ND

水幡氏が批判する「ND」

ネオダーウィニズムとはこういうものだ、と水幡氏が考える学説のことを、水幡氏は「ND」と呼ぶ。またその「ND」を信奉する、非常に統制の取れた悪辣な学派が存在すると考えており、それらを水幡氏は「ND派」と呼ぶ。



「NDの主張」について

水幡氏は、「NDの主張」としていくつかの説を挙げ、攻撃している。その「NDの主張」は、間違っているか無意味なものであり、所謂現在の進化生物学者が実際に主張しているものではない。
何度解説したり訂正したりしても、それを無視したまま、同じように攻撃を続けることから、わざと「ND」を曲解し攻撃することで、相対的に自分の優位性を保とうとしていることがわかる。意味解かりますか。私は解からない。

「自然選択は後出しジャンケン」

水幡氏によれば、こういうことらしい(水幡ブログ07/02/15)
("neo darwinism"は)個体のランダムな変異(突然変異)と、個体間の生存競争で進化が起こるという考え方です。この考え方では、生物は個体単位の適応度(ゲノム・コピー率)を上げることで進化するとなります。
前半は「生存競争」がある種の「比喩」であり、繁殖成功度も含めた広い意味であることを弁えているなら一応正しい理解。後半も、適応度の変異=自然選択が進化をもたらす(場合がある)ことを比喩的に言ってるなら正しい理解(当たり前だが、生物個体が適応度を上げて進化するわけではない)。でも、水幡氏はこういう比喩的表現と厳密な表現の使い分けが出来ない人だから。
ある特定の形質個体が「適応度(ゲノム・コピー率)を上げる」ということは、その形質を持った個体が集団内に広がるということで、「進化が起こる」ということと等しい。
つまり、NDのいう「自然選択(=適応度を上げること)で進化が起こる」とは、「進化が起こる(=適応度を上げる)」ことで「進化が起こる」と言っているに等しい。これでは結果で結果を表しているだけで説明ではない。
このように「進化した」という結果があれば、すべて自然選択(適応度を上げること)で進化したと言えてしまうロジックは、別名“後出しジャンケン”ロジックである。
「言えてしまう」わけないでしょ。
適応進化と思しき現象があったら、研究者は、適応度の変異が実際にあるかを定量化したり、どのような形質と結びついているか、どのような生態的プロセスを通じて現われるか、どのような遺伝的背景を持っているかを調べようとする。後出しジャンケンだのトートロジーだのと言う人は、実際の研究論文を読んだことがない人。
水幡氏に論文読めは酷だと思うが、「フィンチの嘴」すら(勧められても)読もうとしないんだから。
水幡ブログ2007/05/18では
(S氏の説明)
(1) 個体間に変異がある individual variability
(2) その変異は遺伝するものである(世代間で受け継がれる情報の継承がある) information inheritance
(3) その変異に応じて、繁殖や生存に有利・不利が生じる fitness difference
条件(3)については、特定の機構は何も説明していません。———何であろうと、結果として、有利・不利が生じればそれでいい、というのが、自然選択の基本ロジックです。
を次のように批判している。
要するに生物の内的機構論がなくても「結果論」で説明するのがNDの基本ロジックである。そういうことでしょう。私はこれをして「ND=後出しジャンケン」と批判しているのであり、誤解も何もしていません。NDに内的機構論がないことに変わりないのであり、これでは反証可能性のある科学理論にはなりません。
「特定の内的機構を前提としてない」のと「内的機構がない」のとは違うんだけど。内的機構は個々のケースによって違うし、個別に検証しなくてはいけない。

「雌雄や自種他種に関係なく生存競争」

雄雌や自種他種に関係なく生存競争しちゃったら、「種が変わる」以前に、種が維持できない
(「博之氏が」スレ 535)
ダーウィンのいうように、同種の雄雌が、雄雌関係なしに生存競争してしまったら、雌はいなくなり「交配集団(種)」も消滅するだけです。
(同スレ 463-464)
生存競争→雄が雌のエサを奪う→雌飢え死に→雄が交配したくても相手がいない→種が死んじゃう!
ということらしい。薄々「そうかも」と思っていたが、あまりに初歩的な誤解なので、本人が書くまでは口にするのもはばかられたが。
もしかしたら、水幡氏の進化論の最初の思いつきに近いものなのかも知れない。
生存競争をキチンと言い直せば、「適応度の個体間変異」だ。適応度という尺度を取ることにより、雌雄間、同性間、種間といったさまざまな関係における利害を統合的に定量化する。これらの関係は、しばしばトレードオフを示すし、トータルとして次世代への寄与に効いてくるので、このような統合は不可欠だ。この文脈で「生存競争には雌雄も種間も関係ない」と表現することも(いささか雑駁な表現だが)あり得るが、それを「生存競争のあり方は雌雄間でも同性間でも種間でも同じ」と取るのは、「E=MC^2」を「質量とエネルギーは同じものだ」と取るのと同レベルである。

「起源論の誤り」

水幡氏の進化論の原点であり、河宮氏との共闘関係のあいだは抑制してきたが、2004年以降、再び声高に主張するようになった。NDのみならず近代思想全般の根本的な「中学生でも分かる」誤りだという。
Yahoo掲示板登場早々に(1317)こんなことを書いて以来の主張である。
「種の歴史」の「種」とはもちろん生命誕生(もとは一つ)である。だったら「種の起源=種分化」という考え方とは決定的に対立したはずである。種分化に始まる「人類の起源」など、認められるはずもない。
「人類の起源」などダ-ウィンが「種の起源=種分化」としたから出てきた用語法だ。自然科学的に言えば「種の起源」は生命誕生にある。ところが「種」である「人類」の「起源」を“生命誕生にある”とは誰も言わない。
「こんなの、ただのコトバ遊びじゃん」といわれ、反響はほとんどなかったが、ほとぼりが冷めたころ、再び前面に押し出し始める。
Yahoo掲示板6606より
時系列上で種が変わるとした進化説で、どうして人間の起源がヒト科の動物になるのでしょうか?どう考えてもおかしいじゃないですか。生物学的ヒト起源は、ゲノムの複製過程を遡ったところから定義されるべきでしょう。何で生命誕生が生物学的ヒト起源にならないのでしょうか?
最初の生命誕生のことは「生命の起源」と言いますよね、、。だったら最初の交配集団(種)の誕生を何と呼ぶのですか?「種の起源」以外に呼び方がありますか?
ふつうは「有性生殖の起源」という。種=交配集団という定義(生物学的種概念)は個々の種を判別する基準の1つに過ぎない。
「起源」という言葉は、そもそもそれ以上を遡れない存在を表す言葉だ。だからヒト起源が700万年前なら、ヒト祖先はそれ以上遡れないと勘違いしてしまう。実際にはヒト祖先は恐竜時代に遡れるのに、遡れないと勘違いするのは、「起源」の用法を誤っているからだ。(中略)「種の起源」は言葉の用法を誤っていませんか?誤っていないなら、最初の種の誕生を何で「種の起源」と呼べないのか説明してください!!こんなこと小学生でも分かる“用語法の誤り”ではないか!!!
あの~、途中で「ヒト」が「ヒト祖先」に変わっちゃってますけど。「ヒト祖先の起源が700万年前」は確かにヘンだね(日本語になってないし)。遡れないと勘違いするのは「ヒト」と「ヒト祖先」の区別ができない水幡氏だけである。

サル意識からヒト意識の進化を認めない。

「意識の進化」とは、「脳で演算して行動解を算出する過程」 が、高度化することに他なりません。 何で原猿から真猿、真猿から類人猿、類人猿から直立類人猿(猿人)、 直立類人猿からヒトへの進化を認めるのに、「意識の進化」は認めないのでしょうか?ヒトになったら、いきなり「ヒト意識」が登場するでは、 それは進化を認めた科学の議論ではありません。
(新今西スレ5 538)
→「理性(意識)」は、もともとヒト固有というところから定義されている。それで「ヒト起源は最初のヒト」でないと、最初のヒトから理性(意識)があったという「近代的ヒト(人間)定義」は崩壊する。
水幡ブログ20071019
水幡氏によれば、理性=意識=脳で演算して行動解を算出する過程、らしい。
ダーウィンは、いくつかの著作において、思考や感情、倫理のような「心」の特徴を、自らの進化論の枠組みから解釈することを試みている。
進化の一般則を認めるなら高等動物の心的能力(人類のものと同種ではあるが、程度の差は大きい)は進歩し得るものだと認めるに違いない。高等なサルと魚の間、アリとカイガラムシの間には、心的能力に大きな断絶がある。(しかし)それは驚くに当たらない。家畜を見ても、心的能力に個体差があり、しかも遺伝する。そして、自然界で(心的能力が)生死を分ける重要性を持つことも疑いがない。自然選択を通じて進化する条件は揃っているのだ。
(Darwin, C. R. 1871. The descent of man, and selection in relation to sex. London: John Murray. Volume 2 p.390) http://darwin-online.org.uk/で読める。
上の記述にあるように、水幡氏流の「意識」やら「理性」やらの進化は、ダーウィン自身が厳密なかたちで論じている。
このことを指摘された(新今西スレ5 562・564・567)水幡氏は、次のように述べる。
もともとヒト特有とされた「意識」は、「ヒト起源」が「類人猿との差異化の起源」なら、それ以前に遡ることができない。これは時系列上で変わる各種(ステージ)の生物意識が進化するという考え方を遮断する「ヒト起源」である。「ヒトはその起源からヒトであった」いう創造説まがいの起源論は、「意識の進化」を認めていないと同じである。つまり、種を定義しないで組み立てた「ダーウィン進化論の枠組み(ダーウィン・パラダイム)」は、「意識の進化」を認めていないのである。
(新今西スレ5 619)
また、「ヒト起源から前へはさかのぼって考えられない」に戻ってしまう。だから、「さかのぼれないのは水幡氏だけ」なのだが。

「行動遺伝子」の欺瞞

専門家が「いや、行動遺伝子があるんだ」と言えば、「新今西」は「じゃあ行動遺伝子は脳にどういう回路で指令するの?」と問う。すると専門家は答えられない。それで「新今西」は行動遺伝子、なかでも「好み遺伝子」などは存在せず、配偶者選択を行う機構は脳システムそのものであると主張する。
「性選択」はダ-ウィンとNDでさえ、その機構をめぐって見解が違う。ダ-ウィンはクジャクの尾羽などの例では「美意識」を認めている。これに対してNDは“好み遺伝子”などという究極の“オバケ”を持ち出して説明している。
オイ、オイ、AかBかCかの雄のうちどの雄を選ぶかというのに、DNA二重螺旋を解いているヒマがあるのか。DNAから直接脳神経細胞に指令を出すというアクロバットを主張するなら伝達経路はあるの?あったとしてミクロ的なエネルギ-パタ-ン(コドン)を、マクロ的なエネルギ-パタ-ン(シナプス発火)にどう変換するの?。
だそうだ。遺伝子の発現についての基本的な知識が欠如している事がうかがえる。
もちろん、生物学で使われる「行動遺伝子」は、「行動を支配する遺伝子」あるいは「行動多型を支配する遺伝子」を意味する。この点は、EVOLVEでもYahoo掲示板でも繰り返し指摘されている(ex. Yahoo掲示板14841507)
しかし、水幡氏は拒否している。その理由は
(「行動に支配的な影響を与える遺伝子」を)「行動遺伝子」と呼んでよいならばどうなるか。脳というハードウェアの形成に関与する遺伝子はすべて「行動遺伝子」ということになる
新今西説では(中略)動物個体を「種社会ソフトウェア」と「ハードウェア」に分けて考えている。そして個体の「ハードウェア」を生成する、すなわち個体発生を制御する情報系が種ゲノムシステム(遺伝プログラム総体)であり、個体の行動を制御する情報系が「種社会ソフトウェア(脳プログラム総体)」となる。
ゲノムについては既存の生物学と同じであるが、個体の行動制御に「種社会ソフトウェア(脳プログラム総体)」を設定している点が違う。既存の生物学は一情報系(ゲノムのみ)で、個体の行動まで遺伝子に還元している(行動遺伝子)。もちろんこれは、遺伝子に還元できない学習が行動に関与している以上、誤った設定以外の何ものでもない。
水幡ブログ2006/06/28
と、「支配する」の遺伝学における意味を解しない「言いがかり」である。
「行動(正確には行動多型)を支配する」とは、「対立遺伝子の違いによって行動に違いがもたらされる」という意味で、体色や性格形成に関わるすべての遺伝子が「体色遺伝子」「性格遺伝子」と呼ばれるわけではない。確かに、非専門家にとっては誤解しやすいところだが、実例で分かりやすく説明されても水幡氏は聞く耳を持たない。
水幡氏のこのような態度は、「遺伝子→ハードウェア/ソフトウェア→行動」という二分論を死守して、「種社会選択」が性選択のサブセット(あるいは劣化コピー)であることを隠すため、と考えられる。ハードウェア/ソフトウェアの二分論を維持するために編み出された概念が「ダウンロード」であり、その具体的内容について水幡氏は決して答えないし、アイデアも持っていないようだ。
同様に、二分論死守のために編み出された用語として「種社会伝承」がある。行動を学習によるものと学習がいらないもの(ふつうは先天的ないし生得的と呼ぶが、水幡氏は「史得的」と呼ぶ)にわけたとき、後者は遺伝ではなく「種社会伝承」によって次世代に伝わっていく。種社会伝承の実体(特に遺伝との違い)についても、水幡氏は説明しない。

「種を定義しないで種の進化を論じる」

「種を定義せずに種が変わること(進化)を無理矢理説明した」ダーウィン進化論など、デタラメ以外の何ものでもない
2ch「博之氏が」スレ535

たしかにダーウィンは『種の起源』において明確な「種」の定義をしていない。しかしそれはダーウィン自身も認識していたことである。
また私はここでは、種という術語にあたえられてきたさまざまな定義について議論することをやめる。すべての博物学者を満足させた定義は、まだ一つもない。
(『種の起原』(八杉龍一訳) 岩波文庫 p.65)

そして、『種の起源』においてダーウィンがみずから「種」を定義する必要は実はなかったのである。というのも、ダーウィンは、ナチュラリストが分類していた「種」が変化することを立証すればよかったからである。
そう,「種」を知っているのはナチュラリストに他なりません。「それ」が時空的に変化することを証明しさえすれば,ダーウィンの目的は達成されたのです。ダーウィンみずから「種」の定義を与える必要はありませんでした。
三中信宏(1999)「ダーウィンとナチュラルヒストリー」(「現代によみがえるダーウィン」文一総合出版)

また、ダーウィンは、「種」が「変種」(亜種)と本質的に差がないとも指摘している。
以上に述べたところで、私は種という語を相互に近似している一連の個体に便宜のため任意に与えられたものと見なしていること、およびそれは、それほど著明でなくまたもっとばらつきの多いものにあたえられた変種という語と本質的にちがうものでないとみなしていることが、諒解されたであろう。
(『種の起原』(八杉龍一訳) 岩波文庫 p.75-76)

水幡氏は、マイアの「生物学的種概念」をもって「種」は明確に定義でき、ダーウィンは誤っていたとする。確かに、水幡氏の主張通りMPRが変化することにより種が不連続に進化するのであれば、「生物学的種概念」は動物種において万能な定義になり得るだろう。しかし、水幡氏はそれを実証するような具体的な観察データなり実験データなりをいっさい提示できていない。
生物学的種概念は一定の有用性をもつと広く認められているものの、限界もまた指摘されている。提唱者のマイア自身も、(1)無性生殖生物、(2)隔離されて種分化しつつあるような個体群への適用において限界があることを認識していた。[マイア(八杉・松田訳)(1999)「これが生物学だ」シュプリンガー・フェアラーク](2)の例の一つが、輪状種である(たとえばIrwin et al.(2005))。また、植物では自殖や無性生殖、種内倍数性がごくふつうに見られ、生物学的種概念だけでは種の認識ができないケースが多い。
生物学的種概念は決して万能ではないのである(生物の種とは何か(C.ジンマー))。

水幡氏の議論は、未実証の自説(MPRによる進化)を前提にして現実と合わない定義(生物学的種概念)を支持し、それを対立説(ダーウィン説)を棄却する根拠としよう、とするものだ。要するに「水幡説が正しいから、ダーウィンは間違っている」と言ってるだけ。「後出しジャンケン」はどちらであろうか?

そもそもマイアは「20世紀のダーウィン」とも称される人物であり(ハーバード大学の追悼文)、マイアの言説をもってダーウィンを否定するというのはかなり大胆であると言っていいだろう。

水幡氏の考える「ND派」

上述の「間違ったNDの主張」を、保身のために強弁し、反対する水幡を弾圧する悪の集団が、「ND派」である(注意: あくまでも水幡氏の脳内のヤツで、実在の個人・団体とは関係ありません)。

「ND派」の内実

  • 総本山は日本のNDを信奉する研究者が結集する日本進化学会であり、公認の進化学説もこの学会が決めている。この学会の幹部は絶大な権力を握っており、日本生態学会のプログラムから岩波書店の編集方針も、進化学会の掌中にある。
  • 学会大会ではNDによる「学会戒厳令」が布かれ、水幡氏が主催する自由集会やシンポジウムをあらゆる手段で妨害する(Yahoo!掲示板 599612936, 水幡ブログ2007.4.24)。
  • 進化学会がNDで固まっている限り、日本の進化学の学術雑誌(その代表は『Ecological Research』)や総合学術雑誌(その代表は『科学』)に反NDの論文が掲載される見込みはない。
  • 進化学会の公式MLは「evolveML」と「QshinkaML」である
  • ただし、進化学会のメンバーといえども一枚岩ではなく、とくに水幡氏の活動によってNDの欺瞞が明らかとなった今では、およそ3つのグループに分裂している。若手にはNDの欺瞞を認めたいが幹部の締め付けにより表だった行動をとれない「反ND若手」が多い。幹部の多数派は自己保身のためにあらゆる手段を使って欺瞞を隠し通そうとする「ND守旧派」である。また、水幡氏との決定的な対立を避けてゆるやかに学会の方向転換をしたいと考えている「リベラル派」が、少数ながら幹部にもいる。
  • ND守旧派が権力を握りながらも、リベラル派の主張が通るときもあり、そのパワーバランスは、新今西の動向に機敏に反応する。例えば、「evolve論戦」はリベラル派の台頭と守旧派の反動を巻き起こす一大イベントであった。他に、水幡氏のブログ記事、掲示板や2chでの書き込み、などに対応した例がある。
  • 当然、ND守旧派は、水幡ブログや2chやYahoo掲示板を日々監視しているし、息の掛かった若手を送り込んで書き込みをさせることもある。
  • 反ND若手は、水幡氏支持を表明できずにストレスが溜まっている。彼らが唯一自由意志で発言できる場が2ch新今西進化論スレである。水幡ブログに支持のコメントをつけるときは、保身のためにNDへの忠誠を「斜め読み」や「Vターン読み」で織り込まざるを得ない。ただし、縦読みは守旧派の罠である。

「ND派」の陰謀

「ND派の陰謀」についても、水幡は幾つかのパタン化した主張をしている。
  • 学会での妨害・「戒厳令」(上の項参照)
  • Yahoo!掲示板の議論参加者を弾圧(「監禁・恫喝・洗脳??」)した。(6006, 6579)
  • 「反ND若手」を監禁(2ch 新今西進化論6 29,58; 博之氏が「進化論革命」のカギ 2)

「ND派」の陰謀(小ネタ編)

NDは、意外なほどセコい策動もする
◆警告!◆勝手に水幡正蔵のコードネームを使うな!◆◆
みんなでいっせいにsayonara1859で書き込むというND派の陰謀なのか!?
2ちゃんねるまでND派によって弾圧されていくのか!?
(新今西進化論スレ2の407)
  • 水幡のメルマガ作戦を妨害するため、日本生態学会の会員名簿を廃止させようとした(2ch 新今西進化論4 660,675)。
  • 水幡のメルマガの配信拒否を申請するように、水幡メルマガの配信先に電話をかけまくる。
まあ、さっきのTさんの一件で、ND守旧派が今頃、必死で電話をかけまくっている姿が思い浮かぶ、、。もう、、「悪あがき」はいい加減にしたらどうなんだ、、。
(2ch 新今西進化論4 789)
  • この「まとめサイト」をつぶす。なんでND派が、「新今西」批判サイトである当サイトをつぶさないといけないかというと
 もっとも、いくら「まとめサイト」が新今西説や水幡を誹謗・中傷しようが、市民社会はその誹謗・中傷の裏にある真実を見抜く力を持っている。
 まあ、ND幹部はその真実が、市民社会に広がっていくことを恐れて、「まとめサイト」を潰したんだと思う。
(2ch 新今西進化論6 357)
  • 「学会戒厳令」や「監禁」の実行部隊が「ND思想警察」である「白の組織」(2ch 新今西進化論6 103; 博之氏が「進化論革命」のカギ 8-12; Yahoo掲示板 12936)。というネタで2ch上で水幡氏を釣って、水幡氏の進化学会京都大会への参加を妨害する(2ch 「博之氏が」スレ498)。

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最終更新:2009年02月20日 20:45
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