた
という逸話も残っている。

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最終更新:2017年01月18日 08:01